『日本式 経済論』三浦梅園の章


 三浦梅園(1723~1789)は、江戸中期の思想家です。著作である『価原』を見ていきます。



第一節 利用・厚生・正徳

 三浦は『書経』[大禹謨]の既述を参考にし、世を治めるために、水・火・木・金・土・穀という六つの材料と、それらを用いた利用・厚生・正徳の三事を挙げています。この三事が経済に関わります。



 各其分に応じ、殘をふせぎ賊をいましむべきことなり。其事乃ち経済なり。迺ち利用厚生正徳なり。



 経済は、各人がその分に応じて不正をしないようにすることであり、つまりは利用・厚生・正徳のことだというのです。この三つについては、〈三事、利用を初とし、厚生を本とし、正徳を主とす。徳正しき時は人感化す〉と説明されています。物理的な様々な材料を利用し、福利厚生を行うことで、正しい統治へと至るというのです。徳が正しく行われていれば、人は正しく感化されるというわけです。



第二節 金銀と物価

 金銀などの貨幣と物価の関係については、次のように語られています。



 金銀多ければ物価貴し。金銀少ければ物価賤し。物価賤しきは、金銀の貴きなり。物価貴きは、金銀の賤しきなり。



 これは貨幣の流通量が、物価水準に影響を及ぼすということです。貨幣数量説と呼ばれる考え方が示されています。貨幣数量説(quantity theory of money)とは、『岩波 現代 経済学事典』では〈物価水準は、流通貨幣量によって決まるとする考え〉と説明されています。

 ただし、貨幣数量説は条件に依存する概念なので注意が必要です。例えば、インフレーション(inflation)/デフレーション(deflation)などの状況に応じて、その効果を分けて考える必要があります。辞書の定義では、インフレーションは〈持続的な物価上昇〉であり、デフレーションは〈生産物が売れず、物価が下がり、生産量・雇用量が減少し、失業が増大する現象〉を言います。特にデフレーションでは、総需要不足が問題となるため、貨幣数量説が成り立たなくなります。



第三節 権柄

 三浦は、権柄という概念を用いています。



 天下の勢をとる事を権柄といへり。権とは秤の錘なり。柄とは其錘を自在によくつり合はするなり。



 もし権柄を執るの人、米粟布帛、百の器財、費用と金銀と、其つり合を見て、多少其宜しきを得せしめば、増減に従つて平を得べし。此故に、秤錘をかへよとにはあらず、軽重に従ひてつり合ひをとる事なり。これを権柄を執るといふなり。



 世の中の趨勢をつかむためには、秤(はかり)の錘(おもり)を調整して釣り合わせる技術が必要だというのです。世の中の各要素の増減を勘案し、宜しいところへ調節することが、権柄(バランス)を執ることだというのです。



第四節 有用の貨

 金銀による貨幣について言及があります。〈今、金銀の通用を好むこと、独り日本のみならず、萬國同じく然り〉という認識において、〈天下の権を執りて、経済に心を用ゆる人は、有用の貨を日々に生殖し、無用の貨を貴ばぬ様に致すべき事なり〉と説かれています。金銀などの貨幣が流通していることは皆が好むことですから、そこに有用な貨幣と無用な貨幣の区別をし、経世済民のために貨幣発行すべきだというのです。



第五節 経済と商賈

 豊かさについて、〈天下國家を有する人の豊饒と云ふは、全く金銀の上にあらず。金銀を有して豊饒とするは、商賈のことなり〉という考え方が示されています。国家における豊饒と、商売における豊饒が区別されているのです。この区別は重要で、国家政策(マクロ)と個人商売(ミクロ)では、求めるべき豊かさが異なるということです。ミクロ的には、お金を儲けることが良いことですが、国家においてはそうではないということです。

 マクロ(macro)とは巨視的という意味で、マクロ経済学では政府の政策など経済全体に関わる問題を分析します。ミクロ(micro)とは微視的という意味で、ミクロ経済学では市場における個々の経済主体の行動などを分析します。

 三浦による国家と商売の区別では、〈商賈は利を以て利とす。経済は、義を以て利とす〉と説明されています。経世済民としての経済では、義こそが大事な利益なのであり、商売においては、自分の利こそが大事な利益なのだというのです。

 すなわち、〈國家を有する人は、國家を一身と見る時は、民にあると我にあるとの隔なし。商賈は人に有せらるゝを損とし、自ら有するを得とす〉というわけです。国家を運営する人は、皆のことを考え、商売をする人は自分の利益を考えるということです。〈治國者の利、商賈の利と同じからざる所なり〉ということです。ミクロとマクロの区別がしっかりと認識されていることが分かります。



第六節 悪貨の弊害

 悪貨については、〈悪幣盛んに行はるれば、精金皆隠る〉と語られています。これは、悪貨は良貨を駆逐するというグレシャムの法則に通じる考え方です。

 貨幣における貴金属の含有量の違いにより、貨幣の額面価値と実質価値に乖離が生じる場合、実質価値の高い貨幣が流通過程から駆逐され、実質価値の低い貨幣が流通することがありえます。明和9年(1772)に発行された南鐐二朱判は、一両当りの含有銀量が21.6匁でした。一方、同時期に流通していた元文丁銀は、一両当り27.6匁でした。このため南鐐二朱判が悪貨となり、広く流通することになったのです。貴金属の含有量の低い貨幣によって、含有量の高い貨幣が駆逐されることがあるのです。



第七節 金銀の役割

 金銀に踊らされる人に対しては、〈金あれば成らざることなしと金を悦ぶ心は、吾儕(さなみ)小人、一身を安んずるの計にして、天下國家を有する人の悦びとすることにあらず〉と指摘されています。金があれば何でもできると思っている人は、ちっぽけな人間であり、国家にたずさわる人材ではないというのです。

 続いて、金銀による貨幣について、〈金銀の通用は、天地よりして観る時は、左の物を右に移し、右の物を左に移すに過ぎず〉と説明されています。債権債務の関係としてお金(貨幣)を考えたとき、お金の流通機能(支払手段)としての役割が強調された表現だと見なせます。



第八節 廉恥礼譲

 梅園は、廉恥礼譲を貴びます。廉恥礼譲とは、清く正しく恥を知り、礼儀をつくして謙虚であることです。〈士上に廉恥礼譲の風を誘ひ、民下に華靡淫奔の俗を改めば、游手はいつしか少くなるべし〉というわけです。あくまで、〈用を利する者は、其生を厚ふせんが為なり〉という立場なのです。生の充実のために利用できるものがあり、利用するもののために生があるのではないというのです。

 廉恥礼譲がなければ、〈天下の良民、金銀の為に游手の奴隷となる〉のです。金銀などの貨幣の必要性が高くなると、人は金のための奴隷となるというのです。金を借り、金に振り回されて、破産してしまうことの危険性が指摘されているのです。

 ただし、梅園は、〈金銀を一切に除き去りて、治をなせとにはあらず〉と述べています。金銀などの貨幣をなくせという暴論ではなく、貨幣の危険性を認識せよということです。すなわち、〈何とぞ費用多き所の故如何んとたづね、借るべき天下の源を塞ぎ、有金の家をして、天下の百貨を網することを得ざらしめて、諸侯の國小康を得、四民其業を楽しむことを得べし〉ということです。金がかかるため借金につながるところを塞ぎ、金持ちの金を世の中にうまく流通させ、各地の経済状態を安定させ、各人が職業を楽しんで行えるようにすべきだというのです。



 民生厚ふして、然して後礼譲廉恥の風唱ふべし。民生厚しといへども、礼譲廉恥の風興らざれば、華奢放恣に赴く。華奢放恣なれば用足らず。用足らざれば又貪る。



 三浦は、民の生活を保障し、それから廉恥や礼譲などの道徳を説くべきだというのです。生活が保障されていても、廉恥や礼譲などがなければ、贅沢に流れて貪欲に陥ると考えられています。ここには、人間心理に基づいた鋭い観察眼があります。







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