『日本式 基督論』第七章 内村鑑三の『余は如何にして基督信徒となりし乎』


 内村鑑三(1861~1930)は、日本人のキリスト教徒です。内村独自の無教会主義を唱えました。

 内村が『余は如何にして基督信徒となりし乎』を書いたのは1893年ですが、本書の出版は1895年です。1891年に起こった「内村鑑三不敬事件(第一高等中学校不敬事件)」に対し、久しい沈黙を破って『文学博士井上哲次郎君に呈する公開状』を公表したのが1893年になります。この年には、『基督信徒のなぐさめ』や『求安録』も発表しています。

 ここでは、『余は如何にして基督信徒となりし乎』(岩波文庫)から、日本人キリスト教徒である内村鑑三の考え方を参照していきましょう。




第一節 何故ではなく如何に

 緒言で内村は、次のように述べています。



 余が書こうとするのは、余は如何にして基督信徒となりし乎である、何故にではない。いわゆる『回心の哲学』は余の題目ではない。余はただその『現象』を記述し、余よりも哲学的訓練ある人々に材料を提供しようとするにすぎない。



 それでは、内村が如何にしてキリスト教の信徒となったのかを見ていきます。




第二節 札幌農学校での改宗

 内村が札幌農学校に入学したとき、上級生は皆すでにキリスト教徒になっており、内村は半ば強制的にキリスト教に改宗させられてしまいます。



 カレッヂの世論はあまりにつよく余に反対であった、それに対抗することは余の力におよばなかった。彼らは左に掲げる契約に署名するよう余に強制した。どこか極端な禁酒論者が手に負えない酔っ払いを説き伏せて禁酒誓約に著名させるやり方であった。余はついに屈した。そしてそれに署名した。



 内村は、〈余の基督教への第一歩は、強制されたものであった〉と述べています。それでも内村は、〈今や我々は洗礼を受けた以上は、新しい人であると感じた、すくなくともそう感ずるように、またそう見えるように努めた〉と語っています。

 学校を卒業した内村は、〈蝦で鯛を釣るように、基督信徒は教義の空言を他人に分与することによって自分の天国に入ることができる〉と考えるようになります。




第三節 アメリカへ

 内村は、キリスト教の国アメリカへ向かいます。そこで実際のキリスト教国の現実を目の当たりにし、〈金銭はアメリカでは全能の力であるという噂は、我々の実際的経験の多くによって確証された〉と知ることになるのです。内村は、〈セメント造りの部屋と石造りの円天井を必要とし、ブルドッグと警官隊とによって警戒される文明が基督教的と称せられうるかどうかは、正直な異教徒の真面目に疑うところである〉と述べています。内村は嘆きます。



 おお、天よ、余は破れた! 余は欺かれた! 余は平和ならざるもののために真に平和なるものを捨てたのである! 余の旧い信仰に立ち返るには余は今は余りに生長し過ぎている、余の新しい信仰に黙従することは不可能である。




第四節 アメリカで

 アメリカに幻滅した内村ですが、アメリカで新しい出会いを経験します。

 まず、〈アメリカ到着後間もなく、余は一ペンシルヴァニア人医師に『拾われ』た、彼自身最も実際家型の慈善家であった〉とあります。この慈善家は、I・N・カーリン(Isaac Newton Kerlin, 1834~1893)という人物です。この人物との出会いにより、〈じつに余を人間化した(humanized)のは彼であった〉と語られる経験をすることになります。

 次に、内村が米国マサチューセッツ州のアマーストにあるアマースト・カレッヂへ向かったときのことです。〈余がそこに赴く目的は、有名なカレッヂの総長である一人の人に会うためであった、彼の敬虔と学識には以前から故国にあってその数種の著書を通じて私淑していたのである〉とあります。この総長は、シーリー(Julius Hawley Seelye, 1824~1895)という人物です。この人と出会うことで内村は、〈余は彼が非常に喜んで約束してくれたその援助に我が身を託した。余は退出した、そしてその時から余の基督教は全く新しい方向を取ったのである〉という心境になったのです。

 アメリカ滞在について、内村は次のように振り返っています。



 まず余をして率直に告白せしめよ、余は全く基督教国に心を奪われたのではないことを。三年半のそこでの滞在は、それが余に与えた最善の厚遇と余がそこで結んだ最も親密な友情とをもってしても、余を全くそれに同化せしめなかった。余は終始一異邦人であった、そして余はけっしてそうでなくあろうと努力したことはなかった。



 内村は、〈より高いより高貴な目的をもって、余は基督教国滞在の最後にいたるまで『ホーム・スウィート・ホーム』の思慕をもって余の故国を慕ったのである〉と述べています。




第五節 キリスト教の優位性

 アメリカで色々あった内村ですが、結局のところキリスト教について次のように述べています。



 我々はある人々のように、他の一切を貶してそれを有つ価値のある唯一の宗教と見せることはしないであろう。しかし余にはそれは余の親しく知っているいかなる宗教よりもすぐれている、はるかにすぐれている。すくなくとも余の育てられた宗教よりはより完全である。



 ここから内村が、キリスト教を他の宗教よりも優れていると見なしていることが分かりますが、その根拠を追っていきます。

 まず他宗教については、〈異教は、基督教国で基督教として通っているものと等しく、道徳を教え、そしてそれの遵守を我々に説く。それは我々に道を示し、そしてその中を歩むことを我々に命ずる。それ以上ではなく、またそれ以下ではない〉とあります。その上で、〈余は躊躇せずに言う、基督教は同じことをすると、すなわち、歩むべき道を我々に示すと。じつにそれは他のいかなる宗教にもまさって明白に誤ることなくそうするのである。それには余がしばしば他の信仰において出会う導きの鬼火的性質はすこしもない〉と述べているのです。

 具体的には、〈基督教が異教よりより以上でありより高くあるのは、それが我々をして律法を守らしめる点にある。それは以上プラス生命である。それによってのみ律法順守が可能事となる。それは律法の精神である〉ということになるようです。

 この律法のために、〈もし基督教国の悪はそのように悪くあるにしても、その善はいかに善くあることよ!〉と言うにいたるのです。さらには、〈基督教は我々のすべてにとってなくてならぬものとなりつつあるのである〉とまで内村は言うのです。




第六節 律法について

 内村がキリスト教を他宗教よりも優れているとみなしている根拠は、キリスト教の律法にあります。

 新共同訳『新約聖書』の[マタイによる福音書]には、イエス・キリストその人が律法について述べた箇所があります。



 律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」



 ここでイエスが述べている第一の掟は、『旧約聖書』の[申命記]に見られます。第二も『旧約聖書』の[レビ記]に見ることができます。

 他にも、『新約聖書』の[ローマの信徒への手紙]には、〈人を愛する者は、律法を全うしているのです。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです〉とあります。




第七節 日本人がキリスト教の律法を考えるということ

 日本人がキリスト教と向き合うとき、内村鑑三の示した根拠が一つの論点になるかと思います。すなわち、キリスト教の律法のゆえに、キリスト教は他の宗教より優れていると言えるのかという問題です。

 ここには、井上哲次郎(1855~1944)が『教育と宗教との衝突』で示した論点も関わってくるわけです。

 少なくとも、内村の言い分にはまったく納得できない人がいるでしょう。納得できない者たちは、キリスト教から距離を取ることになります。それとは対照的に、内村の言い分に惹かれる者は、おそらくキリスト教に接近することになるのでしょう。






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