『日本式 基督論』第三章 フェルナンデスの問答


 ジョアン・フェルナンデス(Juan Fernández(João Fernandes), 1526~1567)は、イエズス会宣教師です。日本におけるキリスト教宣教の第一歩を記す人物の一人です。

 フェルナンデスは、フランシスコ・ザビエル(Francisco Xavier, 1506~1552)、コスメ・デ・トルレス(Cosme de Torres, 1510~1570)、日本人アンジロウ(弥次郎, 1511?~1550?)らと1549年に鹿児島に上陸しています。彼は、アンジロウを通じて日本語を修得し、ザビエル、トルレスらの通訳を務めました。ザビエルが日本を離れた後も、トルレスを助けて布教を続けましたが、1567年に平戸で病死しています。

 彼の薫陶を受けたイエズス会士に、ルイス・フロイス(Luis Frois, 1532~1597)がいます。フロイスの『日本史』(中公文庫)には、フェルナンデスがザビエル(メストレ・フランシスコ師)に宛てた文書についての記述があります



 ジョアン・フェルナンデス修道士は、(先のトルレス師の書簡が書かれたのと)時を同じくして、メストレ・フランシスコ師に宛てて、日本人たちから提出された種々の質問に関して書き送り、その中で彼は以下のように述べている。



 ここではその21の問答を示し、それに考察を加えていきます。この問答をもって、ザビエル一行は日本での布教活動を行っていたのです。



 これやあれやの質問を呈した人々はいとも多く、彼らは朝から夜になるまで家に満ちており、コスメ・デ・トルレス師は大いなる愛情と忍耐をもって一同を満足させた。



 本当にそうなのでしょうか。宣教師は、日本人を満足させる回答を成し得たのでしょうか。21の問答について考察していきましょう。




第1問答 霊魂の材料

《問》

 デウスはいかなる材料で霊魂を創造したのか

《答》

 我らの主なるデウスは、なんらの材料も必要とはしないで、自らの意志だけで我らの霊魂を創造された

《考察》

 霊魂は、各種の宗教で問題となる概念です。仏教では、霊魂は輪廻転生を繰り返し、そこからの解脱(生まれ変わりというシステムからの脱却)が目指されることになります。ここではもちろん、キリスト教における霊魂のあり方が問題にされているわけです。

 霊魂の創造をキリスト教の神「デウス」に行わせることによって、霊魂の存在を自明としている他の宗教より、キリスト教の方が優れていると思わせる戦略が可能となります。




第2問答 霊魂の色と形

《問》

 霊魂にはいかなる色と形があるか

《答》

 色や形は元来、物質的なものであるから、霊魂にそういうものはない

 空気は物質的なものなのに色がないならば、物質でない霊魂に、どうして色があり得ようか

《考察》

 霊魂は存在するが見えないという回答です。霊魂をキリスト教の神が創造したと言ってしまうと、その証明を求められることになります。霊魂が見えるとしたら、それを見せてみろという話になってしまいますから。霊魂には、「見える」などの科学的な証明を求められる特性があってはならないのです。キリスト教の布教のしやすさのためにも。




第3問答 デウスとは何か

《問》

 デウスとは何か、どこにいるのか

《答》

 我らは、存在しているものにはすべて初めがあることを知っている。それにより、それらは自らを自分では作り得ないこと、またそれらすべてに存在を与え、自らには初めも終りもない一原理が存在するということが明らかに結論づけられるのである。この原理を我らの言葉で「デウス」と称する

《考察》

 これは、神の宇宙論的証明と呼ばれるものです。因果律の基点である根本原因に神を置くやり方です。このやり方は、科学的な知的欲求を利用して、キリスト教信仰に導くという手法になります。

 現代では、この問題の解決が科学の分野に移っています。むしろ、このような宇宙論的証明は、キリスト教に対する不信に結びつくようになってしまっています。




第4問答 デウスの体

《問》

 デウスには体があるかどうか、また人が見ることができるかどうか

《答》

 この世にある物質的なものは、すべて元素からできている。そしてその元素はデウスが創り給うたのであり、それゆえデウスは、元素から作られた体を持つことはできない。なぜならば、もしデウスが元素から作られた体を有するならば、デウスは創造主ではあり得ないからである

《考察》

 デウスが元素でできているとか体があるとか言ってしまうと、それを見せてみろという話になってしまいます。よって、デウスには体はなく、元素から構成されているわけでもないことになります。それで、科学的な証明を拒絶することができます。




第5問答 霊魂とデウス

《問》

 善人の霊魂は肉体を離れると、デウスを見るかどうか

《答》

 その善人が肉体が死ぬ際に、もはや浄化を必要としなければ。彼はただちにデウスを見ることができる

《考察》

 これは、あなたがキリスト教徒になってキリスト教の教える善行を積めば、あなたは死後にデウスに会えますよ、ということです。

 この宗教上における設定は、現世において証明する必要がないという構造を有しています。この構造は、この構造に気付かない者への布教にとっては、非常に都合が良いものなのです。さらに、この構造へ過剰な設定を盛っていくことも有効でしょう。例えば、キリスト教の教えに正しく従わないと、地獄へ落ちて苦しむことになるとか。




第6問答 肉体とデウス

《問》

 その善人は、この世で肉体を持っている間、なぜデウスを見ることができないのか

《答》

 宝石はどんなに輝いていても泥の下に埋っている限り、光彩を放ちはしない。それと同様に我らの霊魂も、この肉体の中に固定している限りは、その輝きと視力を行使できない。したがって霊魂はこの世ではデウスを見ることができないのだ

《考察》

 これは、現世での証明要求をさりげなく回避しているやり口です。

 少し考えると、あの世での約束を何故この世でできるのかという疑問が浮かびます。その疑問に対する対応策も、いくつか用意できるわけです。例えば、神のお告げとか、死からの復活などを利用すれば良いわけです。そして、それらの手法は、キリスト教的に偉い人たちしかできないことにすれば良いわけです。




第7問答 霊魂は神々か

《問》

 人間の霊魂は体を持たないとすると、それは神神(Deozes)であり、それゆえ生まれもしないし、死にもせぬだろう

《答》

 主なるデウスは、世の中を統べ、かくも美しいことどもを司り給い、悪しきことは行ないもせず考え給うこともなく、きわめて聖にして善なる御方であるから、悪人の霊魂はあなた方が言うように神々ではなくデウスの被造物であることが明らかに判るのだ

《考察》

 ここでは、人間の霊魂が生死を超越しているのなら、人間の霊魂は神々のごときものではないかという疑問が投げかけられています。ですが、なぜか霊魂の存在に関する論議が、善悪を基にした論議にすり替えられています。そこでは、人間には善人と悪人がいることを基に論理が構築されていきます。

 善性をデウスと設定することで、善悪の性質を持つことで非デウスになるという論理です。ですが、善であるデウスの非造物が、なぜ悪を抱えることになるのかという疑問が、ここで浮かぶことになります。そのため、以降の問答では善悪についての議論が続くことになります。




第8問答 悪魔とは何か

《問》

 悪魔とは何か

《答》

 それは自らの傲慢さのために、栄光とデウスを見奉る資格を喪失したルシフェルとその他多くの天使たちである

《考察》

 善なるデウスが造ったものの中に、悪しき存在がいることに対する疑問が浮かびます。具体的には、悪魔の存在の不可解さが問われることになります。

 その問いに対する答えは、デウスが悪しきものを造ったのではなく、造られた存在が自らの傲慢によって悪しきものになったということです。そういった設定が展開されているわけです。デウスは、自分が造った天使に裏切られてかわいそうです(皮肉)。自作自演なら、かわいそうではないですが。




第9問答 悪魔の誘惑

《問》

 悪魔はなぜ人間を誘惑し、人々にいとも多くの禍を及ぼすのか

《答》

 人間はデウスの栄光のために創られたが、悪魔は自ら傲慢であったために、その資格を喪失したので、人間を羨み、人間もまたその資格を失うに至らせようと、人々を欺くよう努めているのだ

《考察》

 人間にはいい迷惑な話です。デウスは傲慢な天使を造ったということですから。このキリスト教の設定では、傲慢さゆえに堕落した悪魔だけではなく、デウスそのものに対する不信の念へとつながります。もちろん当時の日本人も、その欺瞞を突くことになります。




第10問答 傲慢な霊

《問》

 我らの主なるデウスが創造したものがすべて善きものであったならば、なぜ彼は、悪しく、かつ傲慢な霊としてルシフェルを創ったのか

《答》

 デウスはルシフェルとその仲間とを創った時に、彼らが悪と善とを認識できるように、明白な理性を、そして彼らが自分のしたいことを選び得るように、自由意志を授け給うた。それは彼らが善を選べば栄光を、ただし悪を選べば地獄を与えんがためであった。しかるにルシフェルは他の悪魔たちとともに、その自分たちに授けられた自由意志を悪用し、自らの罪責によって悪しく、かつ傲慢になった。一方善良な天使たちはそのようなことをせず、デウスに服従し、かくて永遠の栄光を獲得したのである

《考察》

 栄光と地獄を用意しておいて、さあ、自由意志によって選べとは無茶な話です。

 ここには、勝手な設定を押し付ける傲慢さがあります。しかも、その押し付けが傲慢なのではなく、道徳的に良いことだという巧妙な仕掛けがほどこされているのです。その構造を見抜いた者にとって、この設定の押し付けは、この上なく醜悪なものに見えてしまうのです。しかし、その構造に気づかない者は、キリスト教という仕組みに囚われることになります。囚われた人は、キリスト教的に善いことを(ある人からは醜悪に見えることを)、他者へ押し付けることになります。

 バクーニン(Mikhail Alexandrovich Bakunin, 1814~1876)は、『神と国家』でサタンを〈最初の自由思想家であり、世界の解放者である〉と述べています。なぜなら、〈彼は、人間に対して、その無知であること、獣のように従順であることの恥ずかしさを教えた〉からです。興味深い見解ですね。




第11問答 デウスの放置

《問》

 他の人々は、デウスが憐れみ深く、永遠の生命が得られるように人間を創造したのならば、なぜデウスは悪魔が人間に、災禍を及ぼすのを放置しているのか

《答》

 悪魔は人間に対して、人間が悪をなすよう教唆する以上の力は持ち合わせていない。ところが人間は、善悪を識別する能力と、自らが行ないたいことをする自由を持っている。それゆえ、人間が悪を行なう時には、自分が道理に反したことをしていることや、それに対して罰せられることを知った上のことだから、彼ら自身に責任がある

《考察》

 情状酌量の余地はどうなるのでしょうか。ここには、人間の感情を無視した綺麗ごとが展開されています。人間の感情の機微を無視した見解であるがゆえに、その綺麗ごとは、ある人間たちからは醜悪に見えてしまうのです。

 また、仮にその人自身が悪を行うのはその人に責任があるのだとしても、その悪人によって被害を受ける人の救済はどうなるのでしょうか。ここにキリスト教の独善性があります。その独善性は、知的な不誠実さと結びついています。




第12問答 悪事

《問》

 もしデウスが、人間が善良であり、また栄光を授けるように、慈愛の心をもって人間を創造したのならば、なぜ人間がつねに悪事をなしたり、それをしたがるように創ったのか

《答》

 デウスは万事を善い状態に創り、人間をもまた善良なものとして創り給うた。そして人間には、悪事を認め、それを拒み得るようにと明白な理解力を授けられた。したがってもし人間が悪事をなすならば、それはデウスから授かった理性が語っているのと反対のことをしているのであって、彼ら自身が悪くしていると言い得よう

《考察》

 人間が悪事を行うことに対して、それはデウスの責任ではなく、人間自身の責任だというのです。それが悪事かどうかは、もちろんキリスト教の基準によって決まります。ですから、その基準が妥当かどうかという検証が必要になるでしょう。しかし、その検証が行われるとなれば、キリスト教側にとって不都合なことになるでしょう。ですから、その検証は為されてはならないのです。

 責任はデウスと人間の両方にあるという可能性は捨てられ、責任は人間側にだけ負わされることになります。ここには欺瞞があります。この欺瞞を卑しいと思う人もいれば、この欺瞞を聖なる教えと見なす人もいるでしょう。ですから、キリスト教徒にならない人もいれば、なる人もいるのです。




第13問答 栄光の難しさ

《問》

 デウスがいとも慈愛深く、我々をデウスの栄光のために創ったのならば、なぜデウスはそこに至る道をこんなにも難しいものにしたのか。我らはつねに肉体と感覚でもって道徳の業をいやがり、また我々が栄光へ達するためにデウスが我々に命じている道を守ることを嫌悪しているではないか

《答》

 もし人間が肉体の弱点をよく用いるならば、デウスの掟はその人にとって非常に容易に実行できるものであり、彼はそれを遵守することにより、いっそう明るい生活ができるであろう。なぜなら人間が食べたり眠ったり休んだりしたい気持があるのに、デウスは断食して飢え死せよとか、奇跡を行なえなどと命ぜられはしない。そうではなく、自分を創り、罪から贖って下さった方、そして霊魂を救済して下さる方を礼拝し、その方に仕えることや、隣人を愛するようにと命じておられるのであって、それを実行することは困難なことではない。またデウスは、禁欲家にはなれないという人にそうあれと命ぜられはしないし、童貞であることを義務づけることもなく、ただ妻は一人しか持ってはならぬと命ぜられるに過ぎない

《考察》

 ここではキリスト教の教えの厳しさが問題となっています。人間の自然な性質からすると、守るのが難しいではないかということです。例えば、新共同訳『新約聖書』の[マタイによる福音書]には姦淫の禁止が語られています。



 みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。



 この教えに従って、目をえぐり出して捨ててしまった人は何人いたのでしょうか?

 明らかに無茶な要求を設定しておいて、それを守れない者を糾弾するという仕組みが健全とはとても思えません。非キリスト教徒はその教えを厳しすぎると言い、キリスト教徒は人間に実行可能なものだと言い張ることになります。

 重要なことは、それが可能かどうかではなく、人間社会を円滑で円満にできるかどうかでしょう。その検討において、その教えの厳しさが吟味されるべきだと思われます。




第14問答 子供の切望

《問》

 デウスが慈悲深ければ、なぜ子供を持ちたいと切望している人に子供を授けられぬのか

《答》

 我らは主の恩寵により、彼らが満足するように返答することができ、彼らは、我らの言うことはもっともであると語った

《考察》

 満足できるような返答が為されていません。問に対する答えが、きちんと示されていないのです。ちなみに第20番目の答えに、この問いに対する理由らしきものが示されていますが、それも納得できるようなものにはなっていません。




第15問答 悪魔と地獄

《問》

 もしデウスが悪魔を罰するところとして、[地球の中心にある]地獄を創ったのならば、どうして悪魔は人間を唆したり欺いたりするために、この世に現われるのか

《答》

 デウスは、悪魔を罰する場所とするように地獄を創られた。ところで悪魔が人々を唆しにこの世に現われるのは、休息するために来るのではなく、地獄において味わっているのと同じ苦痛を嘗めながら出てくるのだ

《考察》

 これも答えになっていません。

 悪魔が苦労して地獄から出てこようが、楽々と地獄から出てこようが、人間側からするといい迷惑でしかないでしょう。悪魔が苦痛を感じていようがいまいが、それはここで問われていることの答えにはなっていません。ここでは、デウスの構築している設定の不備が問われているのです。




第16問答 悪魔の欺き

《問》

 デウスが慈悲深く、有力であるならば、なぜ悪魔が害を加えることを妨げようとしないのか。悪魔が人間を欺くことによって、ひどい災禍が生じているではないか

《答》

 デウスがそうされるのは、デウスが慈悲深く、それが人間にとって非常に有益であることを知っておられるからである。すなわち人間は、悪魔が自分を追跡し、この世において多くの危険に陥れ、ついで地獄へ連れこもうと望んでいることを知れば、そのために人間は地獄やこの世の危険に対して恐怖心を抱くようになる。そしてそれは人間を謙虚にさせるし、人々は自分自身の力ではそうしたことから免れ得ないことが判り、その方法として、自らを創り給うた真のデウスに対し、謙虚に、自分たちを救い、助け給えと懇願するようになる。かくて彼らはこの世で恩寵を得て悪魔から解放され、あの世では永遠の栄光を獲得できるに至るのである。(以下、割愛)

《考察》

 要するに、デウス自身が人間からあがめ奉られるためのシステムを構築していますよ、ということです。そんなシステムを構築した者が、善でありうるのかという疑問が浮かびますけどね。

 また、悪魔がデウスの人間に対する試練だとしても、その試練の度合が問われることになります。それが克服できるレベルのものではないとき、自分ではなく他者へ危害が及ぶとき、デウスへの信仰は疑わしいものになってしまうでしょう。




第17問答 地獄の意味

《問》

 悪魔はたとえ地獄にいなくてもこの世で同じ苦しみを持っているとすれば、なぜ悪人たちを罰するために地球の中心に地獄が創られたのであるか

《答》

 諸聖人の霊魂や天使は、どこででもデウスを見奉り至福に与かり得るのであるが、デウスは彼らに天国という特別な場所を授け、彼らがそれを享受できるようにされた。それと同様に、我らの主なるデウスは、悪魔がいたるところへ呪いと罰を携えて行くにもかかわらず、悪魔が罰せられるための一定の場所を造り給うたのだ

《考察》

 キリスト教の語る地獄の設定がおかしなものだったので、それに対しツッコミが入っています。悪魔が地獄でもこの世でも同じように苦しむなら、地獄の意味がないというツッコミです。ここでの答えも、理屈が合っていないようです。

 ただ、デウスは、自分の意に沿わない者を徹底的に念入りに罰しますよ、ということは分かります。非キリスト教徒からすると、ずいぶんと我がまま勝手だと感じられてしまいます。




第18問答 地獄の道

《問》

 悪魔が地下の地獄にいるものならば、いかなる道を経てこの世に来るのか

《答》

 悪人の霊魂が死んだ後に地獄に行くように、悪魔はそれと同じ方法で地獄へ往来する。さらに水は体を有するが、高山から谷間に達する道を持っており、地に浸透する水脈に欠けていない。それと同じく、悪魔は体を有しないが、地獄から来て、またそこへ戻って行く道に欠けていない

《考察》

 そういう設定です、ということです。どうやって確認したのでしょうか?




第19問答 霊魂の戻り

《問》

 呪われた人たちの霊魂は、地獄に行った後にこの世へ悪魔のように戻るか

《答》

 悪人たちは悪魔の勧告に従った時に、デウスを侮辱したばかりでなく、自らその召使いとなった。そして悪魔は彼らを召し使いとして自らの配下に置き、彼らを苦しめ、彼らの霊魂を地獄に繋ぎ留めておくのである

《考察》

 デウスの意に沿わない場合、決して許さないぞ、ということです。悪魔がデウスの命令によって地獄から出てくることはありますが、キリストの教えに逆らった悪人は地獄でずっと苦しむことになるというのです。まった酷い話です。

 ここでは問いは、日本人のお盆の風習を基に発せられています。お盆では、死者の魂はお盆に返ってきますから。ザビエル側はこの考えを誤りだと見なし、その誤りを正そうとしてキリスト教の設定を述べているのです。ありがた迷惑ですね。




第20問答 教えの遅れ

《問》

 デウスが世の救い主であり統治者であるならば、なぜ彼は宇宙創造の当初からこの日本の地方へその教えが明示されるように取り計らわず、今まで延ばしたのか

《答》

 『デウスの教えは世の初めから今に至るまで人間の知性の中に明らかにされている。すなわち、たとえほかに誰も人間がいない山中で育ったとしても、その人間は隣人に害を加えることは罪悪であることを善悪識別して心得ており、彼は同様のことを人からされることを好まぬのである』と。そしてこのようにして、我らは彼らにデウスの十誡を説明した。さらに我らは次のように彼らに語った。『あなた方はそうしたことを宣教師や教師たちから教わるまでもない。人間を創り給うた主なるデウスがそれを教え給うたのである。知性のある者ならば誰でも[熟考しさえするならば]第一の誡、すなわち自分の霊魂を創った唯一のデウスが存在することを認めるからである。なぜならば、もし父と母が自らの力だけで子供が得られるものならば、彼らは望めば子供を得ることができるであろう。ところが多くの者はそれを望んでも、一人も子供を得られないし、その反対に他の人々は、望みもしないのに多くの子供を得るのである。それゆえに人間は、自分を創り給うた方を拝み、かつ認め、そして自分が他人にこうあってほしいと望むように隣人たちに対して振舞うにおいては、たとえ彼がデウスの教えを聴聞しなくとも、デウスはその人に救済の光を授け給うであろう』

《考察》

 ここでの答えは、一種のごまかしに過ぎません。仮に昔の日本人がキリスト教的な善悪の観念を認識できていたとしても、キリスト教徒でなければ結局は地獄行きなわけですから。ここに、我々の祖先はどうなるのだという問題が出てくるわけです。

 キリスト教徒ではなかった祖先は、地獄へ堕ちてしまっているのです。その上でキリスト教の教えに従い、自分だけは天国へ行くかどうかという選択肢が突きつけられているのです。ここで自分だけは天国へ行くことを選ぶということに、何か不健全で非道なものを感じないでしょうか?

 ここには、キリスト教的な道徳とは一線を画す、日本人の善悪の観念を見出すことができるでしょう。日本人のキリスト教との邂逅は、ある善悪の思想が、それとは別種の善悪の思想と対決した歴史の一幕としてとらえることができるでしょう。




第21問答 理解力の欠ける者

《問》

 世の中にはいとも能力に欠けていて、それほどまでに理解力を高め得ず、誰が自分たちを創造したのかが解らない者も大勢いるが、これらの人はどうなるのか

《答》

 そのような人々は、その乏しい理解力で理解したわずかなことに従って、それを善用し、悪いと知ったことをすべて斥け、善いと思われることをなせばよい。そうすれば慈愛深いデウスは、彼らが授けられた理性の光を善用しているのを見給うので、彼らが自らが救われるためには何をせねばならぬかを彼らの心に解らせ給うであろう。そして彼らが理性に反して木石を拝むことなく、万民を救い得る唯一の方であるかの真のデウスを拝むように望み、また実際に拝むよう解らせ給うであろう。かくて彼らが自然の掟に従いデウスの慈悲によって生きるならば、彼らもまた救いの恩寵が得られるであろう。なぜならば永劫の罰を受ける人々はもっぱら自らの罪業によってそうなるのであって、彼らにデウスの恩寵が欠けているからではないのである

《考察》

 身も蓋もない言い方をすれば、理解力がなくてもとりあえずキリスト教徒になれば良い、と言っているのです。

 デウスに背いて永劫の罰を受けても、それは決してデウスの責任ではないというのです。キリスト教徒になって救われれば、それはデウスの恩寵です。しかし、キリスト教徒にならずに永劫の罰で苦しむことは、本人の罪業になるというのです。ここには、人間を思考停止に追い込む何かがあるように思えます。それは、恐怖を利用した信仰に付随するものなのかもしれません。






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