『日本式 経済論』熊沢蕃山の章
熊沢蕃山(1619~1691)は、江戸前期の儒学者です。著書である『集義和書』・『集義外書』・『大学或問』を見ていきます。
第一節 『集義和書』
『集義和書』で熊沢は、自身の利益に拘泥するのではなく、無私によって考えるべきことを基本としています。
倹約は、我身に無欲にして、人にほどこし、吝嗇は、我身に欲ふかくして、人にほどこさず。
欲が自身に及ぶか否かによって、倹約と吝嗇という言葉に差異を見出していることが分かります。ここでは、世の中の人が貧しいからこそ、懸命に働くのだという人間観があります。金に不自由したことがない者は、国家の役には立たないと考えられているのです。
また、衣食や武力に備えることで、世の中の乱れを防ぐべきことが説かれています。乱世の原因については、贅沢・商人の力の増大・礼式の欠如が挙げられています。己の利益を優先していては、繁栄は続かないという認識がここにはあるのです。
物の盛衰は物の自然也。況や己が利を専にし、衆の苦みをなす者、何ぞ久しかるべき。
第二節 『集義外書』
『集義外書』でも熊沢は贅沢を戒めていますが、急に贅沢を止めることで困る者も出てくるため、急な変更を警戒するという現実的な考え方が示されています。誰も迷惑することのない仁政が追い求められているのです。
ここには、江戸儒学の陽明学派における「時処位」の考え方があります。それは師である中江藤樹から引き継いだもので、時間と場所と立場に応じて、適切な政策は異なるという考え方です。
熊沢は、民あっての国だと考え、民に余力のある状態を望んでいます。
夫國の国たる処は、民あるを以也。民の民たる所は、五穀あるを以て也。五穀のゆたかに多き事は、民力餘りありて功の成によつて也。
民に余力があればこそ、農作業による穀物も多くとれるようになり、国力も増すと考えられているのです。そのためにも、一部の者たちに富が集中することによる弊害が指摘されています。
諸職みな美をつくさん事を欲す。故に商人富に過て士まづし。士貧乏なれば民に取事ますます多し。民と士と困窮する時は、商ひすくなく成行て、多の商人職人、うへに及ぬ。あつまる処は天下に数すくなき富人の手のみなり。
士民は天下の本なり。其本困窮きはまれば乱に及ぶべし。商人出家など安楽をねがふとも得べからず。亦甚高直にても世中立べからず。其本にかへるべきのみ。
民の困窮によって世が乱れないように、物価高を警戒し、物価に適正価格があるべきことが説かれています。また、金銭や穀物の均衡のとれた流通についても論じられています。
士民ともにゆたかにして、工商常の産あり。たからを賤するとて、なげすつる様にするにはあらず。五穀を第一とし、金銀これを助け、五穀下にみちみちて、上の用達するを、貨を賤すといふなり。
熊沢はお金を穀物より下に見ていますが、お金の助けによって穀物の流通がうながされることの重要性は認識されているのです。
第三節 『大学或問』
熊沢は贅沢を戒めてはいますが、豊かさは肯定しています。それは、〈仁政を天下に行はん事は、富有ならざれは叶はず〉という言葉に現れています。その富について、小富と大富という二つの視点が示されています。
問、政とは何ぞや。云、富有也。世間の富有は己を利すれば人を損じ、己よろこべば人うらむ。国君富有なれば国中うらみ、大君富有なれば天下恨む。小富有なればなり。大道の富有は、国君富有なれば一国悦び、大君富有なれば天下悦ぶ。大富有なれば也。天長地久んしいて子孫福禄を受、令名後世に伝へて、身安く心楽みあり。
小富はゼロサムゲーム的に自分の利益が他人の不利益になる場合であり、大富はすべての人が裕福になるような場合が想定されています。
大富のような視点から見れば、一つの階級の困窮が、悪循環で他の階級にも連鎖する可能性が考えられることになります。武士が困窮すれば民への取り立てが強くなり、百姓が困窮します。そうなれば、職人も商人も困窮することになります。世の中の困窮が一定限度を超えると、うてる対策もなくなってしまうことが懸念されています。そのため、財貨が肯定的にとらえられることになります。
仁君の貨を好むは大なり。富有大業をなす天下、君の貨を好む事をたのしめり。これ貨を以て身をおこすなり。
仁ある君主が財貨を好むのは偉大であるというのです。財貨によって経済をまわし、名声を得ることが奨励されています。
また、年ごとに様々な条件が異なりますから、〈豊年の時に行て凶年の備となすべき事なり〉と指摘されています。〈凶年至りては富有大業の仁政もなしがたし〉と考えられているからです。凶年には事業をし難いため、豊かな年に凶年の備えをすべきだということです。
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