『聖魔書』[1-5] 律法記
一なる神の十の奇蹟から、十の律法が導かれる。
第一の律法。
一なる神による基点が存在する。
第二の律法。
いかなる偶像も、原理的に一なる神には辿り着けない。
第三の律法。
一なる神の名をいくら唱えても、それは語りつくされてはいない。
第四の律法。
対象の対称性において、非対称的な何かが与えられている。
第五の律法。
記憶による今の差別化から、時間が生まれる。
第六の律法。
世界の複数化から、他者が生まれる。
第七の律法。
認識により共通環境が築かれ、解釈により境界線が引かれる。
第八の律法。
祈りは深淵を超克する。
第九の律法。
一なる神を信じることは信仰ではなく、信じないことは信仰である。
第十の律法。
心が心と出会い、心と心が出会う。
【解説】
今回は、十戒に該当する箇所です。いわゆるモーセの十戒は、『旧約聖書』の「出エジプト記」と「申命記」に書かれています。十戒は文字通り十の戒律ですので、「形成記」の奇跡も同じ十に合わせてみました。
細かい説明は省きますが、十戒を参考にし、それを思想的に乗り越えるように努めました。実際に、十戒の記述内容と比べてみるのも面白いかもしれませんよ。
第五の律法は分かりにくいと思いますので、少しだけ解説します。最初の「対称」は「対象」の誤植ではありません。確かに、「対称」のところを「対象」にするかどうかは悩んだところなのですが、ここの本質をあらわすには、やはり対称における非対称性という表現が必要だと判断しました。つまり、物と物との間の釣り合った対応において、釣り合っていないものが与えられている、ということです。さらに言えば、与えられていざるを得ない、そうでないと認識が成り立たないから、ということです。ここには主体性の問題と、多体問題(N‐body problem)の視点が絡んでいます。
それぞれ短い文章ですが、けっこうな意味を詰め込んでいますので、深読みしてくださるとありがたいですね。
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