人権と人道

 ここでは、人権と人道について考えてみましょう。

 もしかすると、人権は西洋から出てきた概念であり、人道は東洋から出てきた概念だと思われる方がいるかもしれません。しかし、人権と同様に、人道という概念も西洋の歴史に見ることができます。そこでまずは、西洋の人権と人道の歴史を見た上で、東洋の人道を見ていくことにしましょう。



西洋の人権(human rights

 「人権」(もしくは基本的人権)という日本語は、明治初期に「human rights」の訳語として登場しました。

 西洋の17世紀から18世紀にかけて、近世絶対王政に対抗する政治理論として、全ての人間が生まれながらに保持する権利があるとする考え(自然権)が出てきました。その影響を受けた近代市民革命が起こり、近代人権宣言が登場することになりました。代表的なものとして、1776年のヴァージニア権利章典およびアメリカ独立宣言、1789年のフランス人権宣言などが挙げられます。それらの成果として特に重要なのは、1948年の世界人権宣言でしょう。現在では、人権という概念が各国の憲法や国際法などに取り入れられています。

 人権という言葉には、普遍的な理念だという意識があるようです。しかし、なぜ「人間であること」から「人権を持つこと」が導かれるのかは、説明が求められるはずです。人権の根拠については、法哲学においてさまざまな議論が展開されてきました。神学説、自然法説、社会通念説、社会契約説など多岐に渡る根拠が挙げられてきましたが、どの理論にも批判があり、完全な論証にはいたっていません。



世界人権宣言(Universal Declaration of Human Rights)の検討

 人権という概念を検討するにあたり、ここでは世界人権宣言(Universal Declaration of Human Rights)の内容を基に考えていきます。

 世界人権宣言は1948年12月10日に、国際連合の第三回総会の決議において万場一致で採択されました。前文と三十条までの文章で構成されています。すべてを見ていくのは大変なので、特に重要な第一条を見てみましょう。



第一条

 すべての人間は、生れながら自由で、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心を授けられており、同胞の精神をもって互いに行動しなくてはならない。



 ここで「自由」と「平等」という二つの概念に注目してみましょう。自由と平等は、両立不可能な概念です。自由を追求すると平等が成り立たず、平等を追求すると自由が成り立ちません。そのため、人権という概念が整合的に成り立ちません。「理性」と「良心」をもって考えるなら、「人間であること」から「人権を持つこと」を導くことができなくなるのです。

 さらに述べておくと、自由と不自由の境界は自由主義者が都合よく勝手に決めるものであるため、自由を善き価値と見なす自由主義は欠陥思想です。同様に、平等と不平等の境界は平等主義者が都合よく勝手に決めるものであるため、平等を善き価値と見なす平等主義も欠陥思想です。

 ここで一旦、裁定を下しましょう。人権という概念は、自由や平等と同じように、特定の個人や団体が自らの都合の良いように内容を規定し、敵対者を叩き潰すのに利用するための観念なのです。つまり、人権思想は欠陥思想だということです。

 ただし、全面的に参照する価値がないかというと、もちろんそんなことはありません。例えば、第二条で示されているように、人種や皮膚や性や言語などで区別するのではなく、人間という単位で考えてみるという視点は考慮に値します。また、第三条の生存や身体の安全の保障、第四条の奴隷の禁止、第五条の拷問の禁止なども検討に値します。

 そのため、人権思想の良い部分を残し、悪い部分を弾くための土台として、人道という概念に希望をつなぎたいのです。



西洋の人道(humanity

 西洋の人道は、人間性とも訳される「humanity」のことです。キリスト教の影響を基に、古くから使われてきた言葉になります。ちなみに「humanitarianism」は、人道主義や博愛主義と訳されます。

 1899年と1907年のハーグ平和会議で慣習国際法が法典化され、1971年には赤十字国際委員会が「武力紛争において適用される国際人道法(international humanitarian law)の再確認と発展に関する政府専門家会議」を招集しています。赤十字国際委員会は、1977年のジュネーブ条約第一追加議定書のコメンタリーで、国際人道法を次のように定義しています。



 条約又は慣習によって確立された国際規則であって、国際的又は非国際的武力紛争から直接に生ずる人道的諸問題の解決を特別に意図し、又、紛争当事国が選択する戦争の方法と手段を使用する権利を制限し、又は紛争によって影響を受けることのある人と財産を保護するもの。



 国際人道法は19世紀中頃から戦時法の一分野として、赤十字国際委員会を中心に展開されてきたと言えます。現代では、国際人道法と国際人権法は区別されて考えられているようです。国際人道法は伝統的に軍人の名誉に基づいており、不必要な残虐性や不名誉を除去するために一定の行動を禁止すべきとの規範から出発しています。



東洋の人道(漢語)

 「人道」という漢語については、中国の古典に用例をみつけることができます。

 『春秋左氏伝』の[昭公十八年]には、〈天道は遠く、人道は邇(ちか)し〉という記述があります。ここでは天道と人道が関わりのないものと捉えられています。人道は卑近なものと考えられています。

 『荘子』の[外篇 在宥]には、〈无為にして尊き者は、天道なり。有為にして累わしき者は、人道なり〉とあります。何の作為もなしに尊いのが天道であり、あれこれと作為をして煩わしく立ち回るのが人道だとされています。

 『荀子』の[儒效篇]には、〈道とは天の道に非ず地の道に非ず、人の道(おこな)(行)う所以にして君子の道(おこな)う所なり〉と語られています。道は人の実践するものであり、特に君子によって実現されると考えられています。

 これらのことから、東洋古典における人道は、人間の近くの出来事を調整し実践するものだということが分かります。



人道の協約性

 人権は欠陥を抱えているため、これからは人道という概念を基に有益性を求めていこうと思います。西洋の人道(humanity)も東洋の人道(漢語)も、細かいところにこだわれば相違があるのでしょうが、協約可能なものとして考えていきたいのです。人間という単位において、何らかの規範の約束が可能だと考えたいのです。その規範を人道と呼んでみたいということです。



人道の人間性

 人道の根拠は、人間という種の生物学的かつ社会学的な特徴を基にしたものにすべきでしょう。遺伝や環境の条件から、何らかの協約可能な保障を目指すということです。遺伝や環境という如何ともし難い制約のため、人類の個々人に安定した保障が求められることになります。

 理性や良心を持った存在という意味での人間性ではなく、人間の生物学的かつ社会学的な観点からの人間性によって、人道の内実を決めるべきだということです。よって人道では、年齢や性別による相違が生物学的かつ社会学的に見出されるため、それらの区別を考慮することが求められます。



人道の基本性

 人道の規範は基本的なものではあっても、普遍的なものではありえないでしょう。基本的なものであるということは、応用的に成り立たないことがありえるということです。

 具体的に論じると、基本的に拷問の禁止の合意は成り立つでしょう。しかし、例えば大規模爆弾を仕掛けた悪意あるテロリストから情報を引き出すために、拷問が容認されるような状況がありえるでしょう。極論ととられようと、例外的な場合は想定可能なのです。

 ですから、人権の普遍性ではなく、人道の基本性が必要になるのです。その基本性を尊重するために、例外的な応用事例の場合には説明責任が求められることになります。その説明責任の範囲などについて、さらなる議論が必要になるという困難な話ではあるのですが...。



人道の暫定性

 時代や環境の変化から、人道の基本性は暫定的なものであるべきでしょう。なぜなら、科学技術の水準という制約は時代によって変化しますし、利用可能な地球資源という制約も状況によって変化するからです。また、現代世代は過去世代と未来世代との結びつきを意識するため、あらゆる観念が制限されざるをえず、その特定の歴史の流れから影響を受けざるをえなくなるからです。

 そのため、人類全体をひとつだと見なす視点は、常に分裂にさらされることになります。人類全体による意見の一致は、確実にありえないでしょう。あくまで、大多数による暫定的な協約の可能性がありえるという、儚い想定に立たざるを得ないのかもしれません。しかし、人道においては、この観点を保持しておくことこそが重要だと思われます。



人道による暫定案

 人道の規範について、あまりに酷いことは基本的に止めましょうという合意の想定だと考えてみましょう。そこから、個々の人間に対する協約可能な保護や保障が求められることになります。いくつか候補を挙げてみましょう。

・非道な犯罪の禁止、および非道な犯罪からの保護

・奴隷の禁止、および奴隷拘束からの保護

・拷問(理不尽な苦痛)の禁止、および拷問からの保護

・集団虐殺の禁止、および集団虐殺からの保護

・飢饉・災害などの緊急事態への救済

・劣悪な環境からの保護

・栄養の保障(健康の保障というより、健康を保つ要素の保障)

・教育の保障

 これらは暫定案であり、具体的な詳細や追加・修正について幅広い議論が必要になるでしょう。ちなみに、単に犯罪の禁止ではなく、非道な犯罪の禁止としているのは、何を犯罪と見なすかは国家ごとに相違があるからです。



人道と宗教

 人道を現実的な概念とするために、障害となる要素はいくつか思いつきます。大きな障害となる要素の一つに宗教が考えられます。熱心な信仰者にとって、特定の宗教の教義は人道という概念よりも上位にあるからです。ある宗教の教義と、人道による規範が相反するようなことがありえるでしょう。まさに人道を応用的にどのように運用するかが問われる場面になります。

 また、人道の側からは宗教に対する配慮が必要になるでしょう。国教による特権、宗教の継続期間、世俗との分離度などの要素を検討してみるべきかもしれません。



反転可能性について

 人道という概念に対し、基本性ではなく普遍性を求める意見がありえるでしょう。

 自分が他者だとしても受け入れられるという理由によって、自己の他者に対する要求が正当化されると見なす考え方です。このような立場は、「反転可能性(reversibility)」の要請と呼ばれたりします。自分という閉じた特異な見解ではなく、開かれた総合的な見解を目指すべきだということです。

 一見すると正しそうに思えるかもしれませんが、この考えには注意が必要です。それは、自分は他者ではないという端的な事実です。他者になって考えてみることはできるでしょうが、それはあくまで、他者ではなく、自分が考えた他者でしかありえません。ですから、そこに落とし穴があると想定できるはずです。反転可能性を正しいとする人は、反転可能性によって利益を受ける個人だからなのかもしれないのです。その可能性は排除できないでしょう。

 他者の立場で考えるということは重要なことです。しかし、そこには他者の立場で考えることができるという驕りがあるのかもしれません。そのことには自覚的であるべきでしょう。



人道の仕組み

 人道をそれなりに有益な概念にするためには、具体的な禁止や保護や保障を必要とします。そのためのコストが要求されることになります。

 このとき、タダ乗り(フリーライダー)を防ぐ必要があります。要するに、協力しない人やズルをする人をできるだけ少なくする仕組みが求められるということです。ただし、タダ乗りの完全な排除は無理でしょうし、完全さを追求することは有害でもあるでしょう。

 タダ乗りを見つけて非難することは、ある程度必要でしょう。しかし、それよりもタダ乗りをすると結果的に損をするような仕組みが必要でしょう。国家規模では、税制と福祉の運用という形になるでしょうし、国際関係では、他国への支援が自国への利益とつながる循環的な相互依存関係の構築が求められるでしょう。

 個人単位でも集団単位でも、相手を攻撃すると自身が損をする仕組みが必要だということです。そこには、人間は寛容になりえますが、それと同時に不寛容でもありうるという認識が求められます。なぜなら、寛容と不寛容は紙一重というより、ある対象について考えるときに、それぞれの側面として出てこざるをえない観念だと思われるからです。



人道の修正性

 人道という麗しそうな概念がそれなりに流通すると、それに対して反感を覚える人が出てくるでしょう。自身の境遇や能力や性質から、人道の理想に馴染めない人は、人道に反することを自身の生き方として積極的に選ぶことになるかもしれません。

 気高く人から愛される存在に成れないのなら、邪悪で誰にも愛されない存在を意識的に選択することが、ありえるということです。他者からの否定要素を、自分自身を肯定するための要素として利用することが可能だということです。自分自身による価値の逆転は、人間の精神によって意識的に起こすことが可能なのです。反人道的な生き方、例えばテロリストや愉快犯などは、価値の逆転を行った精神によって為されうるのです。

 また、人道的な恩恵を受けられなかった者が、反人道的な生き方を選ぶということもありえます。自分に加えられた悪に自分がなることで、自分を守ろうという精神の働きがありえるからです。人道を踏みにじり、他者へ優越することで、満足感を得ようとする者が出てくるでしょう。支配し、征服し、軽蔑しようとする者たちが出てくるでしょう。

 人間の精神というものの制御不可能性のゆえに、人道はつねに反人道的な人間を想定しておかなければなりません。基本的な使い方を超えた、応用的な場合を検討しておく必要があるでしょう。

 そして、そういった観点そのものが、人道そのものを、偽善者による独善・独裁へと導いてしまう可能性も自覚しておくべきでしょう。人道という立場から、反人道的な立場を打つということは、楽しいはずだからです。その楽しさが、正義に居るという立場が、すでにして悪の入り口であるのかもしれず、もしかすると既に悪そのものであるのかもしれないのですから。

 人道という概念は、反人道的な者たちを既に想定しており、それゆえに人道概念はつねに不完全さを免れ得ないものに過ぎないのです。そして、それで良いのかもしれません。人道を唱える者が、人道を破壊するといった皮肉な事態は、おそらくありふれたことなのかもしれませんから。

 少なくとも、人道はつねに修正され続ける概念であることは、わきまえておくべきなのでしょう。



人道の性質

 人権の性質として、伝統的にいくつかの性質が挙げられてきました。例えば、個別性(個人だけが主体)、普遍性(特定の法体系を問わない)、平等性(人種や性別などを問わない)、生来性(生まれたときから適用)などです。

 人道では、次のような性質を挙げることができるでしょう。すなわち、協約性、人間性、基本性、暫定性、修正性です。ここで改めて、それぞれの性質についてできるだけ正確に定義づけしてみようと思います。

 協約性とは、人類全体について国際社会で協議したとき、ある程度の約束事が可能だという想定です。人間性とは、人間という種の生物学的かつ社会学的な特徴を基にしているという想定です。基本性とは、例外的に当てはまらないことがあっても、大体の場合に成り立つような禁止や保障が可能だという想定です。暫定性とは、決められた約束事は、あくまで仮の措置であり完成したものではないという想定です。人道の各性質が設定ではなく、あくまで想定であるのは暫定性によるものです。修正性とは、決められた約束の内容がつねに批判対象であるべきであり、変更される可能性を有しているという想定です。

 これらの性質を持った人道という概念は、少なくとも人類にとって人権よりも有益だと思われます。

 そして、これは、あくまで仮説です。この仮説は、議論に開かれています。



付録 日本の人道

 最後に付録として、日本人の人道についての思想も載せておきます。

 熊沢蕃山(1619~1691)の『集義和書』には、〈聖人の道は、五倫の人道〉とあります。五倫の人道とは父子の親・君臣の義・夫婦の別・兄弟の序・朋友の信のことです。『孟子』の[滕文公上]の語に由来します。また、『心法図解』の人道の図には、〈父慈、子孝、君仁、臣忠、夫義、妻聴、兄良、弟悌、朋友、交信〉が記されています。

 佐藤一斎(1772~1859)の『言志耋録』では、〈人道は只だ是れ誠敬のみ〉と語られています。人の践み行うべき道は、誠と敬の二つだとされているのです。

 山鹿素行(1622~1685)の『聖教要録』では、〈日用以て由り行なふべからざれば、則ち道にあらず。聖人の道は人道なり。古今に通じ上下に亙り、以て由り行なふべし〉と述べられています。日常的に行われていることがすなわち道なのです。聖人の道は人の道であり、古今や身分の上下によらず規範となるものとされています。

 伊藤仁斎(1627~1705)の『語孟字義』では、〈道はなお路のごとし。人の往来するゆえんなり。故に陰陽こもごも運る、これを天道と謂う。剛柔相須うる、これを地道と謂う。仁義相行なわるる、これを人道と謂う〉とあります。人々が関係するところの仁義が、人道として考えられています。『童子問』でも同様に、〈人の道は仁義に盡く〉とあります。

 貝原益軒(1630~1714)の『大和俗訓』には、〈恩を報ふこと、人道の大節なり。禽獣は恩をしらず、恩をしるを以て人とす。恩をしらざるは、禽獣にひとし。是れ禽獣とわかる所なり〉とあります。恩を知るから人間なのだと考えられています。

 浅見絅斎(1652~1711)の『劄録』には、〈天地一貫日用常行ノ実理ヲ公ノ心ヲ以日用人道ノ正脈ト知ザルコトコソ悲キ〉とあります。日常の役に立つ公の心こそが人の道であり、それを知らないでいるなら悲しいことだと語られています。

 本居宣長に師事した和泉真国(1765~1805)の『明道書』では、〈天地の間、国として道路有らざる国はなく、人として人道あらざる人はなき也。此理をもて、万国とも、各其国には、必、自然に、其国に付たる道ある事をさとるべき也〉と説かれています。道路がない国がないように、人には人の道があるのであり、この理によって、すべての国に、自然と国ごとの道があるのだと語られています。

 二宮尊徳(1787~1856)の言葉を書き記した『二宮翁夜話』では、〈天道は自然なり、人道は天道に随ふといへ共、又人為なり、人道を尽して天道に任すべし〉と語られています。〈人道は人造なり〉とも言われています。〈天に善悪あらず、善悪は、人道にて立たる物なり〉とされる点が特徴です。

 人道については色々と述べられています。〈皆人の為に立たる道なり、依て人道〉とあり、〈政を立、教を立、刑法を定め、礼法を制し、やかましくうるさく、世話をやきて、漸く人道は立なり〉と語られています。そこから〈人道は親の養育を受けて、子を養育し、師の教を受けて、子弟を教へ、人の世話を受けて、人の世話をする、是人道なり〉ということに繋がります。それゆえ、〈人道は中庸を尊む〉のです。ですから、〈人道は日々夜々人力を尽し、保護して成る〉わけです。なぜなら、〈自然の道は、万古廃れず、作為の道は怠れば廃る〉からです。そこで、〈人道は私欲を制するを道とし〉なければならないとされています。〈人道は勤るを以て尊しとし、自然に任ずるを尊ばず、夫人道の勤むべきは、己に克の教なり、己は私欲也〉ということです。己という私欲に打ち勝つのが人道だというのです。人道は、譲ることと繋がっています。〈譲は人道なり、今日の物を明日に譲り、今年の物を来年に譲るの道を勤めざるは、人にして人にあらず〉とあります。将来へ譲ることをしない者は、人間ではないというのです。

 斉藤高行(1819~1894)の『報徳外記』には、〈我道は分度にあり。分なる者は、天命の謂なり。度なる者は、人道の謂なり。分度立ちて譲道生ず。譲なる者は、人道の粋なり。身や、家や、国や、天下や、譲道を失ひて衰へざる者は、未だ之あらざるなり。分度を失ひて亡びざる者は、未だ之あらざるなり〉とあります。我が道は分度にあると述べているのです。分は天命であり、度は人道であり、そこから譲り合いの道が生じるとされています。譲り合いの道は、人の道の粋だと考えられています。

 伊達千広(1803~1877)の『大勢三転考』には、〈人とうまれては、おのおの其身を保ち其時事をつとむるを職とす。これ神道なり、人道なり。まづ其時事をつとむるには、天下の大勢をしらずんばあるべからず。其大勢をしらんには、古来の沿革をしらずんばあるべからず〉と述べています。神道であれ人道であれ、己の身を保ち、時に応じた職をつとめるには、天下の大勢を知らなければならず、そのためには古来の知恵が必要だと語られています。

 高橋是清(1854~1936)の『随想録』[どうすれば一国の生産力は能く延びるか]では、〈私が浅い学問浅い経験とを以てこの人類社会を考へるとこの人生には二つの道があるやうに思はれる。その一つは即ち人道教、いま一つを経済教と私は名付ける〉とあります。具体的には、〈人道教と云ふ方はこれは人類の徳性を涵養して所謂道徳を進める方の道である〉とあり、〈経済教の方から云ふと、その極致は人類の生活慾を満足させることが経済教の極致である〉とあります。

 和辻哲郎(1889~1960)の『倫理学』では人道について、〈神はすべての人に子としてのしるしを潜勢的な理性の形で与えた。従って正しい理性を本性として持つ限りの人々は、同じ神の子として兄弟であり、生まれながらにしてこの同胞共同体に属している。人類はこのような同胞共同体なのである。この共同体の成員は、仲間から好意や愛ややさしさや寛容や友情をもって取り扱われる権利を持っている。これが人道である〉と語られています。




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