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『第八章 遊び』

【目次】
第一節 神遊び
第二節 仏遊び
第三節 人遊び
 第一項 歌に遊ぶ
 第二項 芸に遊ぶ
 第三項 俳句に遊ぶ
 第四項 境に遊ぶ
第四節 日本の遊び


第八章 遊び
 遊びは、衣食住とは異なる場所にあります。異なる場所にあり、ときに交わります。
 世俗的な日常から離れて、聖性を帯びた非日常において、心を生活とは異なる原理で働かせたときに遊びが生まれます。そこで生まれたものは、意識的・無意識的を問わず、日常へと還元されて循環します。そこに、遊びの精神が表れ、心が調えられるのです。
 ここで一句。

 神遊び 仏遊んで 人遊ぶ

 

第一節 神遊び
 日本の神話において、八百万の神々が遊びまします。
 『古事記』天若日子(アメノワカヒコ)の場面には、〈日八日夜八夜を遊びき〉とあります。太陽の死と蘇りの儀式について示されているといわれています。同じく『古事記』天石屋戸の場面では、〈天宇受売は楽(あそび)を為(し)〉や、〈歓喜(よろこ)び咲(わら)ひ楽(あそ)ぶぞ〉とあります。「楽」の文字が二度ほど登場し、天若日子のときの遊びと同じく「あそび」の訓で読まれています。天宇受売(アメノウズメ)と八百万の神々によって、歌や踊りが行われているのです。「遊び」と「楽」が同じ意味を持っていたことが分かります。古代日本では、祭りの際には神遊びによって神を招きました。神々と人の境において、遊びが生まれたのです。
 『日本書紀』[一書第六]には、〈其の遊行す時に及りて〉とあります。天孫降臨の後の行動が、遊行として語られています。
 『古今和歌集』[巻第二十]には、神を祭るときに奏する歌曲として[神あそびのうた]が詠われています。その内容は、採物(とりもの)のうた、日女(ひるめ)のうた、かへしもののうたなどです。かへしものとは、催馬楽などで調子を変えて歌うもののことです。
 『菅家遺誡(かんけいかい)』は、菅原道真(845~903)に仮託して後世に記された書です。〈凡そ神事の枢機は、正直の道心をもて事ふるときは、神ここに照し降り、玄ここに至り遊ぶ〉と記されています。ここでの道心は、事の善悪正邪を判断し正道を行おうとする心であり、人心に対して使われています。その道心を持って神に仕えるとき、神は降り立ち遊びに興じるというのです。
 『おもろさうし』は、首里王府が嘉靖10年(1531年)から天啓3年(1623年)にかけて編纂された歌集です。「おもろ」とは沖縄の祝詞のことで、「さうし」とは大和言葉の草紙から来ていると考えられています。神の遊びが詠われていて、例えば、〈聞得大君ぎや 降れて 遊びよわれば 天がした 平らげて ちよわれ〉とあります。王国時代の最高級神女が天上から地上に降り立ち、神遊びとしておもろを謡い舞うことで、天下を治め給えと詠われています。
 神を招く『神楽歌』には、遊びが盛大に詠われています。まず[本]に、〈君も神ぞや 遊べ遊べ 遊べ遊べ 遊べ遊べ〉とあり、 [末]で〈遊べ 遊べ ましも神ぞ 遊べ遊べ 遊べ遊べ 遊べ遊べ〉と続きます。君も神であられるよ。遊べ遊べ、猿よ、おまえも神であるよ。遊べ遊べと詠われています。ここでの神遊びは、神事における鎮魂呪法としての歌舞音楽を意味しています。
 『梁塵秘抄口伝集』には、〈神楽は、天照大神の、天の岩戸を押し開かせたまひける代にはじまり〉と説明されています。

 

第二節 仏遊び
 仏の道においても、遊びが行われます。
最澄(767~822)の『顕戒論』には、〈その破戒の者は、自在に遊行して、而も国王・大臣・官長と共に親厚をなす〉とあります。ここでいう遊行は遍歴修行、または遍歴し説法教化することを意味しています。
 空海(774~835)の『秘蔵宝鑰』には、〈仏法存するが故に、人皆眼を開く。眼明らかにして正道を行じ、正路に遊ぶが故に、涅槃に至る〉とあります。正しい道に遊ぶことで、悟りを開くというのです。
 鴨長明(1155~1216)の『発心集』には、〈念仏、読経をもととして、はかなき遊び、戯れまでも、みな、人により廻向に随ひて、ことごとく引摂し給ふ〉とあります。わずかな遊び戯れまでも廻向(仏事供養)によって、全て浄土に導いて下さるというのです。
 親鸞(1173~1262)の『教行信証』には、〈遊戯に二つの義あり〉とあり、遊び戯れることには二つの意味があると語られています。まず、〈一つには自在の義。菩薩衆生を度す、たとへば獅子の鹿を博つに、所為はばからざるがごときは、遊戯するがごとし〉とあります。一つ目は自在という意味です。それは菩薩が世の人を救うことであり、例えば獅子が造作もなく鹿を捕らえるのは遊び戯れているようだというのです。次に、〈二つには度無所度の義なり。菩薩、衆生を観ずるに、畢竟じてあらゆるところなし。無量の衆生を度すといへども、実に一衆生として滅度を得る者なし。衆生を度すと示すこと遊戯するがごとし〉とあります。二つ目は、衆生を救いながら救ったとの執着をもたないことです。つまり、菩薩が衆生を観察し、ついに衆生という実体があるとは見ないという意味です。そのため、多くの衆生を救っても、実に一人の衆生も悟りを得させたという想いがないというのです。このように人を救う姿を示すことは、遊び戯れているようだというのです。
 道元(1200~1253)の『正法眼蔵』[仏性]には、〈予、雲遊のそのかみ、大宋国にいたる〉とあります。かつての私は、遊学して大宋国に居たというのです。[神通]には、〈諸仏はこの神通のみに遊戯するなり〉とあります。諸々の仏は、この神通のなかに悠々自適しているというのです。[弁道話]には、〈この三昧に遊化するに、端坐参禅を正門とせり〉とあります。この三昧に遊ぶにあたって、端坐して参禅するのが正しき門だというのです。
 一遍(1239~1289)の言動をまとめた『一遍聖絵』には、〈文の意は、身を穢国にすてゝ心を浄域にすまし、偏に本願をあふぎ、専(もっぱら)名号をとなふれば、心王の如来自然に正覚の台に坐し、己身の聖衆踊躍して法界にあそぶ〉とあります。わが身をこの穢土に捨て、心をかの浄土におき、ひたすら阿弥陀の本願を仰ぎ、もっぱら南無阿弥陀仏と唱えれば、心は自ずから正覚の台に坐ることになり、わが身は聖衆に等しく踊り躍って阿弥陀の世界に遊ぶというのです。ここでの遊びは、この世の穢土に居ながら、彼岸の浄土に成仏することです。その手段は念仏と踊りだとされています。
 東大寺の学僧である凝然(1240~1321)の『華厳法界義鏡』には、〈菩薩これを得て、遐(はる)かに誓願を発し、広く業行を修し、無住の道に遊歴し、有涯の門に通入す〉とあります。菩薩は、心の束縛を断ち切った囚われのない状態で遊ぶというのです。

 

第三節 人遊び
 神や仏に続き、人も当然遊びます。日本人は、大いに遊びます。
『十訓抄(1252)』には、〈人々寄り合ひて、さるえべき遊びなどせむには、たとひ身にとりて、やすからず、くちをしきことにあひたりとも、かまへて、その日のさはりあらせじとはからふべきなり〉とあります。人々が集まって遊ぶときは、自分が穏やかになれず無念なことに出会ったとしても、決してその日の邪魔にはならないと心がけるべきだと語られています。

 

 第一項 歌に遊ぶ
 日本人は、歌に遊びます。
 『新古今和歌集』には、〈言葉の園に遊び〉とあります。『続古今和歌集』には、〈雲居より馴れ来たりていまも八雲の道に遊び〉とあります。和歌の道は、八雲の道とも呼ばれています。日本人が八雲の道に遊ぶということは、歌を詠うことを意味しているのです。
 『梁塵秘抄』には、いくつか遊びの歌が詠われています。一つに、〈平等大慧の地の上に 童子の戯れ遊びをも やうやく仏の種として 菩提大樹ぞ生ひにける〉とあります。童子の遊戯のごとく小さな功徳が、成仏の種としてやがて大樹が生い茂るような悟りにいたるというのです。二つに、〈戯れ遊びの中にしも さきらに学びん人をして 未来の罪を尽くすまで 法華に縁をば結ばせん〉とあります。遊びの中にも才気鋭く学ぼうとする人を、来世の罪までも無くなるように『法華経』の縁に結ばせるというのです。三つ目に、〈遊びをせんとや生まれけむ 戯れせんとや生まれけん 遊ぶ子どもの声聞けば わが身さへこそ揺るがるれ〉とあります。遊び戯れようとこの世に生まれてきたのか、遊ぶ子供の声を聞くと自分の体までが自然と動き出すように思われるというのです。
 井原西鶴(1642~1693)の『日本道にの巻(西鶴独吟百韻自註絵巻)』には、〈和歌は和国の風俗にして、八雲立御国の神代のむかしより今に長く伝て、世のもてあそびとぞなれり〉とあります。日本の和歌は日本人の風習であり、神代の昔から今にいたるまで続く遊びだというのです。

 

 第二項 芸に遊ぶ
 日本人は、芸に遊びます。
熊沢蕃山(1619~1691)の『集義和書』[巻第十三 議論之六]には、〈遊ぶ心を知てなす時は、其術を尽してきはむるといへ共、道徳の助けと成て末芸にながれず。遊ぶ心を知らずして上手となる者は、道徳の大なるを以て芸術のすこしきなるをなすもの也〉とあります。ここでの遊ぶ心とは、六芸に優遊涵泳する心のことを意味しています。六芸とは、礼・楽・射(弓術)・御(馬術)・書・数の六つのことです。
 佐藤一斎(1772~1859)の『言志四録』[言志録]には、〈人君当に士人をして常に射騎刀矟の枝に遊ばしむべし。蓋し其の進退、駆逐、坐作、撃刺、人の心身をして大いに発揚する所有らしむ。是れ但だ治に乱を忘れざるのみならずして、又、政理に於いて補有り〉とあります。人君たる者は、武士をして弓術や馬術や剣道をやらせなければならないというのです。なぜなら、進んだり退いたりすること、駆逐すること、坐ったり立ったり、撃ったり刺したりすることは、人の心身を大いに鼓舞し元気づけるからだというのです。これらは泰平の世において、乱世における覚悟を忘れないということだけでなく、また政治を行なうのにも大いに助けになると考えられています。[言志後録]には、〈聖人の遊観は学に非ざる無きなり〉とあります。聖人が遊び歩いて見物することは、どれも学問でないものはないというのです。

 

 第三項 俳句に遊ぶ
 日本人は、俳句に遊びます。
談林の西山宗因(1605~1682)は、〈すいた事して遊ぶにしかじ、夢幻の戲言也〉と述べています。
 向井去来(1651~1704)の『旅寝論』には、先師芭蕉の言葉として、〈我、俳諧において、或は法式を増減する事は、おほむね踏まゆる所ありといへども、今日の罪人たる事をまぬがれず、ただ以後の諸生をしてこの道にやすく遊ばしめんためなり〉とあります。弟子が俳句の道で簡単に遊ぶことができるように、法式を変更する罪をあえて犯すのだというのです。
 各務支考(1665~1731)の『俳諧十論』には、〈そも俳諧の道といふは、第一に虚実の自在より、世間の理屈をよくはなれて、風雅の道理にあそぶをいふ也〉とあります。俳句では、世間の理屈から離れ、空想を働かせて、風雅の道理に遊ぶというのです。
 横井也有(1702~1783)の『鶉衣』には、〈俳諧の世に行はる事や、今は縉紳の品高きより、あやしの柴ふる人迄も、此道に遊ぶ事むべなる哉〉とあります。俳諧が世に盛んに行われ、身分ある人から卑しい者まで、この俳諧の道に遊ぶのはまことにもっともだというのです。
 小林一茶(1763~1827)の『おらが春』には、〈我と来て遊べや親のない雀〉という一句が詠まれています。

 

 第四項 境に遊ぶ
 日本における境目には、遊びが生まれます。
西川如見(1648~1724)の『町人嚢』には、〈庶人に四つの品あり。是を四民と号せり。士農工商これなり〉とあり、〈此四民の外の人倫をば遊民といひて、國土のために用なき人間なりと知べし〉とあります。身分制度において、生活に直結しない職業分野を遊民と呼んでいます。
 本多利明(1744~1821)の『経世秘策』には、〈万民は農民より養育して、士農工商・遊民と次第階級立て釣合程よく、世の中静謐にありしを〉とあります。遊民は、士農工商の階級に属さない民を指しています。例えば、遊女や河原者、あるいは人別帳から除外された浮浪人や犯罪者などの無宿をいいます。
 政治を行う武士、食料生産に携わる農民、生活必需品を作る工芸職人、商いを行う商売人など、日常に必須な分野から外れた民に遊びの呼称が冠されていることが分かります。

 

第四節 日本の遊び
 遊びは、日常の生活とは異なる場所で生まれます。
 そのため、日常の生活とは異なるもの・ことに「遊」の文字が使われ、日常の生活から外れるもの・ことにも「遊」の文字が使用されるのです。
 それゆえ遊びは、表側からは日常の生活から独立しているように見えます。しかし、裏側から見ると、遊びと日常の生活は相互に協力し合う関係で繋がっているのです。

 
kotoba_f08_01.bmp[図8-1] 日常生活と遊びの関係

 

 表側からは、日常の生活と遊びが独立しているように見えます。
日常生活を営んでいる場合、日常生活は真面目に、遊びは真面目に反するものとして、つまり巫山戯(ふざけ)ているように見えます。
遊びに興じている場合、真剣な遊びが行われ、日常生活のことは蚊帳の外に置かれ意識されていません。

 
kotoba_f08_02.bmp[図8-2] 表側からの視点

 

 裏側からは、日常の生活と遊びが相互に協力し合っています。
日常生活に立つと、日常生活は秩序に、遊びは準秩序の関係になっています。遊びに立つと、日常生活は秩序であり、遊びは超秩序の関係になっています。
準秩序と超秩序は容易には峻別できません。しかし、敢えて言うなら、準秩序は練習の遊び、規則の遊び、模倣の遊び、競争の遊び、表現の遊びなどが挙げられます。準秩序の遊びとは、日常生活のための準備段階の役割を担う遊びのことなのです。
 超秩序は未確定の遊び、試行錯誤の遊び、象徴の遊び、再現の遊び、闘争の遊びなどを挙げることができます。超秩序の遊びとは、改善のためや危機に対処するために、日常生活の構造を変化させる可能性を秘めた遊びのことなのです。

 
kotoba_f08_03.bmp[図8-3] 裏側からの視点

 

 日常生活と遊びは、両義的に作用し合います。独立しているところと協力し合うところが、適切に場合分けされて互いに両立しているとき、人生に調和がもたらされます。
 沢庵(1573~1645)の『玲瓏集』には、[節度ある遊び]が示されています。〈あそぶに節あらん、節にあたらんは、あそぶもにくからす。節にあたらすは狂人なり。あそぶ人あやまたす、節を過くべからす。節といへるは、よろづに大かたさだまりたる程ある物なり〉とあります。遊びにも節度が必要だということが諭されています。
 例えば、気晴らしを考えてみると分かりやすいと思います。気晴らしは日常生活から独立していますが、日常生活の緊張をほぐして、日常生活に活力をもたらしてくれます。この関係を理解できれば、弛みや緩みが遊びと呼ばれていることにも納得がいきます。さまざまな機関には、適度な弛みや緩みが必要なのです。それが大きすぎても小さすぎても、不具合が起こります。適切な遊び(弛みや緩み)によって、さまざまな機関は正常な動作を行うことができるのです。

kotoba_f08_04.bmp [図8-4] 日常生活と遊びの調和

 

 日常生活と遊びの適切な場合分けが崩れ、日常生活と遊びが孤絶するとき、遊びの堕落が始まります。それに伴い、日常生活も軋み始めます。日常生活に傾いて気晴らしが少なくなれば、日常生活の緊張が膨らみ暴発します。遊びに傾いて気晴らしが多くなれば、怠惰に陥って日常生活がおろそかになります。

kotoba_f08_05.bmp[図8-5] 日常生活と遊びの孤絶

 

 日常生活と遊びの適切な場合分けが崩れ、日常生活と遊びが融解するときも、遊びの堕落が始まります。それに伴い、日常生活も歪み始めます。日常生活と遊びの境目が曖昧になり、巫山戯た真面目さが横行し出します。権力誇示のためのマスゲームや、金のために手段を選ばないスポーツ行為、賭博や酩酊などが挙げられます。

 
kotoba_f08_06.bmp[図8-6] 日常生活と遊びの融解

 

 日常生活と遊びが、孤絶することなく融解することなく、調和を保つためには、遊びに聖なる感覚が必要になります。神や仏などの聖性が想定されることで、遊びは日常生活と調和を保つに至るのです。聖性を帯びた遊びとして、冠婚葬祭が挙げられます。日常生活とは異なり、聖性を帯びた遊びである冠婚葬祭が行われることで、人生は充実し、世の中はうまく廻るのです。

 

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[図8-7] 俗なる日常生活と聖なる遊びの調和

 

 つまり、聖性を帯びた遊びは、俗の次元にある日常生活に恵みをもたらすのです。遊びから聖なる感覚が失われるとき、真剣な遊びは、堕落した遊びとなってしまいます。では遊びが聖性を得るには、どうしたらよいのでしょうか。
 その答えに近づくには、音楽を考えてみるのが良いように思えます。日本では、八雲の道に遊ぶことが歌を詠うことを意味するように、遊びと音楽は密接に関連し合っているからです。
 二条良基(1320?1388)の『筑波問答』には、〈おほかた、過去現在の諸仏も、歌を唱へ給はずといふことなし。あらゆる神仏、いにしへの聖たちも、歌にて多く群類をみちびき給へば、今さら申すに及ばず〉とあります。神仏も聖も、歌にて生命あるものを導くというのです。
 音楽や歌も遊びと同様に、日常生活と独立した場所で奏でられることもあり、日常生活に入り込んで協力関係を築くこともあります。それらが適切に行われると、人生や世の中に彩りを添えてくれます。音楽がそうであるように、遊びにも調子と調和が重要です。音楽がそうであるように、遊びにも美しさが必要です。遊びにおいても音楽と同様に、調子や調和や美しさを求めることで、聖性に近づくことができるように思えるのです。
 そして、聖なる遊びと俗なる日常生活が巡ることで、調和に至り、誠が生まれるのです。

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[図8-8] 調和における誠

 

 誠の例として、俳諧における風雅の誠を挙げることができます。
 服部土芳(1657?1730)の『三冊子』には、〈「高く心を悟りて、俗に帰るべし」との教なり。「つねに風雅の誠を責め悟りて、今なす所、俳諧にかへるべし」といへるなり〉とあります。心を高く持って俗世間へ帰るべきだという松尾芭蕉(1644?1694)の教えがあり、今なすべきこととして、風雅の誠において俳諧に帰るべきことが示されています。俗世間と俳諧への循環が、高き心による風雅の誠に至り、繰り返されているのです。
 聖なる遊びと俗なる日常生活が、表側では独立し、裏側では関連し、その循環において秩序を保ち調和に至り、誠が生まれるのです。その結果として、日本人の心には誠が刻まれているのです。
 最後に短歌を二つ。

 神遊び、仏遊んで、人遊び 遊び遊んで 遊べや遊べ
 神遊び、仏遊んで、人遊び 真事に遊び 真言に遊べ 

 

 

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