建設的な議論のために
物事を考えたり思想を深めたりする場合、そこには論理が必要になります。そのためには、本を読んだりして勉強することももちろん必要ですが、他人と議論するということも重要になってきます。
他人と議論をすると、有意義な結論を得られることがある一方で、不毛な結果に終わってしまうことも少なくありません。できれば不毛な議論はしたくないので、議論が建設的になるための条件について少し考えてみましょう。
議論のマナー
議論には、議論のマナーがあります。議論のマナーを守らないと、議論そのものが成り立たなくなってしまいます。
議論のマナーを守る人と、議論のマナーを守らない人が同席している場合を考えてみましょう。たいていの人が経験していることだと思いますが、議論のマナーを守る人が、議論のマナーを守ったまま、議論のマナーを守らない人を注意しても事態が良くなることはまれなのです。それどころか、議論のマナーを守ったまま対応すると、議論のマナーを守らない人によって議論の場が荒らされてしまうこともあります。
つまり、議論のマナーを守らない人には、議論のマナーを守ったままでは対応できない可能性があるのです。
議論のマナーを守らない人については、議論から排除しなければなりません。そこには強制力が必要であり、暴力では言い過ぎなら、武力の行使も検討されるべき項目に含まれます。武力の他にも、議論のマナーを守らない人を排除する方法はいくつかあります。例えば、議論に入るための資格を設けたり、あからさまな手段としては無視したりすることなども考えられます。
「無視する」などの行為については、それに嫌悪感を抱くひとも多いでしょう。その感覚は、通常は正しいと言えます。しかし、常に「無視する」という選択肢を排除することが正しいとは限らないのです。場合によっては、「無視する」ことを意図的に行使することも戦略に組み込んでおくべきです。少なくとも、このことは検討に値すると思われます。
批評の基準
議論から排除すべきか否かの判定基準は、当然ながらその参加者が議論のマナーを守る人かどうかにかかっています。
では、議論のマナーとは何でしょうか? いくつか考えることができますが、ここでは批評と言えるかどうかという基準で考えてみることにします。議論では、単なる感想や中傷ではなく、批評を行なうべきだと思われるからです。
『大辞林 第三版』では、批評は「事物の善悪・優劣・是非などについて考え、評価すること」と定義されています。『岩波 哲学・思想辞典』には、批評は「人間の製作した具体的な対象もしくは人間が関わりをもつ事象の特性を分析し、評価する行為の総称」と説明されています。これらの定義について、少し掘り下げてみます。
まず「事物」や「具体的な対象」や「人間が関わりをもつ事象」とありますから、対象が明確化されているということは指摘できそうです。次に、「善悪・優劣・是非」や「特性の分析」などの用語から、客観性のある根拠が必要だと判断しても良さそうです。よって、ここでの批評とは、「明確化された対象を客観性のある根拠を示して評価(肯定/否定)すること」だと考えておきます。
この定義の条件が満たされていなければ、批評ではないということになります。その場合、評価が否定的なものなら、単なる悪口(わるぐち)になってしまいます。
この批評の定義から、批評とは検証可能なものだ、ということが導かれます。検証可能であるとは、難しく言えば反証可能性を有しているということであり、簡単に言えば間違っている場合は間違っているときちんと言えるということです。
建設的な議論を行う場合には、議論の参加者が批評を行えることが必要になるのです。もちろん、批評を行えばそれが建設的な議論になるかと言えば、必ずしもそうだとは言えません。あくまでも、批評ができることは、建設的な議論の最低限の条件だということです。
批評ではない評価の場合
議論には批評が必要なことを理解するためには、批評の要件が満たされない場合にどうなるのかを考えてみることが便利です。批評は、「明確化された対象を客観性のある根拠を示して評価(肯定/否定)すること」ですから、批評ではない評価には、次のようなパターンがあることになります。
(1)対象を明確にしていない
(2)客観性がない(主観的である)
(3)根拠がない、もしくは、根拠が曖昧である
これらのパターンで否定することは、端的に悪口だと言ってしまってよいでしょう。
悪口は批評ではありませんから、検証可能ではありません。悪口を言う者は、検証可能でないような方法で否定を行っているわけです。そのため、悪口を言う人の心理には、自分は相手を否定したいけど、自分は相手から否定されたくないという動機が往々にして隠されているものなのです。悪口は、このような都合の良い仕組みを備えています。ちょっと個別に検討してみましょう。
まず(1)の場合を考えてみます。この場合、悪口を言うやつは、自分が悪口を言いたい相手をはっきりさせずに否定的なことを言うわけです。この行為の性質上、不特定多数の人たちへ悪口を言いふらすことになります。その不特定多数の中に、いじめたい相手がいるわけです。この方法は、ある意味で悪口の高等テクニックだと言えます。悪口を言われたと思った相手は、当然ながら不快な気持ちになるわけですが、名指しされていないので反論しづらいわけです。勇気をもって反論したとしても、「君のことじゃないよ。何? 自意識過剰?」などと言われれば黙るしかなくなります。素朴な人なら、そう言われたら罪悪感を抱いてしまうかもしれません。
ちなみにこのような悪口の場合、その悪口の内容に当てはまる複数の人物が、自分が非難されたと思ってしまう可能性があります。その内容に当てはまらない人でも、このような悪口のやり口に嫌悪感を抱く人もいるでしょう。そういった意味で、かなりの負の感情を拡散させてしまう行為だと言うことができます。
次は、(2)です。単純な場合では、「たいしたことないな」とか、「面白いとは思わない」などと言うわけです。そういった行為に文句を言っても、「だって、そう思ったんだもん。何? 感想いっちゃいけないの?」などと言い返されるわけです。実にむかつきますね(笑)。
複雑な場合では、客観的に見えるような文書を並べた上で、結局は主観でしかない意見で否定するという方法があります。前置きでグダグダと長ったらしくそれらしいことを述べておくと、結論が主観でしかなくても気づかれにくくなるものなのです。注意が必要ですね。
最後に、(3)です。特に、根拠が曖昧な場合には注意が必要です。例えば、「経済について分かってないな」などのように学問的な大枠で否定する場合や、「ニーチェくらい読んでから言えよな」などのように権威となる人物を利用して否定する場合などです。こういった言い方は、あまりに抽象的すぎるので効果的な反論が難しいわけです。それでも、まともな人が頑張って論理を詰めて反論したとしても、「そういう意味で言ったんじゃないし」などと言い逃れができてしまうわけです。
この(3)も、ある意味で高等テクニックです。どうとでも取れるように言っておいて、相手の出方次第で戦略を変えるわけです。論破されそうになっても、「君の言ったことくらい分かってるよ。私が言いたかったのは、そうじゃなくて、別の○○○のことなんだよ」などと言えば良いわけです。こちらが間違っていたことをごまかせますし、それどころか、相手が見当違いのことを言っていたように見せかけることができるわけです。
これらの(1)~(3)の悪口は、現代ではネット空間でいくらでも見つけることができます。
肯定と否定の非対称性
ここで、肯定したり否定したりする「評価」について少しだけ述べておきます。
物事の評価において、肯定と否定は同値ではないように思えます。分かりやすいと思うので、批評でない場合で例を示します。「君はイケメンだと思うよ」と言ってもほとんど問題になりませんが、「君はブサイクだと思うよ」と言えば険悪になってしまいます。前者はほめ言葉であり、後者は悪口ですね。
もちろん、根拠なく褒め称える行為が怪訝に思われるような場合などもありますが、基本的には肯定が問題視されることはあまりないということは言えそうです。
つまり、肯定と否定には非対称性があるのです。そのため、否定するという行為には注意が必要になるのです。当たり前の話ですね。
ですから、肯定的な感想を言うことが咎められることはほとんどありませんが、否定的な感想には嫌悪感を抱かれる場合が多いということは認識しておくべきでしょう。
また、肯定か否定の二者択一ではなく、「分からない」とか「回答は保留したい」と言うことも、もちろん重要です。建設的な議論のためには、無理に結論を出すのではなく、次回以降へ繋げることも考えておいて然るべきなのです。
悪口が社会的に悪い理由
悪口が社会的に悪いことは、「悪」という漢字が入っていることからも明らかです(ドヤッ)。
証明終了。
.........。
これではあんまりなので、悪口が社会的に悪い理由についてもう少し考えてみます。
脳科学の分野の知識を用いて、人の悪口を言うと、結局は自分自身が傷つくことになってしまうという結論を導くこともできます。脳の働きから、悪い言葉は自身への悪影響をもたらす可能性を指摘できるからです。それには一理ありますが、もっと別の角度から考えていきます。
それは、悪口は楽しいという視点です。もちろん、私は悪口なんか楽しくない、言うのも聞くのも大嫌いだという方もおられるでしょう。ですから、ここでの考え方は、悪口を楽しいと感じる人もたくさんいるという事実に基づいています。
では、なぜ悪口は楽しいのでしょうか?
一つの理由としては、個体としての生命体は、自分に害が及ばずに、(他者などの)対象を好きなように支配できることを好むという性質が挙げられます。このような状態は、自己の生命保全にとって有利になることは明らかですから、個体としての生命体にとっての理想状態だと言えるかもしれません。
しかし、このような理想状態を実現したり維持したりすることは極めて困難です。そのような場合、生命体は群れのような仕組みを利用することがあります。個体として行動するのではなく、集団で行動することによって自己の生命保全を図るのです。そのときには、群れのルールに従うことが必要になります。そのルールは、個体における好みとは異なることがありえます。人間の場合は、群れのルールに相当するものが、社会性として論じられることになります。人間にとっては、集団行動において統制を取るための方法が社会的な善となり、統制を乱すような振る舞いが社会的な悪となるわけです。
このような構造を基に考えるなら、悪口は検証可能でなく建設的でないため、社会的な悪と見なされることが分かると思います。悪口を排して建設的な議論によって物事を進める集団は、そうでない集団よりも有利になると考えられるからです。
動物の中には、生殖行為を除いてほとんど単独行動で一生を終える種族もあれば、集団行動に従って一生を終える種族もあります。人間の場合は、他の動物との相対比較から、集団行動よりの動物だと言えそうです。
そうであるならば、個人が悪口を好むより、悪口を嫌悪するようになった方が、都合が良いということにならないでしょうか?
ある面においては、都合が良いと言えます。そのため、人間は教育という特別な営みを通して、悪口は嫌悪すべきものだという観念を埋め込まれることになるのです。このことは、「道徳の内面化」と呼ばれたりします。悪口についての道徳を内面化した個人は、悪口を聞くと嫌な気持ちになったり、悪口を言うと罪悪感を抱いたりするようになります。
人間が社会的な動物である以上、この「道徳の内面化」の問題は常につきまといます。その内面化の浸透具合には、個人差があります。
道徳の内面化の程度について
悪口における「道徳の内面化」の程度について、少し考えてみましょう。
内面化の程度が高い人は、悪口を嫌う人になります。このような人を便宜的に、「心のきれいな人」と呼んでおきましょう。一方、内面化の程度がそれほど高くない人は、悪口を言うことが楽しかったりするわけです。
心のきれいな人は、悪口を聞くと嫌な気持ちになります。すごく心のきれいな人は、悪口を言うことが信じられないと言います。はっきり言ってしまうと、すごく心のきれいな人は、悪口を楽しむ人の心を理解できないのです。
ここで、思考実験をしてみましょう。悪口に嫌悪感を抱き、悪口を言うことが楽しいということを理解できない程に心のきれいな人たちが、理想的な社会を築いていくという実験です。
この心のきれいな人たちは、もちろん悪口を禁止するでしょう。徹底的に禁止するでしょう。相互監視などの制度を設けるかもしれません。その結果、悪口のない、理想的な社会が築かれることになるでしょう。
ただ、私にはこのユートピアはディストピアにしか思えません。その根拠を、簡単に二つほど述べておきます。一つ目は、個人と集団は同一ではないという単純な事実です。二つ目は、集団の論理は完全ではないため、各個人間において相互作用を働かせる必要があるということです。
ちなみに、私は心がきれいではないので、人の悪口を言うのが実に楽しいという心理はとてもすごく理解できます。それでも、私は悪口が嫌いです。別に正義感から言っているわけではありません。ただ、私は建設的な議論が好きなのであり、悪口はその建設的な議論を破壊してしまうから嫌いなのです。ですので、悪口を言うような人とは親しくなりたくないのです。
批評の中身について
建設的な議論のために、悪口を排除して批評を行うべきことについて述べてきました。検証可能な批評であることは、建設的な議論の最低限の条件なのです。
つまり、ムキになって自分の意見を押し通すのではなく、反証されたら(間違いを指摘されたら)自分の意見を修正すべきことが大切なのです。反論に対する再反論をする場合にも、客観的な根拠を示すことが必要です。反論だけではなく、質問や代案を有効に活用することも必要になってくるでしょう。自分の意見を修正する心の余裕がないなら、議論には参加しない方が良いかもしれません。
自分の人生を建設的なものにしたいと考える人は、建設的な議論のできる友人を持つことが有意義でしょう。そのためには、悪口を言う人と距離を取ったり、悪口を言っている人を世間的に公表したり、公的な手段に訴えたりして、悪口を言う人を排除する必要があります。もちろん、悪口の判定には曖昧さがつきまといますから、厳密性を追求しすぎることには注意が必要です。思考実験の結果から分かるように、排除についても程度問題だとも言えます。
ただ、建設的な議論のために、悪口にどう対処するかを予め検討しておくことには、少なくない意義があると思うのです。当然ながら、ここで示した考え方は、用語を恣意的に用いている面もありますし、間違っている箇所も、修正すべき箇所もあるでしょう。ですから、一つの考えるきっかけとして提示したに過ぎません。建設的な議論を行うためには、みんなが試行錯誤しなければならないという当たり前の話です。「批評」という難しい用語を使ってグダグダと述べてきましたが、要するに、悪口のような卑劣な方法ではなく、ちゃんとまともなことを言えよ、というだけの話なのです。
さて、悪口を排除したら、次には批評の中身が問われることになります。孔子の『論語』に、「これを知る者は、これを好む者に如かず。これを好む者は、これを楽しむ者に如かず」という言葉があります。見事な言葉だと思います。建設的な議論へ向けて、どのような批評であるかが問われることになるのです。好むことや楽しめることを批評する場合は、そうでない場合よりも有意義になるような気がします。少なくとも、その可能性はありえると思われるのです。
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