中野剛志『反官反民』

 

 中野剛志(1971~ )は、日本の経産官僚です。研究分野は経済ナショナリズムです。
 中野の『反官反民』を基に、保守について考えてみます。

 

第一節 イラク戦争を巡る言論
 アメリカによるイラク戦争を巡る言論状況において、中野のそれは特筆に値します。
 まず、『反レジーム・チェンジ宣言』という論文において、中野はアメリカによるイラク戦争および日本のアメリカ追従を痛烈に批判しています。その上で中野は、〈このような事態に対し、何もできない非力さが無念であるが、呆けて事態を看過していたわけではないことを、後世に証拠として残すために、本小論をしたためるものである〉と述べています。この態度に敬意を表します。こういった言動を行う人物は、尊敬に値します。
 『規律と道徳』では、自衛隊のイラク派兵について、〈したがって自衛隊員は、イラク侵略への参加という政府の決定に背いてもよい、いや背くべきであると結論することができる〉と中野は述べています。まったくその通りだと思います。
 『現実主義と保守主義』では、〈つまり、フセインは無謀で非理性的ではないかもしれないが、子ブッシュは無謀で非理性的なのだ〉と語られています。見事な皮肉ですし、その通りだと思います。

 

第二節 言葉の定義の妥当性
 中野は保守に関わる言葉について、『反官反民』内で厳密に定義しています。言葉を厳密に定義して議論を進める姿勢は、非常に素晴らしいです。ここでは、言葉の定義とその妥当性について見ていきます。
 まず、『社交論』において、〈伝統とは規範的行動様式の蓄積であり、それが「公平な観察者」であり、良心である〉とあり、〈反省とは、伝統と照らして自分自身を見つめることであると言うこともできる〉と語られています。この伝統と反省についての定義は、保守という思想からは妥当だと思われます。
 さらに中野は、〈良心が判断する「罪」とは、「一般化された他者」から見られて「恥」と感ずるもののことであろう。したがって罪と恥とは、ほとんど同じ精神現象なのである〉と述べています。恥と罪をほとんど同一視していることが分かりますが、これは完全に間違っています。恥と罪は異なる概念です。
 簡単に述べておくと、恥は何々すべしに関わり、罪は何々することなかれに関わります。特に日本人は、あるべき様から外れたと思うとき恥を感じ、禁じられたことを犯してしまったと思うとき罪の意識が芽生えるのです。
 また、『「自由」と「民主」合併の条件』では、〈一般的に「自分の意志以外のものに束縛されない状態」のことが「自由」と理解され、「ある集団の構成員の平等な政治参加による多数決の意思決定」のことが「民主」と呼ばれる〉と定義されています。その上で中野は、〈自由民主主義は本質的にナショナルなものである。日本の自由民主主義であれば、日本的なものでなければならない〉と述べています。
 ここにも、見過ごせない過誤があるように思えるのです。まず、自由民主主義は本質的にナショナルなものではありません。自由民主主義は、ナショナルなものである場合も、ナショナルなものでない場合もあるのです。ある国家の制度が自由民主主義であるとき、ナショナルな観点から言えば、その自由民主主義はナショナルなものであるべきなのです。
 さらに、ナショナルな概念として日本を想定するなら、ナショナルな制度として自由民主主義を選ぶ必然性すらなくなるのです。

 

第三節 日本と保守
 『反官反民』の議論の中で、日本と保守に関わるところには重大な問題が隠されていると思われます。まずは、日本と保守についての中野の意見を追っていきます。
 まず、『日本において保守は可能か』において中野は、〈マイナスを容認してでもプラスの理想の実現を優先する精神は、確かに、西洋人により顕著であり、日本的ではない。その意味で、保守思想それ自体は、日本的ではなく、西洋のものである〉と述べています。そこでは、〈要するに、日本の保守が擁護すべきは、「日本的なるもの」の積極面であって消極面ではないということだ〉と考えられているのです。
 このような考え方は、〈不完全な社会の中で、マイナスを放置してでもプラスの価値を目指すのが「保守」の定義だからだ〉という前提から来ているのです。
 さらに『大衆の好物』においては、〈マイナスのない状態を理想視するという日本の伝統的な「和」の精神〉などと語られています。その上で中野は、〈大衆社会を拒否する保守がやらねばならぬことは、単に日本の伝統を守るというだけではなく、まずは日本人の伝統精神にひそむ大衆性を拒否し、大衆的ではない伝統を本質として保守することではないか〉と述べているのです。
 ここには極めて重大な問題が、あからさまに示されています。

 

第四節 『反官反民』の保守について
 中野が『反官反民』において展開している日本と保守の関わりについては、極めて重大な問題が存在します。大きく分けて、三つの問題があります。
 まず、一つ目。中野は、マイナスのない状態を理想とするのが日本人であり、マイナスを容認してでもプラスの理想の実現を優先するのが西洋人だと述べています。この安易な場合分けは、さすがに頷けません。確かに日本はマイナスのない状態を理想としますが、プラスの理想にも十分に積極的です。そうでないのなら、日本思想史において、(もちろん反対派も数多くいましたが)日本が仏教や儒教を積極的に受け入れてきた事実、それどころかキリスト教やイスラム教からも参考にすべき点を学んでいる事実をどう考えれば良いのでしょうか? 日本は雑種文化だと言われることがありますが、これはある意味で真理です。日本ほどプラスの価値を吸収してきた文化形態に対し、いったいどこを見て何を言っているのかと思わずにはいられません。
 次に、二つ目。マイナスのない状態を目指す場合と、マイナスを放置してでもプラスの価値を目指す場合があるとき、中野は後者を「保守」だと定義しています。この定義は妥当なのでしょうか? 例えば、マイケル・オークショットの『保守的であるということ』には、次のような記述があります。

 

 保守的であるとは、見知らぬものよりも慣れ親しんだものを好むこと、試みられたことのないものよりも試みられたものを、神秘よりも事実を、可能なものよりも現実のものを、無制限なものよりも限度のあるものを、遠いものよりも近くのものを、あり余るものよりも足りるだけのものを、完璧なものよりも重宝なものを、理想郷における至福よりも現在の笑いを、好むことである。

 

 この保守的であることについての言説を参考にしたとき、マイナスのない状態を目指す場合とマイナスを放置してでもプラスの価値を目指す場合と、一体どちらが保守的だと言えるのでしょうか? 私には、どう考えても前者の方が保守的だとしか思えません。
 最後に、三つ目。中野はこう言っているのです。西洋のものである保守思想に基づいて、「日本的なるもの」に対し積極面と消極面を仕分けする、と。このとき、日本人の伝統精神にひそむ大衆性を拒否することになりますが、その拒否すべき大衆性の判断は、西洋のものである保守思想によって為されるのです。
 すなわち、日本の歴史や伝統を「護持」しようとする者は、「日本的なもの」を「西洋のもの」から護り持すために、「保守」という思想と対峙せざるを得なくなるのです。日本人が「日本的なもの」を護持しようとするとき、「西洋のもの」によって「日本的なもの」を裁く思想とは敵対することになります。日本の心を紡ぐ者は、自由主義や社会主義だけではなく、さらには保守主義とも敵対することになるかもしれないのです。日本人として生きるのなら、その覚悟が必要になるときがあるのです。
 これは、端的に残酷な事態です。

 

 

 

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