平等理論[前編]

 平等という概念があります。平等は、一種の理想として語られることがあります。ここでは、平等について考えていきます。

 まずは、西欧哲学における平等の考え方を参照していきます。



プラトン『プロタゴラス』

 平等という言葉を考える上で、公平さとの違いを考慮しておくことが必要でしょう。プラトン(Plato, B.C.427?~347?)の『プロタゴラス』では、登場人物の一人が言論の場における公平と平等について語っています。



 このような言論の場に立ち会う者は、対話を行う両者に対して、公平な聞き手でなければならないけれども、平等な聞き手であってはならないのだ――というのは、この二つのことは同じではないからだ。なぜなら、ひとつは両方の言うことに公平に耳をかたむけなければならないけれども、しかしどちらにも平等の価値をおいてはならないのであって、賢い者のほうにより多くの価値を、無知な者のほうにはより少ない価値をおかなければならないのであるから。



 この区別は重要だと思われます。この文章だけから判断するのは危険かもしれませんが、公平では二つのものに対し、価値による差を認めていると考えられます。一方、平等では二つのものに対し、価値による差を無視して、同じだと見なしています。

 つまり平等とは、価値による差を認めずに同じだと見なすことそのものに、価値を置いている概念だと考えることができます。



アリストテレス『政治学』

 アリストテレス(Aristotle、B.C.384~322)の『政治学』には、平等に関する重要な既述があります。



 「等」には二種類ある。すなわち一つは数におけるそれであり、他の一つは値打に応じたそれである。――ここに数におけると私の言うのは多さ或は大きさにおいて同じであるもの、等しくあるもののことであり、値打に応じたと言うのは比例におけるそれのことである。



 前者の「等」はいわゆる平等のことであり、同じ数を用いることです。後者の「等」はいわゆる格差のことであり、能力に比例した数を用いることです。これらの区別の上で、〈或るところでは数的「等」を用い、或るところでは値打に応じた「等」を用いなければならない〉と語られています。

 平等と格差は、状況に応じて使い分けることが必要だと考えられているのです。あるときは等しいと見なし、またあるときは差があると見なすべきだということです。中庸を重視するアリストテレスの面目躍如であり、平等に関する非常に重要な考え方が示唆されています。



アリストテレス『ニコマコス倫理学』

 次は、アリストテレスの『ニコマコス倫理学』に示されている「配分的正義」と「矯正的正義」について紹介します。

 配分的正義とは、〈名誉とか財貨とかその他およそ国の公民の間に分たれるところのものの配分における〉ものです。具体的には、〈配分における「正しい」わけまえは何らかの意味における価値(アクシア)に相応のものでなくてはならない〉と説明されています。その価値は何かというと、例えば民主制論者では自由人であることが、寡頭制論者では富や生まれの良さが、貴族制論者では卓越性(アレテー)が価値として考えられています。

 一方、矯正的正義とは、〈もろもろの人間交渉において矯正の役目を果たす〉ものです。例えば法的に容認された売買においては、損得が過多でも過小でもないような状況が正しいこととして考えられています。つまり、〈「正」とは、ここでは、一方の意に反して生じた事態における或る意味における利得ならびに損失の「中」であり、事前と事後との間に均等を保持するということにほかならない〉というわけです。

 ざっくり言ってしまうと、「配分的正義」は価値に応じて適切な差をつけることであり、「矯正的正義」は法に応じた適切な対応を行うことを意味しています。



ミル『功利主義論』

 ミル(John Stuart Mill, 1806~1873)の『功利主義論』には、平等について言及があります。



 公平の観念と密接に関連するのが、平等の観念である。平等はしばしば正義の公正要素として、正義の概念の中にも正義の実践の中にも含まれている。そこで多くの人たちの目に、平等が正義の本質を構成すると映るのである。しかし平等の場合は、ほかの場合以上に正義の観念が人によってまちまちである。しかもその内容は、必ず各人の功利の観念と一致している。だれもが、不平等であるほうが便宜だと思うとき以外は、平等は正義の命ずるところだと主張する。すべての人の権利に平等な保護を与えるという正義が、権利そのもののとんでもない不平等を支持する人間によって主張されている。



 つまり各人は、自分に都合がよいことを平等だと叫んでいるということです。そのため、平等を唱える人ごとに、その内容はバラバラだというのです。例えば労働生産物について考える場合でも、それを平等に分けるべきだと考える者もいますし、ひどく欠乏している者が多く受け取るべきだと考える者もいますし、よく働いた人が大きい分けまえを要求すべきだと考える者もいます。〈これらの意見はどれも、いかにももっともらしく自然の正義感に訴えることができる〉というわけです。

 平等思想において正義を唱えたとしても、何の規準によって平等と見なしているかによって正義の内容はバラバラだというのです。それぞれの正義は互いに矛盾しますが、それぞれの正義は、もっともらしく正当化して訴えることができてしまうのです。



トクヴィル『アメリカのデモクラシー』

 トクヴィル(Charles Alexis Henri Clrel de Tocqueville, 1805~1859)は、著作の『アメリカのデモクラシー』で平等について語っています。



 多数者の精神的権威は、一つには次のような観念に基づいている。すなわち、一人の人間より多くの人間が集まった方が知識も知恵もあり、選択の結果より選択した議員の数が英知の証だという考え方である。これは平等原理の知性への適用である。この教義は人間の誇りの最後の聖域を攻撃する。だからこそ少数者はこれを簡単には受け容れない。長い時間を経て初めて、少数者はこの教義に慣れる。あらゆる権力と同じく、いやおそらく他のいかなる権力にも増して、多数者の権力が正当視されるには持続が必要なのである。この権力が樹立される初期には、服従は強制によって調達される。人がそれを尊敬しだすのは、その法制の下に長く暮らした後のことである。



 平等原理の知性への適用とは、質ではなく量によって知性を保障するという恐るべき事態を意味しています。人間が平等であるなら、知性はその数の多さによって有益であると判定されるということです。平等によって、多数派による少数派の排除という差別が正当化されるのです。皮肉のお手本のような事態です。

 平等は、人間の絆を断ち切る役目を果たすことが往々にしてあるものなのです。〈平等は人と人をつなぐ共通の絆なしに人間を横並びにおく〉からです。そのため、〈境遇が平等であるときにはいつも、全体の意見が個人一人一人の精神にとてつもなく重くのしかかる〉ことになります。絆が断ち切られた社会において、全体の意見とは異なる見解を持つとき、その人は押しつぶされてしまうかもしれないのです。

 さらに、不平等が当たり前のときには顕在化しなかった不満が生まれます。〈すべてがほぼ平準化するとき、最小の不平等に人は傷つく〉ことになるからです。〈境遇がすべて不平等である時には、どんなに大きな不平等も目障りではないが、すべてが斉一な中では最小の差異も衝撃的に見える〉というわけです。ある観点からの平等が社会正義となったとき、わずかに平等ではないことに関して、人々は我慢できなくなるのです。完全な平等など人間社会では不可能ですから、平等の幻想が解けない限り、不満はずっと続くことになるのです。





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