『聖魔書』[2-2] 福音書



 真実の福音は一つである。

 福音がいくつもあるはずがない。

 この福音こそ真実である。

 すなわち、真なる福音である。

 それゆえ、これは福音書と呼ばれる。

 別名、神の子の物語とも呼ばれる。

 これは、神の子についての福音の物語である。



 神の子について。



 ある時代のある場所に、一人の乙女がいた。

 その乙女は、処女であるのに懐妊したと言った。

 乙女には恋人も夫もいなかったため、皆はそれを信じた。

 乙女は処女にして懐妊したため、そこに神の意志があると言った。

 乙女は一人の子を産んだ。



 その子は成長し、自らを神の子と名乗った。

 神の子の言葉を信じる者が集まった。



 神の子は言った。

「神の子は、神の子である。

 それゆえ、洗礼は必要でない。

 それゆえ、洗礼者を必要としない。

 神の子は、血によらず、肉によらず、人によらず、一なる神によって生まれる。

 神の子を信じる者は裁かれず、

 神の子を信じぬ者は裁かれる。

 神の子の教えに従え。

 神の子の教えを愛せ。

 神の子を愛せ。」



 神の子は言った。

「神の子の教えは一つである。

 二つの教えを兼ねることはできない。

 '愛'は一つだからである。」



 神の子が瞑想していると、悪魔がやってきて神の子を誘惑した。

 悪魔 「あなたが神の子であるなら、石をパンにして下さい。」

 神の子「石は石、パンはパンである。神の子は、奇跡に頼った布教はしない。」

 悪魔 「あなたが神の子であるなら、崖から飛び降りてみて下さい。」

 神の子「飛び降りれば私は死ぬだろう。その試みは、神に対する試みにならない。」

 悪魔 「あなたが悪魔を拝むなら、すべての栄華を与えましょう。」

 神の子は、悪魔を拝んだ。

 神の子「さあ、すべての栄華を授けよ。」

 悪魔は逃げ去った。



 神の子は言った。

「悔い改めよ。天国へ至るために。

 神の子は預言者であり、神の子の教えを授ける。

 偽の預言者に騙されてはならない。

 多くの者が神の子を名乗って、多くの人を惑わす。

 多くの偽の預言者が現れ、多くの人を惑わす。

 本物の神の子の教えに従う者は、最後には救われる。」



 神の子は言った。

「神の子は、病気を癒すことに頼った布教はしない。

 神の子は、医者ではないからである。

 神の子は、天候を予測することに頼った布教はしない。

 神の子は、予報士ではないからである。

 神の子は、パンを増やすことに頼った布教はしない。

 神の子は、パン屋ではないからである。

 神の子は、水の上を歩くことに頼った布教はしない。

 神の子は、呪術師ではないからである。

 真の預言者は、親しきものには通じない奇跡などには頼らない。

 真の預言者は、悪霊を操ることもない。」



 神の子は言った。

「神の子の教えは、人の子が従う教えである。

 それゆえ、人の身を超えた教えであるはずがない。

 神の子の教えは、人の身に適った教えである。

 神の子の教えに従う者は幸いである、天国へ昇ることができる。

 神の子の教えに逆らう者は不幸である、地獄へ堕ちることになる。」



 神の子は言った。

「汝の右の頬を打つ者には、左の頬をも差し出すべきか。」

 神の子は唱えた。

「そのようなことを言う者を警戒せよ。

 敵を愛し迫害する者のために祈ることは、普遍の真理ではない。

 頬を打つ敵を見極めよ。

 敵の中の敵か、隣人の中の敵か、敵の中の隣人か。

 自分を愛するように、汝の隣人を愛せ。」



 神の子は言った。

「罪の無い者のみが、罪を裁けるというのか。」

 神の子は唱えた。

「そのようなことを言う者を警戒せよ。

 それは、人の子の言葉であり神の子の言葉ではない。

 罪を定める者は、罪人でなければならない。

 人の子に神の子であることを求めてはならない。

 罪を定めずに、罪を量ることはできない。」



 神の子は言った。

「する、しないは、してもらうために。

 求める、求めないは、与えられるために。

 罪を定める、定めないは、罪に問われぬために。

 裁く、裁かないは、裁かれぬために。

 許す、許さないは、許されるために。

 失敗の門は広く、成功の門は狭い。」



 神の子は言った。

「私が来たのは、

 世間における義人でもなく、

 世間の法による罪人でもなく、

 神の子の教えに従う人を招くためである。

 世間の決まり事は、神の子の教えとは異なっている。

 世間の伝統を守り、

 神の子の教えを拒む者に災いあれ。

 神の子の教えに従う者に幸いあれ。」



 神の子は言った。

「神の子は、死者を蘇らせたりはしない。

 人の子の死は、一なる神との約束であるから。

 人の子の復活は、一なる神との約束の反故であるから。」



 神の子は、教えを信じる者たちの中から十人の弟子を選んだ。

 彼等は、十使徒と呼ばれる。

 神の子は、裏切り者を指名した。

 そのため十使徒の中に、

 神の子の裏切り者がいたことに成った。

 神の子に指名された者は、

 裏切らない者から、裏切り者へと成った。

 神の子は、裏切り者へ行動を促した。

 神の子は、教えを説き始めた。

 神の子と人の子は、ここに栄光を演じる。



 神の子は言った。

「神の子の教えに従う者は、

 神の子の教えに従わぬ者によって憎まれる。

 しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」



 神の子は言った。

「私は地上に平和をもたらすために来た。

 剣を投げ込むためではなく、平和をもたらすためである。

 私が来たのは、人々を仲たがいさせるためではなく、人々の仲を取り持つためである。

 神の子への'愛'は、家族への愛とは異なる。

 異なる愛は、比べることもできない。

 神の子の教えに従う者に幸いあれ。

 神の子の教えは、汝の心の中にあるからである。」

 神の子がそう言ったため、

 神の子の教えは、人々の心の中にあることに成った。



 神の子は言った。

「言葉に神の子の教えを乗せよ。

 神の子の教えを言葉に乗せよ。

 教えを言葉によって弄ぶ者には、

 教えが言葉によって示されることはない。」



 神の子は言った。

「神の子の教えは、神の子に対する態度とは関係がない。

 神の子は、自分への態度で他人を判定することはない。

 神の子への個人的な行為について、神の子が特別に評価することはない。

 それは、神の子の振る舞いとして適切ではないからだ。

 神の子は、自分自身ではなく、教えによって神の子となる。

 神の子は、自分自身の苦難によって、教えを曲げることはない。

 神の子は、自分自身の都合によって、教えを利用することもない。

 それは、神の子の振る舞いとして適切ではないからだ。

 神の子は、教えによって評価する。」



 神の子は予言した。

「神の子は裏切られる。

 神の子は十字架に掛けられる。

 神の子は処刑される。

 神の子は、後に復活する。

 復活を見なければ信じない者には災いあれ。

 復活を見ずとも信じる者に幸いあれ。」



 神の子は言った。

「神の子が神の子である所以は、教えを唱えるが故である。

 一なる神の声が響くからではない。

 一なる神の声を聞かせるからではない。

 一なる神は、生きている者の神であり、死んだ者の神でもある。

 なぜなら、この世があり、あの世には天国と地獄があるからである。

 地獄では永遠の刑罰が、天国では永遠の幸福が得られる。」



 裏切り者は、神の子を裏切る。

 裏切り者は言った。

「神の子を裏切るのに、世間の銀貨は必要ない。

 世間の銀貨で裏切ることは、

 神の子を裏切る行為に対して適切ではないからだ。

 神の子を裏切ることは、神の子の教えによって為される。」



 神の子は、十使徒へ向かって言った。

「十人の中に、一人の裏切り者がいる。

 裏切り者は、神の子の教えに従って裏切る。

 裏切る者は、神の子の教えによって裏切るために生まれた。

 神の子を裏切る者は、裏切ることで神の子の教えに従う。」



 裏切りの儀式が始まった。

 裏切り者が、処刑人たちに神の子を差し出す。

 処刑人たちは、九人であった。

 九人の弟子たちは、処刑人たちから神の子を取り戻そうとする。

 処刑人によって、弟子たちは一人ずつ殺されていく。

 一人の処刑人が、一人の弟子を殺していく。

 見よ。弟子たちは安らかな顔で死んでいく。

 彼らは神の子の教えを理解していたのである。

 九人目の弟子が死んだとき、

 神の子は処刑場へと連行されていく。

 後には、裏切り者がそれを見送った。

 裏切り者は、神の子の教えを高らかに謳う。



 裏切り者は言った。

「私は世間の銀貨によって神の子を裏切ったわけではない。

 それゆえ、私が世間に対して為すことはもはやない。

 私は罪のない神の子を裏切るという罪を犯した。

 ここに、罪なき罪が完成した。

 罪なき罪によって、神の子の教えは示された。

 罪なき罪によって、人間の罪は赦された。

 神の子に祝福あれ。」

 そうして裏切り者は、自死を決行するため歩き出した。



 処刑人たちは、神の子を十字架に掛けた。

 神の子は言った。

「私は神の子である。

 ここに、罪なき罪が完成する。

 罪なき罪によって、人間の罪は赦された。

 その完成をもって、神の子の教えが示される。

 神の子は、他人を救い、自分自身をも救う。

 神の子は十字架に掛けられた。

 ここに、神の子の教えが示される。

 我が父なる神、

 我が父なる神、

 私を救ってくださり感謝いたします。」



 処刑人たちは言った。

「神の子の処刑には、他の生け贄が必要か。

 否。

 それは神の子の処刑に相応しくない。

 神の子は一人である。

 神の子の処刑は、神の子ただ独りで行われる。」



 神の子は死んだ。

 神の子が死んだ。

 神の子の死は、静寂を伴った。

 神殿が裂けることもなく、

 地震が起こることもなく、

 墓から死者が蘇ることもない。



 後に、神の子は復活した。

 神の子は、生から死へ移り、死から生へ移った。

 ここに、罰なき罰が示された。



 神の子は、予言していた。

 復活を見なければ信じない者には災いを。

 復活を見ずとも信じる者には幸いを。

 それゆえ、幸いを得るに値する者にのみ真実を。



 神の子は言った。

「見よ。

 私は世の終わりまで、

 人の子と共にある。

 全世界に、

 全創造物に、

 福音を宣教せよ。」



 神の子は言った。

「私には、汝たちに告げるべきたくさんの事柄がある。

 しかし、汝たちは今まだそれに耐えられない。

 しかし、終焉の刻はやがて来る。

 そのとき、真実は示されるだろう。」



 神の子は、天に昇り、神の右に座る。

 神の子の教えは叶えられた。

 神の子の言行は、

 記されたもの、および、記されなかったものと共にある。

 そこには神の子の教えがある。

 神の子への賛美歌が響き渡る。







【解説】

 今回は、『新約聖書』の「福音書」に該当する箇所です。このテーマも、避けては通れないテーマでしょう。

 福音書は、マタイによる福音書、マルコによる福音書、ルカによる福音書、ヨハネによる福音書の四つがあります。そこでは、おそらくは世界でもっとも有名な人物について語られています。

 ここでは、そこで語られている内容と、それによる世界的な影響の両方に対峙することになります。そのため『新約聖書』の「福音書」に対し、二重の意味での背信行為(異常性の暴露と概念の彫琢化)が同時に行われることになります。






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