平等理論[後編]

 前編では、西欧哲学における平等の考え方を参照してきました。後編では、平等という概念を理論的に考えていきます。



平等の構造

 平等とは、何かにおける平等です。二つ以上のものを比べて、世の中に数多くある要素群の内、何かが同じであるものを平等だと見なしているのです。

 つまり、平等という概念は、異なっている二つのものを同じだと見なすという約束ごとの上に成り立っているのです。そのため平等は、政治における平等だったり、法における平等だったり、経済における平等だったりするわけです。

 政治における平等では、成人男女の投票権が認められていることをもって、平等が実現されていると見なしていたりするわけです。投票が可能だとしても、投票結果が多数派に属していれば政治に反映され、少数派に属していれば反映されないわけですから、ぜんぜん平等ではないと言い張ることも可能です。また、投票日などによって各人の投票しやすさに違いがありますから、その差異を埋めないと平等ではないと主張することも可能です。ただし現在では、なぜか投票できる権利によって平等が論じられているため、成人男女の投票権が認められていることをもって、政治における平等が実現されていると見なされているわけです。

 つまり、基準を何に置くかによって、平等だとも不平等だとも好き勝手に言えてしまうのです。明らかに異なっている二つのものを、ある何らかの点の同質性を判定することで、平等だという判断が可能になるのです。同じく、ある何らかの点の異質性を判定することで、格差があるという判断が可能になるのです。



平等の精度

 平等を判断するには、同質性と異質性の判定が必要です。ここに、精度という概念が関わってきます。

 例えば、何らかの長さを測る場合には、数値的には無限の精度を考えることができます。しかし、計測装置の限界によって、測定精度を無限に上げることはできません。そのため目的に応じて、単位の小数点第何位までという範囲を決めて、長さの正確さの基準を暫定的に設定することが必要になります。

 小数第三位までの精度を必要とするなら、小数第七位や小数第百十三位の数の値がいくつであろうが関係なくなります。小数点第三位を境(さかい)にして(少数第四位を四捨五入して)、それより大きい値は格差となり、それより小さい値は平等(差を考慮しない)となるわけです。小数点第三位までの精度が必要なら、0.001と0.002は格差がありますが、0.0011と0.0012は、同じ0.001として平等だと見なすということです。どの程度の精度によって平等が実現されていると見なすか、そこに任意の設定があるので注意が必要になります。



平等と多体問題

 平等を価値判断として、厳密に社会に適用することは危険です。その参考として、物理学の問題を考えてみましょう。

 物理学には、多体問題(N‐body problem)という互いに相互作用する三体以上からなる系を扱う問題があります。古典的には、万有引力による惑星運行の問題が挙げられます。太陽と地球のような二体問題(Two-body problem)は解けますが、月の運動も含めた三体問題(three -body problem)以上になると、特別な場合を除いて解くことはできないとされています。厳密に言うと、19世紀末にジュール=アンリ・ポアンカレ(Jules-Henri Poincaré, 1854~1912)が、三体問題を積分法で解くことが不可能であることを証明しています。積分法の範囲以外の解法の存在については、現在のところ不明です。

 何が言いたいかというと、二つの要素を三つに増やしただけでも、問題はとんでもなく難しくなるということです。ましてや人間社会における平等問題などは、とんでもなく複雑で解決困難な問題なのです。簡単に、それは平等だとか不平等だとか言うのは、少し慎むべきだということを言いたいのです。



平等と幾何学問題

 社会の状態を平等だとか不平等だとか主張することの危険性を示すために、今度は簡単な幾何学問題を考えてみます。

 まず、二次元の絶対座標系に、任意の二つの点A・Bを配置します。このとき、点Aと点Bは平等です。点Aと点Bを、それぞれをどこに配置しようが、どう動かそうが、互いの相互作用という観点から平等だと言えます。

 ちなみに、点Aが静止して点Bが動いている場合は、平等ではないように思えるかもしれません。しかし、それは二次元平面の二つの点を認識する視点という第三の点を持ち込んでいるから、そう思えるのです。点Aから視た点B、点Bから視た点Aという二点間だけの場合は、点Aが静止して点Bが動いている場合も平等が成り立ちます。自分と相手の相対位置や相対速度が同じになるからです。

 次に、三つの点A・B・Cを配置する場合を考えます。この場合は、三点を同じ場所に配置するか、正三角形になるように配置しないと平等にはなりません。点を動かす場合も、同じ場所で同じように動くか、正三角形という形状を保ったまま動いたり、拡大や縮小したりするといった限定された場合しか平等ではありません。例えば、点Cが少し動いて正三角形が崩れると、点Aから視た点Cと、点Bから視た点Cが異なる位置や速度になり、平等ではなくなります。

 何が言いたいかというと、平等を素晴らしい価値だと主張して厳密に追求すると、どんどん世の中は堅苦しくなってしまうということです。平等を要求する場合には、限定された状況に限り、ざっくりとした精度で暫定的に要求するにとどめておくべきなのです。



平等と公正

 平等は、それ自体として価値にはなりえません。

 平等は、異なっている二つ以上のものを同じだと見なすことなのですから、平等が素晴らしいということは、その見なしを素晴らしいと言っていることになります。ですから、その見なしを素晴らしいと思う基準、例えばその基準を公正と呼ぶならば、価値は公正にこそあるのです。

 平等と格差の調和が、公正を指し示し、公正が平等と格差の調和をもたらすのです。この構造に対し、卵が先か鶏が先かを問うことにはあまり意味がありません。公正そのものの水準は、この循環構造の中で磨かれていくものだからです。

 公正の中身とそのときの状況によって、何を平等と見なすかは変化します。同一の状況においても、公正さが違えば、何を平等と見なすかは異なることがありえます。公正が国家の公正である場合、国家ごとに何を平等と見なすかは異なることがありえるのです。



平等の弊害

 世の中が治まるためには、平等と格差を状況に応じて適切に使い分ける必要があります。しかし、平等を社会正義とし、格差に非難の目を向けるとき、世の中の安定は失われます。

 簡単に言えば、平等社会において人民は、自身よりも上の人物を平等という名において引きずり下ろします。そうして溜飲を下げるのです。さらに、平等の名において自身の地位を引き上げて、うまい汁を吸おうとします。人民が責任を負わずに、そのことに恥を感じることもない社会が、まともに機能するわけはないのです。



機会の平等と結果の平等

 平等における議論では、「機会の平等(Equal opportunity)」と「結果の平等(Equality of outcome, Equality of results)」の違いが問題になることがあります。

 人々の向上心を高めるため、機会の平等は正しいが、結果の平等は間違っているという意見があります。しかし、この意見は間違っています。

 なぜなら、機会と結果は連動しているからです。時間の積み重ねにおいて人々の営みが続くため、結果は機会に影響を及ぼし、機会は結果に影響を及ぼします。あっさり解答を言えば、機会の平等と格差、および結果の平等と格差の調和が必要だという当たり前の話にしかなりません。

 各人が社会へ参加するためにも、一定の結果を保証する仕組みが必要ですし、社会における活力をうながすためにも、一定の機会を保証する仕組みが必要になるのです。社会における各要素間の平衡と、個人の逆転可能性を有した均衡が求められるのです。



平等主義者

 平等主義者とは、多くの価値観の中から一つを絶対化し、それに任意の境界線を自分勝手に設定して他者へ押し付けている人たちなのです。ですから平等主義者は、その自身の基準に合わない者を、差別主義者と読んで非難するという、恐るべき人たちのことなのです。

 多くの要素の調和という観点から判断すれば、平等主義者とは、差別をしまくっている者たちのことなのです。他人の差別を非難する者は、往々にして、差別大好き人間であることがありえるのです。そういった恐るべき人たちは、世界の豊穣性を犠牲にし、他の価値観を抹殺していきます。そうすることで、平等主義者の理想は成就されることになるのです。

 めでたし、めでたし。



平等主義の限界

 平等は、至上の価値には成りえません。その理由は、価値観が多様だからです。それぞれの価値観が、互いに連動したり反発したりしているからです。つまり世界の豊穣性が、平等主義などという単純な解決を許さないのです。

 ただし、限定的には平等を要求すべき場合があるでしょう。人間の能力は有限ですから、無限の精度を求めるわけにはいかないからです。豊穣な世界に立ち向かうために、人間の認識能力の限界さのゆえに、世界を近似して把握する方法は必要だと考えられます。ですから、この世界において、平等と格差が、それらを判断する公正さが想定されることに、されざるを得ないことになるのです。そして、その公正さが設定ではなく想定でなければならないのならば、公正さの複数性が求められることになります。

 なぜなら、人間の公正観念が完全に至ることはありえないと思われるからです。その理由もまた、世界の豊穣性のゆえです。





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