宇宙(ソラ)と個人(キミ)のあいだに




 中島みゆきさんの名曲『空と君のあいだに』は、ドラマ『家なき子』の主題歌でした。主人公の少女は愛犬をつれていました。中島さんは、その愛犬の気持ちに立ってこの曲を書いたそうです。たしかに犬の視点から見えるものは、空と君になりますから。





空は宇宙、君は個人

 『空と君のあいだに』には、次のような歌詞があります。




 空と君のあいだには今日も冷たい雨が降る

 君が笑ってくれるなら僕は悪にでもなる




 私の好きな歌詞ですが、考えてみるとなかなかに意味深です。

 空(そら)とは、地上から上方を見たときに見える空間のことです。宇宙を見上げて、空だと言っているわけです。日中は太陽光と空気の状態から、さまざまな色の空を楽しむことができます。夜は雲がなければ星空を楽しむことができます。

 君(きみ)とは人間の一個人に対し、敬慕や親愛の情をこめていう言葉です。複数形だと君たちという言い方になります。

 ですから、「空と君のあいだに」を言い換えると、「宇宙と個人のあいだに」となるわけです。少し無理やり感がありますが・・・(苦笑)。

 では、宇宙と個人のあいだには、何が視えるのでしょうか?





コスモポリタニズム(宇宙市民主義)

 「宇宙」という言葉が入った思想的立場として、コスモポリタニズム(cosmopolitanism、宇宙市民主義)があります。『岩波 哲学・思想辞典』では、次のように定義されています。




【コスモポリタニズム(cosmopolitanism)】

 ギリシア語の「コスモス(kosmos. 宇宙)」と「ポリーテース(polite(-)s. 市民)」という2語から合成された英語で、「宇宙市民主義」という意味である。




 宇宙市民主義と言ったりする場合もあれば、世界市民主義と言ったりする場合もあります。コスモポリタニズムの起源は、おそらく古代ギリシアの哲学者ディオゲネス(Diogenes、紀元前412頃~323)に求められるでしょう。『ギリシア哲学者列伝』から、残されている記述を見てみましょう。




 哲学から何が得られたかと問われて、「他に何もないとしても、少なくとも、どんな運命に対しても心構えができているということだ」と彼は答えた。

 あなたはどこの国の人かと訊ねられると、「世界市民(コスモポリテース)」と彼は答えた。




 また彼は、高貴な生まれとか、名声とか、すべてそのようなものは、悪徳を目立たせる飾りであると言って、冷笑していた。

 また、唯一の正しい国家は世界的な規模のものであると。

 さらにまた、婦人は共有であるべきだと言い、そして結婚という言葉も使わないで、口説き落とした男が口説かれた女と一緒になればいいのだと語っていた。そしてそれゆえに、子供もまた共有であるべきだと。




 コスモポリタニズムという思想の特徴として、複数の国家を否定し、世界的な規模を一つのまとまりとして考えているようです。また、ディオゲネスは女性や子供の共有も主張しています。





個人主義

 個人を重視する思想的立場に、個人主義があります。

 個人主義という言葉は、フランス人のトックヴィル(Charles Alexis Henri Clrel de Tocqueville, 1805~1859)が、著作である『アメリカのデモクラシー(第二巻)』で論じています。少し長いですが、重要なのでそのまま引用してみましょう。




 個人主義は新しい思想が生んだ最近のことばである。われわれの父祖は利己主義しか知らなかった。

 利己主義は自分自身に対する激しい、行き過ぎた愛であり、これに動かされると、人は何事も自己本位に考え、何を措いても自分の利益を優先させる。

 個人主義は思慮ある静かな感情であるが、市民を同胞全体から孤立させ、家族と友人と共に片隅に閉じこもる気にさせる。その結果、自分だけの小さな社会をつくって、ともすれば大きな社会のことを忘れてしまう。

 利己主義はある盲目の本能から生まれ、個人主義は歪んだ感情というより、間違った判断から出るものである。その源は心の悪徳に劣らず知性の欠陥にある。

 利己主義はあらゆる徳の芽を摘むが、個人主義は初めは公共の徳の源泉を涸らすだけである。だが、長い間には、他のすべての徳を攻撃、破壊し、結局のところ利己主義に帰着する。

 利己主義は世界と共に古い悪徳である。ある形の社会の中に多くあって、他の社会には少ないというものではない。

 個人主義は民主的起原のものであり、境遇の平等が進むにつれて大きくなる恐れがある。




 トックヴィルは、個人主義と利己主義を区別して用いています。利己主義は盲目の本能から生まれる自分を第一とする立場であり、個人主義は間違った判断から出る自分の周りの小さな社会を第一とする立場です。利己主義も個人主義も、共に知性の欠陥だとされています。個人主義は短期的には公共の徳を涸らし、長期的には利己主義となり、あらゆる徳の芽を摘むことになると考えられています。

 これらのトックヴィルの個人主義についての見解を妥当だと見なすなら、個人主義は愚かな立場であり、排除すべきものになります。

 ちなみに、社会のある領域を個人に任せるか否かは、中庸の問題です。個人に任せるという判断を下すとき、その基準は中庸の考え方から導くべきであり、個人主義から導くのは間違っていることに注意が必要です。





さまざまな立場

 個人と宇宙のあいだには、たくさんのものがあります。思想的に考えるなら、個人主義と宇宙市民主義(コスモポリタニズム)のあいだに何があるのかという問いになります。

 段階的に考えるなら、個人 → 家族 → 部族(or 地域) → 国家 → 文明圏 → 世界(宇宙)という広がりを考えることができるでしょう。文明圏としては、EUなどの共同体が考えられます。それぞれの立場を思想として表すと、個人主義(≒利己主義) → 家族主義 → 部族主義(or 地域主義) → 国家主義(≒愛国主義) → 文明主義 → 宇宙市民主義(コスモポリタニズム)となります。

 個人主義と宇宙市民主義(コスモポリタニズム)の外側を考えることもできます。個人主義(≒利己主義)の外側は、あらゆることに価値を認められないといった意味でのニヒリズム(虚無主義)があります。ちなみに、ニヒリズムは論者によってさまざまな意味があるので注意が必要です。ここでは最も単純に、あらゆるものに価値がないと見なす立場という意味で使っています。

 宇宙市民主義(コスモポリタニズム)の外側には、アナーキズム(anarchism、無政府主義)が考えられます。コスモポリタンは世界政府の決定に従うことになりますが、アナーキストはあらゆる権威を否認する思想的立場になります。ちなみに、アナーキズムも論者によってさまざまな意味があるので注意が必要です。ここでは最も単純に、あらゆる権威を認めない立場という意味で使っています。

 かなり単純化した形になりますが、以上をまとめると次の図のように表すことができます。




ソラとキミ_1.bmp

図6-1 段階ごとの立場



 ここで少し別の視点からも論じておきましょう。興味深いことに、ニヒリズム(虚無主義)を単純化し、アナーキズム(無政府主義)も単純化すると、両者の違いが分からなくなるのです。個人的な価値すら認めない立ち位置と、宇宙的(世界的)な価値すら認めない立ち位置は、差異が見いだせなくなってしまうのです。ですから、上記の段階を示した図に対し、ニヒリズムとアナーキズムをつなぎ、円環として示すことも可能でしょう。




特異な宗教という概念

 個人から宇宙までのあいだに、規模に応じてさまざまな段階が示されました。すなわち、個人主義(≒利己主義) → 家族主義 → 部族主義(or 地域主義) → 国家主義(≒愛国主義) → 文明主義 → 宇宙市民主義(コスモポリタニズム)という構造です。

 ここで面倒なことに、宗教という概念が絡みこんできます。宗教はこれらの構造のどれかに、または各立場をまたいで影響を及ぼします。個人主義的な宗教、家族的な宗教、部族における宗教、国家宗教、文明圏における宗教、コスモポリタン的な宗教など、さまざまな宗教が考えられます。国家宗教が個人と強く結びついたり、部族主義がコスモポリタン的な宗教と結びついたりします。段階をとばして、異なる立場を結びつける役割を宗教が果たすようなこともありえるのです。あえて図示すると、以下のような可能性が考えられます。




ソラとキミ_2.bmp

図6-2 さまざまな立場と結びつく宗教の例




 もちろん、この図で示した以外にもさまざまな可能性が考えられるでしょう。このような可能性の多様さという観点から、宗教というのは非常に特異な概念だと考えられます。特定の宗教はそれぞれ特殊ですが、宗教性はかなり一般性の高い概念だと見なしえるでしょう。





冷たい善悪

 宇宙(ソラ)と個人(キミ)のあいだには、さまざまな立場がありえることが分かりました。どの立場を重視するかによって、何主義者になるかが決まるわけです。ですから、自分の人生の満足という観点から、物事にどういった優先順位を付けるかといった問題が出てきます。そのことに無自覚に、なんとなく惰性に過ごすという生き方もありえるでしょう。しかし、自分自身の人生なのですから、物事の優先順位に自覚的になっておくことは大切だと思われます。

 すでに特定の主義者に成っている人たちは、仲間を増やそうとして自身の立場が良いとアピールしてくるかもしれません。ここで、各々の立場の比較検討が重要になってきます。なぜなら、多かれ少なかれ立場によって善悪に違いがあるからです。




 空と君のあいだには今日も冷たい雨が降る

 君が笑ってくれるなら僕は悪にでもなる




 それぞれの立場において善悪は異なり、ある立場と別の立場が衝突することがありえます。ある立場からは善や正義と見なされる行為が、別の立場からは悪だと断罪されることがありえるのです。そのため、悪と見なされる行為を敢えて為す、という精神の選択がありえるのです。





いくつかの選択肢

 決定的な場面において、特定の立場を選ばざるを得ない場合がありえるでしょう。そのことを想定しておくことは、重要なことだと思われます。

 ただし、特定の立場だけを過剰に重視すると、原理主義と呼ばれるものになります。例えば特定の宗教を絶対視すると、宗教的原理主義者になります。原理主義は学問的に危険な考えだと認識されています。

 そのため決定的な場面では一つを選択することになるとしても、通常は複数の価値観を併用して持っておくという方法が有効でしょう。人類史という大枠で考えるなら、家族と国家と宗教という単位は重要度が高いと言えるかもしれません。それぞれに価値を認めて、状況に応じて使い分けるということが、賢い生き方なのかもしれません。あえて図にすると次のようになります。




ソラとキミ_3.bmp

図6-3 状況に応じた価値観の使い分け




 あるとき危機的な状況がおとずれ、価値観がぶつかり合うことがあるかもしれません。例えば戦争では、家族と国家の価値観が問題になりがちです。家族を優先して国外逃亡する場合もあれば、国家を優先して戦いに志願する場合もあるでしょう。状況と価値観によって、選びうる立場は異なることになるでしょう。





選んだ立場の彫琢

 特定の立場を重視するにしても、さらに考えておくべきことがありえるでしょう。その立場の現在の設定に従い続けるというやり方もありますが、その立場をさらに思想的に深めていくことが大切でしょう。

 例えば、国民主義で考えてみましょう。他の立場との関係で言えば、国内の特定部族だけを優先するような部族主義(トライバリズム[tribalism])とは相反するでしょうし、宇宙市民主義(コスモポリタニズム)の立場とも相反するでしょう。しかし、各地域にある程度の自律性をもたせるといった意味での地域主義(リージョナリズム[regionalism])や、それぞれの国家の文化を尊重し、諸国家間で共栄を図ろうとする国際主義(インターナショナリズム[internationalism])とは親和性が高いでしょう。図にすると次のようになります。




ソラとキミ_4.bmp

図6-4 国民主義の彫琢




 ですから、国民主義者だからこそ、国際主義者でもあるという主張が成り立ちうるでしょう。逆に、国民主義者だから国際主義者ではないと考えると、超国家主義(ウルトラナショナリズム[ultranationalism])という立場になってしまいます。超国家主義は原理主義の一種であり、危険な考えです。自分が重視した立場の危険性を認識しておくことは、大切なことです。それゆえ自分の人生のために、選びうる選択肢と優先順位について、できるだけ真剣に考えておいた方が良いと思われます。














 公正考察 へ戻る
 論文一覧 へ戻る



コメントする

【主要コンテンツ】

《日本式シリーズ》

 『日本式 正道論

 『日本式 自由論

 『日本式 言葉論

 『日本式 経済論

 『日本式 基督論

《思想深化シリーズ》

 『謳われぬ詩と詠われる歌

 『公正考察

 『続・近代の超克

 『思考の落とし穴

 『人の間において

《思想小説》

 『思想遊戯

《メタ信仰論シリーズ》

 『聖魔書

 『夢幻典

 『遊歌集

《その他》

 『思想初心者の館

 『ある一日本人の思想戦

 『漫画思想

 『ASREAD掲載原稿一覧

 『天邪鬼辞典

 『お勧めの本