地獄に堕ちても

 地獄とは、宗教上の世界観において想定されている複数の死後の世界のうちの一つです。罪を犯した者が、罰を受ける(責め苦を受ける)場所だと考えられています。

 仏教の地獄は、六道(天道・人間道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道)の一つであり、閻魔大王が生前の罪業を裁き、獄卒の鬼が刑罰をあたえると言われていたりします。

 キリスト教の地獄は、神の教えに背いた者が永遠の苦を受ける死後の世界です。天国との対比で考えられています。

 科学的には、死後の世界である地獄の存在は証明されていません。



地獄による布教

 ほとんどの宗教は、布教活動を行います。布教活動には、様々な方法があります。代表的な方法は、その宗教の思想が優れていることを示すことです。その他には、地獄を利用する方法などがあります。

 地獄を利用する方法では、「我々の勧める宗教に入らないと地獄に堕ちるぞ」と言って勧誘するわけです。地獄の悲惨さを強調し、苦しい目にあいたくなければ入れと脅すわけです。



A教徒「A宗教に入らないと、地獄で苦しむことになるぞ。」

B教徒「嘘です。B宗教に入っていただければ、地獄にいかなくてすみます。」

A教徒「だまされるな。A宗教に入らないと火で焼かれることになるぞ。」

B教徒「違います。だまされてはいけません。B宗教に入らないと、火で焼かれたり氷付けにされたりします。単純労働などもあって、バリエーションに富んだ苦しみ方をすることになります。」

A教徒「こっちの地獄の苦しみは何万年も続くんだぞ。」

B教徒「ならばこっちは何億年です。いや、もうずっとです。永遠です。」



 なんてね。



日本の地獄

 日本における地獄の思想は、空海の『三教指帰』や景戒の『日本霊異記』もありますが、源信の『往生要集』の影響が非常に大きいと言えます。『往生要集』では、八大地獄などが詳述され、地獄に堕ちることに対する恐怖心から、浄土信仰の隆盛の大きな要因となりました。

 そして、地獄の思想に対して、それに対抗する思想もまた生まれることになるのです。



親鸞の決意

 鎌倉時代の日本では、新仏教の宗派が興隆しました。

 浄土宗の宗祖である法然は、称名念仏のみで浄土往生ができるという専修念仏の教えを唱えました。浄土真宗の祖である親鸞は、法然の影響を受け、念仏の信心による浄土往生を説きました。

 親鸞の『歎異抄』には、次のように語られている箇所があります。



 たとい法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄に堕ちたりとも、さらに後悔すべからず候。



 たとえ法然にだまされて地獄に堕ちることになっても、親鸞は何の後悔もしないというのです。この言葉の裏には、華厳宗の明恵が、法然の『選択本願念仏集』を批判するために『摧邪輪』を発表していたという背景があります。

 地獄に堕ちることも厭わない信仰、格好良いですね。



ザビエルらの布教において

 室町時代の日本においては、フランシスコ・ザビエル一行がキリスト教の布教活動を行っていました。そのときの活動については、ザビエルの『聖フランシスコ・ザビエル全書簡(東洋文庫)』や、ルイス・フロイスの『完訳フロイス日本史(中公文庫)』などで知ることができます。

 ザビエルの活動において注目すべき点の一つに、キリスト教の地獄を巡る日本人の反応を挙げることができます。ザビエルの書簡には、次のような記述があります。



 日本の信者たちには一つの悲しみがあります。私たちが地獄に落ちた人は救いようがないと言うと、彼らはたいへん深く悲しみます。亡くなった父や母、妻、子、そして他の人たちへの愛情のために、彼らに対する敬虔な心情から深い悲しみを感じるのです。多くの人は死者のために涙を流し、布施とか祈禱とかで救うことはできないのかと私に尋ねます。私は彼らに助ける方法は何もないのだと答えます。

 彼らは、このことについて悲嘆にくれますが、私はそれを悲しんでいるよりもむしろ、彼らが自分自身[の内心の生活]に怠ることなく気を配って、祖先たちとともに苦しみの罰を受けないようにすべきだと思っています。



 身も蓋もない言い方をしてしまいますと、ザビエルは地獄に行った祖先は仕方がないので、お前たちが地獄に行かないようにキリスト教に入りなさいと言っているわけです。ザビエルの立場としては、そう言うしかないということも理解できますが、やはり日本人としては違和感を覚えるところです。

 フロイスの方の記録には、都の人たちがキリスト教の地獄を知ったときの反応が語られています。



 都の異教徒たちは、仏の教えは、デウスの教えよりもずっと以前に日本に伝わった。そしてそれは彼らの先祖によってつねに深く敬われて来たのであって、たとえ彼らがなんの救いもなく永遠の苦しみを負って地獄の底に投げこまれることが確かでもキリシタンになりはしない。なぜならキリシタンになることは先祖に侮辱を加えることになり、彼らの偽りの神々の祭祀を汚すことになるからである。



 当時の都の日本人が示したこの判断は、私にはとても健全なものに思われるのです。



ホイジンガの話

 室町時代の日本人が示した反応は、何も日本人に限ったものではありません。

 オランダの歴史家であるヨハン・ホイジンガの『アメリカの精神』(『ホイジンガ選集5』収録)に、類似した話があります。ホイジンガが、アメリカで若い社会学者と話したときのことです。その社会学者は、次の主張を展開したのです。



 いったい、なぜ過去の時代は偉大な芸術を生み出したのでしょうか。当時は、生活自体を生きるに値するものとするためには、生活と世界を支配する手段があまりにも不十分だったので、強く持続的な逃避と精神の強力な虚構とがなければ、現実の世界に堪えることができなかったのだと思います。――ですから、あらゆる時代の芸術は、根本的には病的現象と言えるでしょう。



 その言葉に対し、ホイジンガはフリースランドの王ラートボートの話をするのです。



 僧正が今しも王に洗礼を授けようとしたとき、王は僧正に、いったい今自分の父祖たちはどこにいるのか、と尋ねた。「地獄でございます」という答えを聞くと、足を踏み鳴らしながら王は洗礼盤から出てきて、余は新しい楽園よりも父祖たちのいる場所の方がいい、と言った。そんな話である。私はこの点、ラートボートの先例に倣って、社会的完璧さをもった約束の地に住むよりは、むしろ文化の妄念と恐怖の荒野に住みたいものだと言明した。



 このホイジンガの言葉は、アメリカの若い社会学者には届かなかったようです。しかし、このホイジンガの話に価値を見出す人もいるでしょう。ここには、精神における偉大さが、分かる人には分かるようにはっきりと示されているのです。



対・地獄の思想

 地獄という言葉は、宗教用語から派生して、非常に苦難な状況や場所の比喩として表現されることもあります。「地獄に堕ちるぞ」とか「地獄に堕としてやる」といった言葉は、そういった意味で今でも十分な脅し文句になりえます。

 もしかすると自分は、そういった脅しに屈するのかもしれません。ただ、たとえ屈したとしても、それは自分が弱いからだということは分かるはずです。それが分かるということは、少なくとも精神的な強さについて、それを問題にする水準には達しているのだと考えられます。

 対・地獄の思想。たとえ地獄に堕ちたとしても・・・。

 そこには、人類史における精神の偉大さがありえているはずです。少なくとも、精神の偉大さがありえるという儚い仮説を立てることができるはずです。




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