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『第七章 妙』

【目次】
第一節 芸の妙
第二節 心の妙
第三節 日本の妙

 

第七章 妙
 妙とは、極めて優れていることです。単に優れているだけではなく、その優れている度合いが、人知では計り知れないとき、あるいは言語で言い表せられないときに妙という言葉が使われます。
 また、不思議なことや奇妙なこと、奇跡などに対しても用いられます。

 

第一節 芸の妙
 芸に妙あり。
 空海(774~835)の『性霊集』には、〈又詩ヲ作ル者、古ノ体ヲ学ブヲ以テ妙トシ、古ノ詩ヲ写スヲ以テ能シトセズ。書モ古ノ意ニ擬スルヲ以テ善シトス、古ノ跡ニ似タルヲ以テ巧ナリトセズ〉とあります。作者は、過去に学ぶことで妙を得るというのです。
 正徹(1381~1459)の『正徹物語』[落花]には、〈幽玄といふ物は、心にありて詞にいはれぬ物なり。月に薄雲のおほひたるや、山の紅葉に秋の霧のかかれる風情を、幽玄の姿とするなり〉とあり、幽玄が定義されています。その後に、〈幽玄といふは、更にいづくが面白しとも、妙なりともいはれぬところなり〉と語られ、幽玄が妙とは異なることが示されています。
 世阿弥(1363,64~1443,44)の『花鏡』[妙所之事]には、〈妙(めう)とは「たへなり」となり。「たへなり」といつぱ、形なき姿なり。形なき所、妙体(めうたい)なり〉とあります。妙とは、具体的に把握できない、形が無いものだというのです。〈知らぬを以て妙所といふ。少しも言はるる所あらば、妙にてはあるまじきなり〉とあるように、知りえないから妙所と言うのであり、少しでも言えてしまえるなら、それは妙ではないというのです。
 能においては、〈この妙所は、能を極め、堪能その物になりて、闌けたる位の安き所に入りふして、なす所の態に少しもかかはらで、無心無風の位に至る見風、妙所に近き所にてやあるべき〉とあります。能を究めた境地である妙は、堪能の達人となり、やすやすと演じながら無心となりその芸を意識せず、無風の位になっているというのです。妙と幽玄との関係は、〈幽玄の風体の闌けたらんは、この妙所に少し近き風にてやあるべき。よくよく心にて見るべし〉と語られています。幽玄の技能は、妙の境地に近いというのです。

 

第二節 心の妙
 心に妙あり。
 林羅山(1583~1657)の『神道伝授』には、〈神ハ心ノ霊也。心ハ形ナケレドモ、生テ有物ヲ霊トモ妙トモ云也〉とあります。神は心の霊であり、その心は形なく、生命に宿るものであり、霊や妙と呼ぶというのです。
 心の妙を述べた作品に、『莫妄想(マクモウゾウ)』があります。石田梅岩(1685~1744)の著作であり、妄想するなかれの意味で、心の迷いの元となる妄想を断つべしという禅語です。
 自分であることの不思議が語られていて、〈先此身自在ナル事ヲ思フベシ〉と説かれています。〈言語ヲ以テ自由ヲナシ、手ニ持、足行テ自在スル〉とあり、〈眼耳鼻ヨリ手足ニ至迄斯ノ如ク自由スル事ハ、目ニ見ト謂モ目ニ見ル所以ナシ。口ニ言ト謂モ口ニ言所以ナシ。又足ニ行ドモ足ノ歩行スル所以モナシ〉とあります。見たり言ったり歩いたりできるといっても、そうできる理由が見つからないというのです。〈眼耳鼻ヨリ手足ノ自由スルハ唯自由スル事ニ候哉。亦自由サスル所以ノ者有リヤ如何〉とあるように、自由の根拠が問われていて、その問いに対し、〈有〉と答えられています。〈如何ナル者ニ候哉〉と問われ、〈言難シ〉と答え、再度〈言難シトハ如何〉と問われ、〈夫ヲ知テモ是ト指テ形容スル物ナキ故ナリ〉と答えられています。つまり、〈自性ト謂モ是ガ自性ト云ベキ物ナシ。亦心ト名ヲ謂モ形ナシ〉ということです。自分が自分であること、つまり手足を動かしたり見聞きしたりできるのは理由あってのことですが、その理由には形がなく言うことができないというのです。
 考察は続き、〈自性ハ無心無念ナリ。其無心ナル者ガ何トテ物ヲ云物ヲ思ヒ候哉〉と語られ、〈夫ヲ妙ト云〉と述べられています。妙についての考察は続き、〈然バ其処ヲ妙ニ預タルニ候哉〉と語られ、〈否、妙ニ妙ナシ。妙破テヤハリ妙ナリ〉と述べられています。さらに、〈妙ト云ヨリ外ハ無キヤ、如何〉と語られ、〈黙スル而已(ノミ)ナリ〉と述べられています。自分の心には形がなく、この心だという根拠は心には無く、その根拠は妙と言うしかないということです。その妙の根拠を尋ねても底が割れていて、妙を突き破ったところ、すなわち妙の根拠も妙というしかないのです。それでも、さらに妙の外、すなわちより上位の根拠を尋ねたところで、ただ黙するしかないのです。
 谷川士清(1709~1776)の『真言弁』には、〈感通感動まつたく言霊の妙用なれば、感通をねがはむとならば、ひとへに言霊あらむことをねがふべし〉とあります。心通じ心動かされるということは、言葉の言い尽くし難い妙の働きだからこそ、そのために言霊を願うというのです。この心は、その心でもあの心でもありません。それにも関わらず、この心が発する言葉によって、その心やあの心にこの心の思いが通じ(たように思え)ます。この心とその心とあの心が、共に感じ動く(ように思える)のです。この不自然極まりない不可思議な現象が、妙の用として示されているのです。そして、その妙の用を引き起こしている、言葉が事柄に及ぼす霊力が、言霊として願われているのです。

 

第三節 日本の妙
 日本に妙あり。ゆえに、ただ、「妙」。
 日本史において、芸の妙と心の妙が示されています。これらは一見して別物のように思えますが、結局のところ、同じことを指しています。というよりも、同じところに行き着くといった方が適切かもしれません。
 この心は、この心であり、その心でもなく、あの心でもありません。それゆえ、「この心の感じや思い」は、言葉でその心やあの心に伝えるしかありません。それゆえ、自性についても、言葉で伝えるしかありません。栄西(1141~1215)の『興禅護国論』には、唐訳の『華厳経』からの引用で、〈一切の法はすなはち心の自性なりと知つて〉とあります。自性とは、ものの同一性と固有性が、それ自身で存在していることを意味しています。そのため心の自性は、自分が自分であること、つまり「心がこの心このものであること」を意味しています。
 自性を言葉で伝えようとしたとき、言葉の意味を言葉によって説明するという言葉の構造上、意味の根拠を問う行為の果てに、いつかは意味の底にぶち当たります。その根拠を言葉によって語り尽くすことはできませんが、確かに「有」と言える何かがあります。それが「妙」と呼ばれているのです。名付けえぬものの名前、言い得ぬものの言い方、知りえぬものの知り方、それが「妙」という言葉なのです。
 語りえぬものについては、語ることで示さねばなりません。つまり妙とは、語り得なさを示すために語られるものなのです。つまり妙とは、語りえぬものであり、語ることで示されることなのです。
 例えば、「自性」。つまり、「心がこの心このものであること」を、「心がこの心そのものであること」として言葉で伝えたときに、伝わった何かと、伝わらなかった何かが、ともに妙として示されます。
 現に言い得ぬために黙されているものを、「黙するのみ」と黙さないことによって示すこと、それが妙なのです。 そして、現に言い得ぬために黙されているものを、「黙するのみ」と黙さないことによって、現に黙していること、それもまた妙なのです。
 以降、繰り返しが続きます。

 

<補足説明>
 「この心の思い」は「有」のです。
 しかし、「その心において、「この心の思い」」が「有」ことは、原理的にありえません。
 しかししかし、「この心において、「その心において、「この心の思い」」を想えること」は「有」のです。
 そうして、この構造の気付きにおいて、実際は「それ」でしかなかったものが、本当は「その心」であったことに気付くのです。

 

<補足説明の補足説明>
 すでにこの構造を乗り越えている者、つまりは普通の常識人にとって、初めから、その心は「その心」なのです。

 

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