『聖魔書』[0] 神概念について



 神について。

 神という概念は、宗教において最も重要なキーワードの一つです。神という概念を持たない宗教においても、それが神という概念を持たないという観点から、他の宗教との興味深い比較が可能になります。




究極

 心理学者のユングは、『ヨブへの答え』で神という概念を次のように説明しています。



 心理学的に神概念という場合には、第一級のものであれ最下級のものであれ、最高のものであれ最低のものであれ、何か究極のものというすべての観念が含まれる。



 これは興味深い定義です。ある特定の宗教において、神がどのように語られているかを調査することによって、その宗教が何を重要視しているかをうかがうことができるからです。

 そこには、この世界の謎に迫るカギが隠されているのかもしれません。世界が存在するという神秘の故に、神という概念は精神によって要請されざるを得ないように思われるからです。




神道

 例えば、日本の神道を考えてみましょう。『古事記』の最初には、次のような面白い記述があります。



 天地初メて発りし時、高天ノ原於成りませる神ノ名は、天之御中主神。次に、高御産巣日神。次に、神産巣日神。此ノ三柱ノ神者、並に独神ト成り坐し而、身を隠しましき。



 天地のはじまりに、まず天之御中主神という神があらわれたというのです。次に、高御産巣日神という神が、その次には神産巣日神という神があらわれ、そして、三柱の神はさっさと隠れてしまったというのです。これらの神の仰々しい名前もすごいですが、さっさと退場していってしまう唐突な展開にも驚かされます。

 ざっくり言うなら、何かよく分からないけれど、天地のはじまりにはすごい何かがあったはずだというイメージがここにはあるのでしょう。




聖書

 次に、『聖書』(新共同訳)の創世記の記述を見てみましょう。



 初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深遠の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。

「光あれ。」

 こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。



 ここで神は六日をかけて世界を造り、七日目に休むことになります。このことから、安息日という発想が生まれ、現代日本においても、私たちは一週間の最後の日曜に休むことになっているわけです。だいたいは(笑)。

 ここの記述は、キリスト教から見ると旧約聖書と呼ばれる部分の最初のところに当たります。この創世記の記述は、聖書の中でも秀逸であり、考えるに足るヒントが多く示されています。




対決

 世界のはじまり、または天地のはじまりというテーマは、宗教における重要な問題の一つです。もちろん、物理学の発達により宗教の専売特許ではなくなりましたが。

 フランシスコ・ザビエルなどによって、日本にキリスト教が伝来したときにも、この問題を巡る議論を見つけることができます。ルイス・フロイスの『日本史』には、司祭と仏僧の対話が出てきます。司祭が天地の制作者について仏僧に訊ねると、仏僧は次のように答えるのです。



「その御作者には幾多の名称がある。シナでは盤古皇と言い、日本ではイザナミ、イザナギがこの世に現われた最初の男女であり、仏教の教法の源であるシャムには、また別の創造主がいると言われている」



 この答えに対し、司祭はこの三つのうちのどれが真であるかを問うことによって、仏僧を追い詰めていくのです。

 これは、当人たちには失礼かもしれませんが、たいへん面白い議論です。世界のはじまりを説明しうる言説を持っているということは、その思考体系の強度の判定基準になりえるということです。より根源的な事象の説明を持っているということが、他の思考体系よりも根本的であることの一つの根拠になりうるということです。

 そのため面白いことに、物理学などの科学が宗教よりも整合性のある世界のはじまりを記述できたことによって、キリスト教などの宗教の権威が低下することになったわけです。




本物

 現在キリスト教は、世界最大の宗教ではありますが、日本ではあまり広まっていません。日本人が聖書を読むとき、身も蓋もなく言ってしまえば、かなりうさんくさく感じられることが多いと思われます。実際に読んでみると、イメージとのギャップに驚くことになります。

 確かに聖書を読むとうさんくささがあるのですが、そこで思考を止めてしまうのはもったいないとも思うのです。なぜなら、そこでは、何故にうさんくさいと感じられるのかという問いが成り立つからです。



 なぜ、うさんくさいのでしょうか?



 なぜなら、そこには、本物の神が想定されているからです。『聖書』における神の記述は、神の振る舞いとして相応しくないと感じられるからです。もし神が存在するなら、もし理想の神が存在するなら、それは、このような(『聖書』に書かれているような)神ではないと感じられるからです。

 だとするならば、逆に、その違和感を利用し、本物の神に近づけることができるのかもしれません。そこには、現時点で考えられうる「究極」のあり方が示されるのかもしれないのです。

 つまり、『聖書』などを参照し、不適切と思われる記述を本物であるかのように書き換えることで、「究極」についての思考を深めることができるはずなのです。




書換

 本物の神と偽りの神は、何によって判断されるというのでしょうか。それは、やはり学問の成果によって、でしょう。宗教学・心理学・論理学・物理学・生物学・思想・宗教・文学など、参考にすべき項目は多岐に渡ります。ただ、人間の能力には限界があるため、その試みは不完全さを免れ得ないでしょう。

 そのため、その営為は任意の志向性をもって為されざるを得ません。これから行われる拝信行為においても、参考にしている対象は絞られています。例えば、カントール、ゲーデル、ユング、ウィトゲンシュタイン、西田哲学、永井哲学(特に『私・今・そして神』)などからの影響は、容易に見て取れるでしょう。これは一種の言葉遊びなのですが、真剣な遊びでもあるのです。

 『聖書』などを参考にし、偽りの神の記述を書き換えること。それは本物の神に近づく行為でありながら、とてつもない邪悪な行いだとも見なされることになります。そこでは、あのヨブの物語との対決が、さらには神の子との対決が必要になります。それ故、その書は『聖書(バイブル)』ではなく、『反・聖書(アンチ・バイブル)』という性質を帯びることになります。そのため、その書の名は・・・。




注意事項

 この試みでは、極限まで言葉を削っており、読者に対してあまり親切な構成ではありません。それは、説明過多が本方針にそぐわないという理由のためです。そのため、書かれている内容が、意味のない単なる抽象概念の羅列に見えてしまうかもしれません。ですが、記述には、徹底的に厳密に意味を持たせています。複数の解釈を許すような文章かもしれませんが、意味は一意に限定することが可能です。

 また、このような試みは、興味を持った人たちだけが理解し得るようなテーマです。私の他の論稿の論理性に共感でき、なおかつ、本物の神を不完全な人間が記述するというおかしな試みに興味をそそられる極めてわずかの人たちを想定しています。興味のない人は、深入りせずにそっとしておいてくださるようお願いします。








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