『日本式 経済論』高橋是清の章


 高橋是清(1854~1936)は、財政家であり政治家です。江戸の生まれで、日本銀行総裁・蔵相を経て、首相・政友会総裁などを歴任しました。金融恐慌や世界大恐慌に対処しましたが、二・二六事件で暗殺されました。『随想録』および『経済論』から、高橋の考え方を知ることができます。



第一節 国の経済と個人経済

 まずは、国の経済と個人経済の違いについて。



 先づ国の経済と個人経済との区別を明かにせねばならぬ。

 例へば茲(ここ)に一年五万円の生活をする余力のある人が、倹約して三万円を以て生活し、あと二万円はこれを貯蓄する事とすれば、その人の個人経済は、毎年それだけ蓄財が増えて行つて誠に結構な事であるが、これを国の経済の上から見る時は、その倹約に依て、これまでその人が消費して居つた二万円だけは、どこかに物資の需要が減る訳であつて、国家の生産力はそれだけ低下する事となる。ゆゑに国の経済より見れば、五万円の生活をする余裕ある人には、それだけの生活をして貰つた方がよいのである。



 この見事な説明では、個人的には美徳とされる節約が、国の経済においてはマイナスに働くことが示されています。ミクロとマクロの違いが示され、そこにおける合成の誤謬が説明されているのです。

 また、高橋は芸者遊びの例も出しています。そこで使ったお金は、芸者・料理人・農業者・漁業者・商人等の給料となり、その効果は芸者遊びで使った費用を大きく上回ることになるというのです。



 個人経済から云へば、偽年の節約をする事は、その人にとつて、誠に結構であるが、国の経済から云へば、同一の金が二十倍にも三十倍にもなつて働くのであるから、むしろその方が望ましい訳である。茲が個人経済と、国の経済との異つて居るところである。



 見事な説明です。ここで高橋は、〈個人経済から見る時と、国の経済から見る時とは、大変な相違がある事を明かにした〉のです。ここには、乗数理論と同等の考えが示されています。乗数理論は『岩波 現代 経済学事典』では、〈投資の増加が何倍の所得の増加をもたらすかを明らかにする理論〉と説明されています。



第二節 国家と国際

 高橋は、〈国家といふものは、自分と離れて別にあるものではない〉と述べています。国家の安定のための三つの脚として、〈一つは政治上の中心、今一つは経済上の中心、他の一つは社交上の中心〉が挙げられています。日本においては、それぞれ政治家、実業家、皇室が想定されています。

 日本国の状態については、次のように語られています。



 すべて物の急激なる変化は決してよい結果をもたらさない。わが国の如くだんだんと自然に物価が高くなつていくといふことは、これはまことに健康状態である。



 この健康状態を保つために、為替相場の激変が警戒されています。その対策のために、国際協調の重要性が指摘されています。



 外国為替の思惑取引、または為替相場の激変といふことは、今日為替管理法の作用によつて、その弊害を防いでゐる訳であるが、元来外国為替の安定といふ事は、どの国でも一国の政策では出来ない。各国間の協調が必要である。それには国際間の通貨の安定がまづ出来なければならぬ。



 資本家はたゞ己れの利益を図ることのみを考へて資本の移動をなすが故に、この移動が各国の財界を紊乱する大なる原因となつてゐる。故にこの資本移動の自由を禁止することから協調が整はねば、国際間の貨幣の安定、為替相場を安定することは不可能だと思つてゐる。



 ここでは、過度なグローバリズムへが警戒されており、インターナショナリズム(国際主義)の必要性が認識されているのです。



第三節 信頼と信用

 経済活動においては、信頼と信用が非常に重要です。



 一家和合といふことは、一家族が互に信頼するといふことから起る。信頼があつてこそ、出来ることだ。また経済界においても工業、銀行、商業など各種当業者の間に相互の信頼があり、資本家と労働者の間にも、同様信頼があつてこそ、繁栄を見る事が出来るのである。



 ただ経済界のことを計るのに、通貨ばかりを以て測量することは出来ない。通貨以上に力のあるものは信用である。それを併せて考へていかなければならぬ。



 個人の経済活動においても、国家の経済活動においても、国際協調においても、そこには信頼と信用が必要とされるでしょう。何より、お金(貨幣)は国家の信用に基づいているのですから。



第四節 財政金融政策

 1929年から始まった世界大恐慌において、高橋は問題が〈供給過剰のため物価が暴落し生産設備は大部分休止するといふところ〉にあると正しく認識していました。つまり、〈生産と消費との間に均衡を失したところにその原因があつた〉ということです。需要と供給の関係について、彼が正しく認識できていたことが分かります。

 その事態に対処するため、高橋は財政政策と金融政策を行い、欧米に先駆けて景気回復を遂げました。彼は〈適正量の通貨供給〉を行い、〈財政緊縮方針〉を批判しました。



 一時の財政の収支均衡を維持するといふより以上、緊急な事態が起つてきたのであるからやむを得ぬ。財政の建直しは第二に廻し、第一に緊急な方に力を向けねばならぬ必要が日本にはある。



 高橋は、経済が停滞しているときには、需要拡大と投資刺激に向けた政府支出の必要性を認識していました。一方、景気が過熱しそうなときには、政府支出を削減し、均衡予算に復帰すべきことを理解していたのです。



第五節 生産力

 生産に必要なものについては、次のように語られています。

 生産に必要なものは何であるか、今日では先づ四つと云はれて居る。資本が必要である、労働が必要である、経済の能力が必要である、企業心の働きが必要である。



 一国の生産力が伸びるためには、この四つの一致が必要だと考えられています。資本と労働はもちろん、経済の能力と企業心の働きは注目に値します。経済の能力については、高橋がその力を歴史的に証明したと言えるでしょう。さらに、企業心という心理的な面を考慮しているところに、高橋の慧眼があります。一国の供給能力を伸ばすために、必要な認識がここには示されているのです。



第六節 負担の均衡

 負担の均衡を重視していた高橋は、資本主義と社会主義という安易な二元論にとらわれてはいませんでした。



 負担の均衡を重んじて制度を設ける以上は、資本主義だとか、社会主義だとかいふことはなくなる。



 彼は、国の富は〈国民の働く力〉にあり、〈資本と労働は車の両輪の如きもので喧嘩すべきものでない〉と述べています。資本と労働とが離ればなれだと生産が出来ないため、国力を養うことができなくなります。労資が相結んで、富が出来ると考えられているのです。そのため、得られた富を不公平なく双方に分配する仕組みが求められるというのです。

 ここで示されている考え方は、極めて重要です。高橋は、資本主義でも社会主義でもない領域をきちんと認識しており、負担の均衡という観点からその領域について論じているのです。



第七節 資本と労働の関係

 資本と労働の関係について、高橋は次のように述べています。



 資本が、経済発達の上に必要欠くべからざることはいふ迄もないことであるが、この資本も労力と相俟つて初めてその力を発揮するもので、生産界に必要なる順位からいへば、むしろ労力が第一で、資本は第二位にあるべきはずのものである。ゆゑに、労力に対する報酬は、資本に対する分配額よりも有利の地位に置いてしかるべきものだと確信してゐる。即ち『人の働きの値打』をあげることが経済政策の根本主義だと思つてゐる。またこれを経済法則に照して見ると、物の値打だとか、資本の値打のみを上げて『人の働きの値打』をそのままに置いては、購買力は減退し不景気を誘発する結果にもなる。



 この考え方は参照に値します。高橋は、労力を第一に位置づけ、資本を第二としています。そのため、労力に対する報酬は資本に対する分配額より有利な地位に置かれるというのです。

 ここで注意すべきは、高橋は常に労働を資本より優先させているわけではないということです。そうではなく、資本分配額と労働報酬の比率について、高橋は労働側(の賃金と雇用)を有利な位置において考えているということです。



第八節 資本と労働の協調

 高橋は、資本家がいてこそ労働者が職を失わずにすむことも正しく認識しています。資本家だけでも、労働者だけでもいけないということです。



 資本家があつてはじめて労働者は職を失はないのである。資本家ばかりでも、また労働者ばかりでもいかない、それで労資といふものはどうしても協調していかねばならぬ時勢であらうと私は考へる。



 この労資が協力していくという考え方は、当たり前のようですが、きわめて重要です。高橋の偉大なところは、安易な社会主義的な思想に染まらずに現実を直視しているところです。例えば、〈よく働いて安い者が自ら使はれることは、資本主義でなくても使はれる〉と語られています。能力の勝った者と劣った者を一緒の賃金にするようでは、産業が成り立たないからです。彼は産業を成り立たせるという観点から、資本と労働の関係を考察しているのです。



 資本家を窘(たしな)めれば、資本家といふものは萎縮してしまつて、新たに事業を起し、あるいはすでにある事業を拡張するといふやうな勇気は起らない。それはやはり労働者のために不利益な結果になる。



 新規事業における資本家の重要性が、労働者の側の利益からも適切に考慮されていることが分かります。



第九節 自由貿易と保護貿易

 高橋は、国外へは貿易の伸張を図り、国内では〈資本労働調和〉を図り、国民の生活を安全なものにすべきだと考えています。そのため、自由貿易と保護貿易の関係が問題になります。

 彼は、アダム・スミス(Adam Smith, 1723~1790)の自由貿易論とフリードリッヒ・リスト(Friedrich List, 1789~1846)の保護貿易論は矛盾してはいないと述べています。スミスの足りないところを、リストが足したと解釈しているからです。また、それぞれは、当時の状況に沿った説を主張したと解釈しているのです。



 このリストとスミスの二大経済学者の意見は決して矛盾してゐるものとは思はぬ。スミスのいひ足らざりし点をリストが満足したものと解釈する事が出来る。ただ一方は自由貿易主義を唱へ、一方は保護貿易論を力説したのであるが、もっとも当時英国とドイツとの国情の相反してゐるために、その説を以て己の国家にとつて最も適当なりと考へられたるところの主張をしたのに過ぎないのである。



 このように状況に応じた処置は、実際を重視した政治的な判断から導かれるものです。高橋は、政治を特定の主義に偏することなく、実際の状況に応じて宜しくすべきだというのです。彼は政治的に、実際の状況に適した政策を主張しているのです。



 自由主義とか統制主義とか、いろいろ議論があるけれども、政治は主義ではなく実際であつて、一方の主義に偏することなく、専ら事の宜しきに応じなければならぬ。自由といつても極端の放任は出来ないと同時に、統制といつても極端に自由を束縛してはいけないのである。これはいふまでもないことで、すべて事の宜しきに応じて誤りなきを期することが政治である。




第十節 労資協調経済

 高橋は、資本主義や社会主義についても正確に理解していたと思われます。

 資本主義については、社会主義および共産主義との比較で論じられることが多いですが、資本そのものは、労働や土地との関係で論じられることの多い概念です。そのため高橋は、資本と労働(労力)の関係について述べているのです。

 例えば、利き手が右手の場合、第一に右手で第二に左手になりますが、状況に応じて使い分けることになります。高橋の考える労働と資本の関係も、これと同じことであり、実際に応じて使いこなすという話になります。ですから、高橋が労力第一で資本を第二にしているからといって、高橋が資本主義者ではなく労働主義者だというわけでもないのです。ちなみに、資本主義者は資本の利益と蓄積を優先しますし、労働主義者は労働者の賃金と雇用を優先します。

 高橋は実際の状況に応じて、資本主義にも労働主義にも偏ることなく、労資協調によって、資本労働調和を図っているのです。そうすることによって、労働者の賃金と雇用の実現を第一にし、第二に資本の利益と蓄積を実現するのです。

 つまり高橋の経済における実際の立場は、労資協調経済だと言うことができます。それを単純な資本主義や社会主義とは異なるものと見なすなら、資本主義経済や社会主義経済を選択するのではなく、労資協調経済こそを選択すべきだと言えます。







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