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『第二章 もののあはれ』

【目次】
第一章 もののあはれ
 第一節 もののあはれの系譜
 第二節 本居宣長の物語論
 第三節 本居宣長の歌論
 第四節 日本のもののあはれ


第一章 もののあはれ

 日本人は、もののあはれを感じます。もののあはれとは、人生や花鳥風月などに対する、味わい深い情緒や情感を表す言葉です。

 

 第一節 もののあはれの系譜

 「あはれ」という言葉は、古くは『古事記』や『日本書紀』、『万葉集』の時代に見つけることができます。つまり、「あはれ」の伝統は、古代日本から現在に至るまで続いているのです。
 「もののあはれ」という言葉は、主に平安文学に多くの例を見つけることができます。
 紀貫之(870頃~945頃)の『土佐日記』には、〈かぢとり、もののあはれも知らで、おのれ酒をくらひつれば、はやくいなむとて、しほみちぬ、風もふきぬべしと、さわげば〉とあります。もののあはれを解さぬ人の下品な振る舞いが記されています。同じく『後撰集』では、紀貫之の[歌の詞書]に、〈ある所にて、すのまへに、かれこれ物がたりし侍りけるを聞きて、うちより女の声にて、あやしく物のあはれ知り顔なるおきなかな、と言ふを聞きて〉とあります。
 『大和物語(947~957頃)』の[四一段]には、〈また、このおとどのもとに、よぶこといふ人ありけり。それももののあはれ知りて、いと心をかしき人なりけり〉とあります。おとどは源大納言清蔭を指しており、もののあはれを知る人として記されています。
 藤原道綱母(936~995)の『蜻蛉日記(975頃)』には、〈千鳥うち翔りつつ飛びちがふ。もののあはれに悲しきこと、さらに数なし〉と記されています。
 『拾遺和歌集(1005~1007頃)』の[雑下・五一一]には、〈春はただ花のひとへに咲くばかり もののあはれは秋ぞまされる〉とあります。春より秋の方に、もののあはれを感じるというのです。
 紫式部(973頃~1014頃)の『源氏物語』の[松風]には、〈ほのぼのと明けゆく朝ぼらけ、霞のまより見えたる花のいろいろ、なほ春に心とまりぬべく、にほひわたりて、百千鳥のさへづりも、笛のねに劣らぬ心地して、もののあはれも、おもしろさも残らぬほどに(御法)秋のころほひなれば、物のあはれ取りかさねたる心地して、その日とある暁、秋風涼しくて虫の音もとりあへぬに〉とあります。美しい景色における、もののあはれが示されています。
 吉田兼好(1283頃~1352頃)の『徒然草』[第十九段]には、〈「もののあはれは秋こそまされ」と、人ごとに言ふめれど、それもさるものにて、いま一きは心も浮きたつものは、春のけしきにこそあめれ〉とあります。吉田兼好は、もののあはれを秋よりも春の風情に感じると述べています。

 

 第二節 本居宣長の物語論

 もののあはれは、本居宣長(1730~1801)によって詳細に語られています。源氏物語論である『紫文要領』を参考に、もののあはれについて見ていきます。
 『紫文要領』では、歴史の縦軸(時間意識)と横軸(空間意識)において、もののあはれを知ることが語られています。歴史の縦軸については、〈むかしの事を今の事にひきあてなぞらへて、昔の事の物の哀れをも思ひしり、又おのが身のうへをも、昔にくらべみて、今の物の哀れをもしり、うさをもなぐさめ心をもはらす也〉とあります。昔のもののあはれの知り方と、今のもののあはれの知り方がそれぞれ示されています。

 

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[図2-1] 昔のもののあはれを知ること

 kotoba_f02_02.bmp[図2-2] 今のもののあはれを知ること

 

 歴史の横軸については、〈物の哀れをしる事は、物の心をしるよりいで、物の心をしるは、世の有りさまをしり、人の情に通ずるよりいづる也〉とあります。もののあはれを知ることが、世の中の有様を知ることと関連付けて示されています。

 

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[図2-3] もののあはれを知ること
 

 宣長は、〈其の見る物聞く物につきて、哀れ也ともかなしとも思ふが、心のうごくなり。その心のうごくが、すなはち物の哀れをしるといふ物なり〉と述べています。見聞きしてあわれと動く心が、もののあはれを知るものだというのです。

 

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[図2-4] もののあはれを知るもの

 

 知ることや知るものを示した後、知らせることが示されます。〈たゞ人情の有りのまゝを書きしるして、見る人に人の情はかくのごとき物ぞといふ事をしらする也。是れ物の哀れをしらする也〉とあります。人情によって、もののあはれを知らせる方法は、人情を書き記すことだと語られています。

 

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[図2-5] もののあはれを知らせること

 

 もののあはれを知るということは、人情と密接に関係することが説明されています。〈その人の情のやうをみて、それにしたがふをよしとす。是れ物の哀れをしるといふ物也。人の哀れなる事を見ては哀れと思ひ、人のよろこぶを聞きては共によろこぶ、是れすなはち人情にかなふ也。物の哀れをしる也。人情にかなはず物の哀れをしらぬ人は、人のかなしみを見ても何とも思はず、人のうれへを聞きても何とも思はぬもの也。かやうの人をあしゝとし、かの物の哀れを見しる人をよしとする也〉とあります。

 

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[図2-6] もののあはれを知るということ

 

 つまり、〈その感じて哀れがる人が人情にかなひて物の哀れをしる人也〉というわけです。
 物語については、〈すなはち物語は、物の哀れを書きしるしてよむ人に物の哀れをしらするといふ物也〉とあり、その役割が説明されています。

 

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[図2-7] 物語ともののあはれ

 

 物語が書き手の心に及ぼす影響については、〈すべて世にありとある事どもをしるしてみるなかにて、おのづからよしあし、物の心をわきまへしる也。物の心をわきまへしるが則ち物の哀れをしる也〉とあります。自ずからなる、もののあはれが示されています。

 

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[図2-8] 記しおのずから弁え知る

 

 さらに、もののあはれに関して、品が必要であることが語られています。〈世の中にありとしある事のさまざまを、目に見るにつけ耳に聞くにつけ、身にふるゝにつけて、其のよろづの事を心にあぢはへて、そのよろづの事の心をわが心にわきまへ知る、是れ事の心を知る也、物の心を知る也、物の哀れを知るなり。其の中にも猶くはしくわけていはゞ、わきまへ知る所は物の心・事の心を知るといふもの也。わきまへ知りて、其の品にしたがひて感ずる所が物の哀れなり〉とあります。もののあはれを知るには、物の心や事の心を知った上で、品が必要だというのです。

 

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[図2-9] 品に従いて感じるもののあはれ

 

 もののあはれの具体例として、桜を見る場合が説明されています。〈たとへばいみじくめでたき桜の盛りにさきたるを見て、めでたき花と見るは物の心を知る也。めでたき花といふ事をわきまへ知りて、さてさてめでたき花かなと思ふが感ずる也。是れ即ち物の哀れ也。然るにいかほどめでたき花を見ても、めでたき花と思はぬは物の心知らぬ也。さやうの人は、ましてめでたき花かなと感ずる事はなき也。是れ物の哀れしらぬ也〉とあります。

 

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[図2-10] もののあはれを知る場合

 

 続いて、もののあはれと、善悪や邪正との関係が示されています。〈世にあらゆる事にみなそれぞれの物の哀れはある事也。その感ずるところの事に善悪邪正のかはりはあれども、感ずる心は自然と、しのびぬところより出づる物なれば、わが心ながらわが心にもまかせぬ物にて、悪しく邪(よこしま)なる事にても感ずる事ある也。是れは悪しき事なれば感ずまじとは思ひても、自然としのびぬ所より感ずる也。故に尋常の儒仏の道は、そのあしき事には感ずるをいましめて、あしき方に感ぜぬやうに教ふる也。歌物語は、その事にあたりて、物の心・事の心を知りて感ずるをよき事として、其の事の善悪邪正はすてゝかゝはらず。とにかくにその感ずるところを物の哀れ知るといひて、いみじき事にはする也。物の哀れしるといふ味右のごとし〉とあります。

 

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[図2-11] 歌物語のもののあはれ

 

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[図2-12] 儒仏の道の教え

 

 歌の道では、善や正しさのみならず、悪や邪さをも感じるのです。歌の道は、悪や邪さを感じないようにする儒仏の道とは異なるのです。ですから、〈されば物の哀れをしる人が即ち心ある人也。物の哀れしらぬは心なき人也〉と語られているのです。〈人の上には、心のよしあし、しわざのよしあし、形のよしあし、品・位のよしあしある也。其の外すべての事にみなよしあしあり〉と述べた上で、〈物語にても心しわざのよきをよき人とする也。その心としわざのよきといふは物のあはれをしる事也。しわざも物のあはれをしりたるしわざをよしとする也〉と語られています。宣長は、〈歌物語は、其の善悪・邪正・賢愚をば選らばず、たゞ自然と思ふ所の実(まこと)の情(こころ)をこまかに書きあらはして、人の情はかくの如き物ぞといふ事を見せたる物也。それを見て人の実の情を知るを物の哀れを知るといふなり〉と考えているのです。

 

 第三節 本居宣長の歌論

 本居宣長の歌論に『石上(いそのかみ)私淑(ささめ)言(ごと)』があり、この著作でも、もののあはれが詳しく語られています。
 まず、〈詞の程よくとゝのひ文ありてうたはるゝ物はみな歌也〉とあり、歌の定義が示されています。その上で、〈歌は物のあはれをしるよりいでくるもの也〉とあり、歌ともののあはれの関係が示されています。
 『古今和歌集』に対して言及されていて、〈古今序に、やまと歌はひとつ心をたねとして、万の言のはとぞなれりけるとある、此心といふが則ち物のあはれをしる心也〉とあります。歌ともののあはれの関係は、〈物のあはれしる也といふいはれは、すべて世の中にいきとしいける物はみな情(こころ)あり。情あれば物にふれて必ず思ひ事あり。このゆゑにいきとしいけるもの、みな歌ある也〉と説明されています。
 もののあはれの詳しい内実については、〈思う事のしげく深きは何ゆゑぞといへば、物のあはれをしる故也。事わざしげき物なれば、其事にふるゝごとに、情はうごきてしづかならず。うごくとは、ある時は喜(うれ)しく、ある時は悲しく、又ははらだゞしく、又はよろこばしく、或は楽しくおもしろく、或はおそろしくうれはしく、或はうつくしく、或はにくましく、或は恋しく、或はいとはしく、さまざまにおもふ事のある、是即ち物のあはれをしる故にうごく也〉とあります。

 

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[図2-13] 情の動く故

 

 情の動く故が示された上で、〈歌は、其物のあはれをしる事の深き中よりいでくる也〉と考えられています。

 

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[図2-14] 歌の表れ方

 

 もののあはれについて、先鋭化して論じられた箇所には、〈物に感ずるが、則ち物のあはれをしる也〉とあります。〈何事にも、心のうごきてうれしともかなしとも深く思ふは、みな感ずるなれば、是が即ち物のあはれをしる也〉というわけです。
 ここまで述べた時点で、宣長はもののあはれの「哀れ」について考察しています。〈さて阿波(あは)礼(れ)といふは、深く心に感ずる辞(ことば)也。是も後世には、たゞかなしき事をのみいひて、哀の字をかけども、哀はたゞ阿波礼の中の一つにて、阿波礼は哀の心にはかぎらぬ也〉とあります。哀れは、悲しいという意味だけではないというのです。〈阿波礼はもと歎息の辞にて、何事にても心に深く思ふ事をいひて、上にても下にても歎ずる詞也〉とあり、哀れは、深く感動することを表す言葉だというのです。つまり、〈心に感じてあはれあはれと歎ずるをあはれといふといへる也。たとへば人をあはれといふは、其人に感じて歎ずる也〉というわけです。宣長は、〈さてかくの如く阿波礼といふ言葉は、さまざまいひかたはかはりたれども、其意はみな同じ事にて、見る物、聞く事、なすわざにふれて、情(こころ)の深く感ずる事をいふ也。俗にはたゞ悲哀をのみあはれと心得たれ共、情に感ずる事はみな阿波礼也〉と考えているのです。あはれという言葉に、悲哀の感情が深く刻まれているといっても、心に感じることはすべてあはれだというのです。

 

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[図2-15] あはれという言葉

 

 そのため、〈其本をいへば、すべて人の情の事にふれて感くはみな阿波礼なり。故に人の情の深く感ずべき事を、すべて物のあはれとはいふ也〉と説明されています。ここから、〈それぞれに情の感くが物のあはれをしる也。それを何とも思はず、情の感かぬが物のあはれをしらぬ也〉ということにもなります。
 このもののあはれによる歌の道について、宣長は、〈たゞ物のあはれをむねとして、心に思ひあまる事はいかにもいかにもよみ出づる道也〉と述べています。この歌の道においては、〈人の情(こころ)のやうを深く思ひしるときは、をのづから世のため人のためにあしきわざはせぬ物也。これ又物のあはれをしらする功徳也。かく人の心をくみてあはれと思ふにつきては、をのづから身のいましめになる事もおほかるべし〉となります。『紫文要領』において、歌の道では善悪邪正の全てを感じることが、もののあはれとして示されていました。これと合わせて考えると、歌の道では、次のようになります。

 

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[図2-16] 世のため人のため

 


 第四節 日本のもののあはれ

 もののあはれは、心が物事に触れて、感じ動くことを言います。
 日本人は、昔と今を比べ、世の有様を知りて人情に通じ心動き、物の心・事の心を知り、品によってもののあはれを感じるのです。
 ですから、もののあはれは通常の意味での善悪では捉えきれません。善悪の次元では、ものにふれて心が動かないようにすることが善いことであったり、心が動くことが悪いことであったりします。それとは異なり、もののあはれは、そのままの物事に対して心が感じて動くことを「よし」とし、心が感じず動かないことを「あし」とします。その上で、善悪邪正を思い知るのです。思い知るが故に、世のため人のため、悪や邪なことはせず、善や正しいことをするのです。

 

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