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第二章 ルイス・フロイス『日本史』

 

  ルイス・フロイス(Luis Frois, 1532?1597)は、ポルトガルのイエズス会宣教師です。1563年に来日し、織田信長の信任を得て畿内・九州で布教を行いました。長崎で没しています。
 フロイスの『日本史』から、気になったエピソードをいくつか取り上げてみることで、日本人とキリスト教の関わりをみていくことにします。

 

第一節 都において
 フロイスは都の人々について、次のように語っています。

 都の異教徒たちは、仏の教えは、デウスの教えよりもずっと以前に日本に伝わった。そしてそれは彼らの先祖によってつねに深く敬われて来たのであって、たとえ彼らがなんの救いもなく永遠の苦しみを負って地獄の底に投げこまれることが確かでもキリシタンになりはしない。なぜならキリシタンになることは先祖に侮辱を加えることになり、彼らの偽りの神々の祭祀を汚すことになるからである。


 フロイスは、日本の神々を偽物呼ばわりしています。しかし、地獄の底に投げこまれるという脅しにも屈せぬ信仰心。これこそが、神が本物の神である証なのではないでしょうか。
フロイスたちは、別の地へと赴くことになります。

 

第二節 余野において
 余野の地では、フロイスたちが説教しているときに、一人の若者が割り込んできました。若者は説教していた修道士の腕をはげしくつかまえて、続けて怒りの言葉を発したのです。

  「貴様らは、俺が我慢できるとでも思っておるのか。あそこで説教している野郎は、俺が日本において久しく敬っている神や仏を侮辱しやがる。そしてお前らが今まで拝んで来た神や仏以外に、別に諸民を救う者があるということをお前らの頭に叩き込もうとしているのだ」と。若者の血走った眼の形相は、彼がどんなに心を痛め激昂しているかを物語っていたが、彼はもう一度、悪魔的な怒りのうちに、修道士に、起ち上がって出て行け、と要求した。それは、自分がそれまで支配していたこの地の人々の霊魂を修道士に奪われるのを、こうした強硬手段で公然と妨げんためであった。一同は今や明らかに悪魔がこの男の中にいることを見抜いたので、まず初めに彼をさんざん殴りつけ、足で蹴った。もし修道士がそれを止めていなければ、その男は間違いなく彼らに殺されてしまったであろう。


 ここで語られていることは、とても恐ろしいことです。現在の我々から見ると、少なくともこの若者は暴力をふるう前に言葉での説得を試みているように思えます。それにも関わらず、その場にいた人達は彼を悪魔だとみなして暴力に及んでいるのです。
 ここで注目すべきは、フロイスがその光景をおそらくはそのままに描写していることです。つまり、フロイスは、この出来事が自分たちの非にはならないと判断していた可能性があるのです。

 

第三節 織田信長について
 フロイスは、織田信長についての記述を残しています。

 彼は善き理性と明晰な判断力を有し、神および仏のいっさいの礼法、尊崇、ならびにあらゆる異教的占卜や迷信的慣習の軽蔑者であった。形だけは当初法華宗に属しているような態度を示したが、顕位に就いて後は尊大にすべての偶像を見下げ、若干の点、禅宗の見解に従い、霊魂の不滅、来世の賞罰などはないと見なした。


 このように信長は、キリスト教とは相いれない考え方をしていたわけですが、フロイス自身は信長を高く評価していたようです。フロイスは信長について、〈彼がきわめて稀に見る優秀な人物であり、非凡の著名は司令官として、大いなる賢明さをもって天下を統治した者であったことは否定し得ない〉と述べています。


第四節 豊臣秀吉について
 フロイスは、関白である豊臣秀吉についても記録を残しています。
 秀吉は、〈伴天連らも、その宗教も、過ぐる出来事については咎め立てるわけではない。だが、日本は神の国であって、キリシタンの教えは、日本にはふさわしくないのだ〉と述べています。ただし、これは統治のための考えであって、秀吉自身は異なる考えを持っていたようです。フロイスは、〈彼は、これら神仏は偽物であり、諸国を善く治め、人間相互の調和を保つために、人が案出したものだと述べ、神仏を罵倒し軽蔑していた〉と記しています。


第五節 有家において
 有家の地では、キリスト教徒へと改宗した一人の人物がいます。フロイスが、彼について記述した箇所をみてみましょう。

 その有家の地には、高貴で勇敢な一人の人物がいた。その人は異教徒であった時に、三人の女を囲っていた。その二人は家の中に、一人は有馬に置いていた。彼はキリシタンになって告白しようとしたが、側妻のことが障害となっていることを戒められると、次のように答えた。「其(それがし)の肉体がいかにそれを求めようとも、其、デウス様の御教えが命じ給うことなら、あまるところなく実行いたします」と。そして彼はごく短期間にそのとおりに行ない、年をとった最初の女だけを留め、まだ若い二人の女には暇をとらせた。彼はきわめて決断力のある人物であったから、司祭に次のようにも語った。「もしもデウス様の御奉仕となるのに必要とあらば、其、一人の息子をあの海に投ぜよと命じられたとしても、なんら躊躇することなく、言葉どおりそれに従うでありましょう」と。


 ここには、逆説的に、なぜ日本人はキリスト教に馴染まないところがあるのかが示されています。この時代の布教において、なぜに失敗に終わったのかの一つの理由がここにあるのです。
 キリスト教へ改宗した者は、この人物のような考え方ができたのでしょうし、キリスト教徒にならなかったものは、おそらくはこの人物のような考え方をしなかったのでしょう。


第六節 天草において
 天草というと、島原・天草の乱(1637~1638)やその指導者とされている天草四郎(1621?~1638)などが思い浮かびます。当時の天草の様子については、次のように描写されています。

 注目すべきことに、洗礼が済むと、彼らはその島にあったすべての神仏の偶像をその寺社もろとも、大いなる熱意をもって焼却、破壊した。司祭は、関白による司祭追放が継続している時期であるから、現下そのような行為に出るのは不適当であると言って制止したが十分ではなかった。彼らは、これらの仏像は従来、長い間、自分たちをさんざんに騙して来たのだから、今こそ我らはその復讐をするのだ、と答えていた。彼らは洗礼を受ける前から仏像を破壊し始めており、こうして以前には深く尊ばれ畏敬されていた神と仏の像は、今や地上に倒され、あるものは鼻を削がれ、他のものは首を断たれ、百千と無数の侮辱を被りながら足蹴にされた。ついにこうした信仰の聖火が燃え拡がって、しばらくの間にその島の三千五百人以上が改宗した。かくて我らの主なるデウスの御恵みと御憐れみによってこれら諸島はすべて信仰の門に降り、カトリック教会の懐の中に加えられることになった。これら上津浦と栖本のキリシタンたちはまだ新しく、キリシタンになって日が浅いにもかかわらず、司祭や修道士たちに示す愛情において、またその営む善行において互いに負けないように励み、人後に落ちないように競い合った。


 天草の上津浦と栖本の出来事から考えると、なぜ当時の日本人がキリスト教に危機感を抱いたのかが分かると思います。
 当時の天草の人々のたどった顛末を思うとき、一抹の同情を覚えます。しかし、キリスト教に対して示した態度について、都と天草におけるフロイスの記述を比べてみると、そこには知的および道徳的にかなりの差があると思えてしまうのです。





 

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