『日本式 経済論』石田梅岩の章
石田梅岩(1685~1744)は、江戸中期の思想家であり、石門心学の始祖です。著作である『都鄙問答』を見ていきます。
第一節 商人の道
『都鄙問答』には、商人の道が示されています。
商人ノ其始ヲ云バ、古ハ其餘(アマ)リアルモノヲ以テソノ不足(タラザル)モノニ易(カヘ)テ、互ニ通用スルヲ以テ本トスルトカヤ。商人ハ勘定委シクシテ、今日ノ渡世ヲ致ス者ナレバ、一銭軽シト云ベキニ非ズ。是ヲ重テ富ヲナスハ商人ノ道ナリ。富ノ主ハ天下ノ人々ナリ。主ノ心モ我ガ心ト同キユヘニ、我一銭ヲ惜ム心推テ、賣物ニ念ヲ入レ、少シモ麁相(ソサウ)ニセズシテ賣渡サバ、買人ノ心モ初ハ金銀惜シト思ヘドモ、代物ノ能ヲ以テ、ソノ惜ム心自ラ止ムベシ。惜ム心ヲ止(ヤメ)善ニ化スルノ外アランヤ。且(ソノウヘ)天下ノ財寶(ザイホウ)ヲ通用シテ、萬民ノ心ヲヤスムルナレバ、「天地四時流行シ、萬物育ハルヽ」ト同ク相合(アイカナハ)ン。如此(カクノゴトク)シテ富山ノ如クニ至ルトモ、欲心トハイフベカラズ。
過不足の交換や流通をうまく行うために、商人の道が想定されていることが分かります。商人は、精密に計算をして日々をおくる者であるため、一銭もおろそかにせず、利益を重ねて行くことが道だというのです。富の基は人々であり、人々の心は自分の心と同じであるから、自分が金を惜しむ心から推量して、売り物を大切に粗末にせず売れば、買う人もははじめは惜しいと思っても、役に立つので惜しむ心がなくなると考えられています。惜しむ心がなくなれば、それは人々を善に導くことになるというのです。
さらに、貨幣や物資が流通すれば、万民の心が満足するようになるため、春夏秋冬が巡り万物が健やかに育つような状態になるというのです。そのため、財産を築いても、欲深いとは言えないというのです。
第二節 時宜
梅岩は、〈其所ニ時ニ宜キコト有テ、一々ニコト分ルヽナリ〉と述べています。その所と時に応じて適当なことがあって、それは場合によって違うというのです。その基準は、義や道と呼ばれるものだというのです。
君子ハ命ヲステ義ヲ取ル。木綿ハ軽キコトナリ。假令一國ヲ得、萬金ヲ得ルトモ、道ニタガハヾ何ゾ不義ヲ行ハン。
一国を得るほどのお金を持っていたとしても、道から外れ、義に適わないなら意味はないというのです。
第三節 利
梅岩は、〈商人ノ道ヲ知レバ、欲心ヲ離レ仁心ヲ以テ勉メ、道ニ合テ榮ヲ学問ノ徳トス〉と述べています。商人の道を知らなければ、むさぼりによって家を滅ぼすことになるというのです。一方、道を知れば欲を離れ仁の心で努力するため、道に適い栄えることができるというのです。
利については、〈賣利ヲ得ルハ商人ノ道ナリ〉とあります。物を売って利益を得ることは商人の道だというのです。〈商人ノ買利ハ士ノ祿ニ同ジ〉というわけです。
第四節 正直
正直については、〈商人ハ正直ニ思ハレ打解タルハ互ニ善者ト知ルベシ〉とあります。〈自然ノ正直ナクシテハ、人ト竝(ナラ)び立テ通用ナリ難シ〉というわけです。商人は人と付き合うため、正直でなければ商売が難しいというのです。正直と利は結びついて考えられています。
直ニ利ヲ取ハ商人ノ正直ナリ。利ヲ取ラザルハ商人ノ道ニアラズ。
商人は正しい利益を得ることで商売をやっていけるため、それが商人の道になるのです。利益をおさめないのでは商人の道になりません。
第五節 相場
相場について、次のように語られています。
賣物ハ時ノ相場ニヨリ、百目ニ買タル物、九十目ナラデハ賣ザルコトアリ。
相場ノ高(アガル)時ハ強気ニナリ、下(サガ)ル時ハ弱気ニナル。是ハ天ノナス所、商人ノ私ニアラズ。
其外何ニ限ラズ日々相場ニ狂ヒアリ。其公ヲ欠テ私ノ成ベキコトニアラズ。
売るものは相場により、百で買ったものに対し、九十でなければ売れないこともあるというのです。相場が上がれば商人は強気になり、下がると弱気になるというのです。これは天の差配であり、商人が自分勝手にできないと考えられています。その他にも、何にでも相場の違いがあり、その法則を無視して勝手にはできないというのです。
第六節 天下の用
梅岩は、〈商人ノ賣買スルハ天下ノ相(タスケ)ナリ〉と述べています。商人の売買は世の中のためになるというのです。
天下萬民産業ナクシテ、何ヲ以テ立ツベキヤ。商人ノ買利モ天下御(オン)免(ユル)シノ祿ナリ。
定リノ利ヲ得テ職分ヲ勉レバ、自ラ天下ノ用ヲナス。商人ノ利ヲ受ズシテハ家業勉ラズ。
皆がその生業を営まなくなってしまっては、世の中が成り立ちません。ですから、商人の利益も公に許された俸禄だということです。商人が利益を得て仕事の役割を果たせば、世の中のためになるのです。それは、商人の利益あってこそだというのです。
第七節 我と先
相手あっての商売ということで、梅岩は〈實(マコト)ノ商人ハ先モ立、我モ立ツコトヲ思フナリ〉と述べています。相手の利益を考えることによって、自分の利益も生まれるというのです。具体的な自身と商売相手との関係については、次の様に語られています。
我身ヲ養ルヽウリ先ヲ、疎末(ソマツ)ニセズシテ真実ニスレバ、十ガ八ツハ賣先ノ心ニ合者ナリ。賣先ノ心ニ合ヤウニ商賣ニ情ヲ入勤ナバ、渡世ニ何ンゾ案ズルコトノ有ベキ。
買い手に自分が養われていると考えて、相手を尊重すれば、十に八は相手側の満足が得られるというのです。買い手が満足するように努力すれば、暮らしの心配もいらなくなると考えられているのです。
つまり、相手あっての自分だと考え、相手を尊重すれば相手側の満足が得られ、そうすると自分のためにもなるということです。
第八節 倹約
倹約については、『都鄙問答』では次のように説明されています。
倹約ト云ヲ世ニ誤テ吝コトヽ思フハ非ナリ。聖人ノ約トノ玉フハ、侈リヲ退ケ法ニ従フコトナリ。
倹約は、けちとは違うというのです。倹約とは、驕りを退けて、法に従うことだとされています。ちなみに、石田梅岩の『斉家論』では、次のように語られています。
倹約は財宝を節(ほどよ)く用ひ、我分限に応じ、過不及なく、物の費捨る事をいとひ、時にあたり法にかなふやうに用ゆる事成べし。
倹約は自身の分限に応じて、過不足ないように財を適切に用い、物資の費用の節約を時に応じて法に適うように行うことなのです。『石田先生語録』には、次のように記述されています。
倹約ト云コトハ世俗ノ説トハ異ナリ。我為ニ物ゴトヲ吝クスルニハアラズ。世界ノ為ニ三ツ入ル物ヲ二ツデスムヤウニスルヲ倹約ト云。
倹約は、自分のためではなく、世界のために過分なものを取り除くことだと考えられています。これらの言葉から分かるように、石田の倹約は単なるケチや節約とは異なるものです。世の為となるような過不足のない効率的なお金の使い方が、倹約として提示されているのです。
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