『保守の自由』

  まず、ここでいう「自由」は、フリーダムやリバティとしての「自由」に限定して論じています。日本本来の自由は、ここでは問題とはしません。日本本来の自由については、『日本式 自由論』を参照してください。
 さて、21世紀初頭の世界に巻き起こった金融グローバリズムとその失敗により、ミルトン・フリードマンなどを代表とする新自由主義が間違っていたことが明らかになりました。それも当然の帰結なのですが、このことに警告を発していた人というのはほとんどいませんでした。保守派やそれに近い一部の人たちだけが、警告を発しているだけでした。
 フリードマンの新自由主義は間違っていたのは分かりました。そして私の考えでは、ハイエクの自由主義も間違っていると思われますし、自由主義全般に依拠することも間違いであると思われるのです。
 ジョン・グレイによると、〈自由主義は、他の政治的善や政治的価値に対して自由に優先権を与える政治哲学、あるいは、それに類した考え方をとる政治哲学(『自由主義論』)〉とされています。
 保守主義は、自由主義ではありません。しかし、保守主義にとって、自由主義は特別な要素でもあります。西部邁は、〈歴史的なるものとしての自生的秩序を保守することをもって保守主義の精髄とみなせば、よき自由民主主義者は保守主義者でもなければならない(『発言者0 創刊準備号』)〉と述べています。
 そうだとするなら、私は自由主義も民主主義も嫌いなので、保守主義に距離を取ってしまいます。ですが、フリードマンは否定するが、ハイエクを肯定するという保守派は多いようです。再び西部邁の意見から引用すると、〈もちろんヨーロッパだっていろんな自由があったんですよ。たとえば、マンチェスター学派みたいにいっさいの規制から自由という、そういうふうな自由もあったけれども、だんだんいろんな自由論の中で整理されてきたら、それこそハイエクがいいと思うんですけど、ハイエク的な自由(『愛国心』)〉という発言があります。〈自由主義と保守主義がいかに交錯しどのように擦れ違うのか、その解釈いかんではハイエクが、保守主義の敵とまではいかなくとも、保守主義の友となるというのは大いにありそうなことなのだ(『思想の英雄たち』)〉とも語られています。
 ハイエクの自由に対する私の見解については、『ハイエク批判の地平』という論考を参照してください。私は、フリードマンだけではなく、ハイエクも批判すべきだと考えています。そのため、私の思想的立場と保守主義および自由主義の関係は、以下のようになります。

 

 私の思想的立場 ←友→ 保守主義 ←友→ 自由主義
    ↑                           ↑
     ――――――――――――敵―――――――――――

 

 ハイエクに限らず、ロックだろうがミルだろうが、自由主義者を肯定する理論的根拠は成り立たたないと思われるのです。自由主義それ自体に大きな問題があるのです。
 私は、自由を主義とする(自由に優先権を与える)見方に賛同することはできません。自由を積極的自由とするにしろ、消極的自由とするにしろ、勝手な定義を与えるにしろ、フリーダムやリバティとしての自由を価値あるものとすることは(少なくとも日本人であるからには)不可能だと思っています。それゆえ保守の自由に対する見方、つまり自由を価値ある概念とする見方に賛成できません。

 

 

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