『日本式 基督論』第四章 天正遣欧使節
天正遣欧使節とは、天正10年(1582)に九州のキリシタン大名がローマ教皇謁見のために派遣した少年使節のことです。宣教師ヴァリニャーノ(Alessandro Valignano/ Valignani、1539~1606)の勧めにより、大村純忠(1533~1587)・大友宗麟(1530~1587)・有馬晴信(1567~1612)の3名の大名が4名の少年を派遣しました。その少年たちは、伊東マンショ(1569~1612)・千々石(ちぢわ)ミゲル(1569~1633)・原マルチノ(1569~1629)・中浦ジュリアン(1568~1633)の4名です。1585年にローマに入り、1590年に長崎に帰国しました。
ここでは、松田毅一『天正遣欧使節』(講談社学術文庫)の記述を参照・引用しています。
第一節 目的と手段
宣教師ヴァリニャーノが計画した使節の目的は、ローマ教皇やスペイン・ポルトガルの国王へ謁見し、日本での宣教の援助を依頼することでした。また、日本人にヨーロッパのキリスト教を体験させ、帰国後の布教に役立てるためでもありました。この使節の背景には、ヨーロッパ宣教師たちが、日本の礼法に通じずに日本人から軽蔑されていたという事情がありました。
使節の目的を達するため、派遣された少年たちへ施された配慮には注目すべきものがあります。ヨーロッパの珍しいものや偉大なものを見物させるようにし、その一方で都合の悪いものを見せないような対応がなされたのです。少年たちには、ヨーロッパのキリスト教を高く評価してから、日本へ戻って来てもらうことが必要だったからです。その作為的な少年たちの取り扱いには、少なくない不快感を覚えてしまうというのが正直なところです。少年たちが暮らす場所や訪れる場所、合う人物や交際する人物について注意深く取り計らわれていたのです。
ヨーロッパで使節の言行をつぶさに観察したグアルティエーリは、次のように記している。
彼ら使節が、ヨーロッパ・キリスト教社会について、悪しきことを見聞し、疑惑の念を生ぜしめることのないよう、「常に大いなる配慮」がなされた。「またしばしば生じた」ことだが、そのようなものを彼らが見た時には、「聖なる偽り(サント・インガンノ)」によって速やかにそれを善く解釈し、悪しき考えを排除するよう努力がなされた。そのようにしなければ、日本の新しいキリスト教徒たちに大いなる弊害が生じ、この使節を派遣した目的にまったく反する結果を生じるに至るからである、と。
こういった記述にも、日本人がキリスト教を禁じた理由の一端をうかがうことができます。当時の日本は、宗教的にかなり寛容な社会でした。現に、領主や僧侶や庶民といった幅広い日本人が、宣教師たちと活発な議論を展開していたのです。例えば、仏教の各宗派の間では高度な議論が展開され、その議論を通じた個人による宗派の選択が可能でした。
その一つの選択肢として、キリスト教が議論の仲間に入るということも、おそらく不可能ではなかったでしょう。しかし、それは現実に適いませんでした。その原因については、日本側にもあったことは疑いえないでしょうが、宣教師たちのやり方に問題があったことも間違いないでしょう。
第二節 使節のその後
天正遣欧使節の少年たちは、宣教師たちが意図したヨーロッパを見学し帰国します。思春期とも呼べる人生の貴重な期間に、日本の世俗から遠ざかっていた彼らのその後は興味をそそられます。
天正遣欧使節の主席だった伊東マンショは、司祭として日本におけるキリスト教の布教に貢献し、最期は病死しました。千々石ミゲルは、ヨーロッパへの旅でキリスト教に不信を抱き、キリスト教を棄てることになりました。原マルチノは優秀な司祭となりましたが、国外に追放されマカオでその生涯を終えています。中浦ジュリアンはローマでの感動を生涯持ち続け、司祭となり弾圧下の日本で活動を続け、殉教死を遂げました。
幕府とバテレンたちの過去数十年にわたる長く血なまぐさい闘争の末期に幕吏がようやく考案した、最も残酷で最も苦痛な拷問が中浦ジュリアンに加えられた。
幾時間が経過したであろうか。傍らのバテレン、クリストヴァン・フェレイラは片手を振った。そえは棄教の合図であった。日本イエズス会の最高位にあった南蛮人バテレンの背教は、幕吏に凱歌を叫ばせた。
中浦ジュリアンは拷問に耐え抜いた。そして幾度かの穴吊りが繰り返された後、二十一日になって主なるゼウスは、ようやくジュリアンから肉体の苦患を解放された。
天正遣欧使節が、長崎を船出してから満五十年の歳月が流れ、ここに東西交流史上に異彩を放った一つの歴史的事件は、中浦ジュリアンの殉教をもって終わりを告げた。
天正遣欧使節の少年たちの人生を思うと、複雑な心境に襲われます。簡単には語れない時代状況がそこにはあったからです。そして、簡単に幅広い情報を入手できる現代の人間が、安易に彼らの人生を語ることへの疚しさといった感情も浮かんできます。
そのため、ここでは天正遣欧使節として派遣された彼らに対し、ささやかながら敬意を表し、彼らについての記述を終えることにします。
第五章 新井白石の『西洋紀聞』 へ進む
日本式 基督論 へ戻る
論文一覧 へ戻る
コメントする