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『断章 時処位』

【目次】
第一節 中江藤樹の時所処
第二節 熊沢蕃山の時所処
第三節 日本の時所処


断章 時処位
 時処位とは、時(時間)と処(場所)と位(立場)に応じた基準のことです。
 江戸儒学の陽明学派において、時処位が語られています。日本に陽明学が紹介されたのは江戸の初期であり、中江藤樹や熊沢蕃山が活躍しました。

 

第一節 中江藤樹の時所処
 中江藤樹(1608~1648)の『翁問答』には、〈時処位〉に対し、〈ときところくらゐのよくかなふやうに分別し、人事のつとめをはげますは、みな人間のちからにてなすわざなるによつて、おしなべて人事と云。人事をよくつとめてわざはひにおふは、運命にして人力のをよぶきはにあらざれば、天災と云也。人事をつとめずしてわざはひにあふは天災にはあらず〉とあります。時処位とは、人間が時間と場所と立場に応じて、よく考えてつとめる人事だというのです。人事につとめても災いに遭ってしまうのは、天災だと考えられています。人事をつとめないで災いに遭うのは天災ではないというのです。
 また、〈時と処と位とによくかなひて相応したる義理を中庸となづけたり〉ともあります。人間が、時間と場所と立場に適うようにする義理が、中庸と名づけられています。

 

第二節 熊沢蕃山の時所処
 熊沢蕃山(1619~1691)の『集義和書』には、〈日本は神国なり。むかし礼儀いまだ備らざれ共、神明の徳威、厳厲なり。いますがごとくの敬を存して、悪をなさず。神に詣でては、利欲も亡び邪術もおこらず。天道にも叶ひ、親にも孝あり、君にも忠あり。ただ時・所・位の異なるなり〉とあります。日本は神と共にある国であるため、礼儀作法が整っていなくとも人々は悪を行うことなく、神に参詣しては私欲を抑えていたというのです。ただ、天道や忠孝などに応じた時処位があったのだと語られています。
 また、蕃山は、師匠である中江藤樹の教えについて、自身の考えを述べています。〈予が先師に受てたがはざるものは実義也。学術言行の未熟なると、時・所・位に応ずるとは、日をかさねて熟し、時に当て変通すべし。予が後の人も、又予が学の未熟を補ひ、予が言行の後の時に叶はぬをばあらたむべし。大道の実義にをいては、先師と予と一毛もたがふ事あたはず。予が後の人も亦同じ。其変に通じて民人うむことなきの知もひとし。言行跡の同ぜずを見て同異を争ふは道を知ざるなり〉とあります。師の藤樹と蕃山は、実義において何も変わらないというのです。ただ学問や行動の未熟な点と、時間と場所と立場に応じた状況の相違がある点から、毎日よく考え、時に応じて対応を変えるのだと考えられています。蕃山に続く人も、未熟なところや叶わないようなところは改めるべきだと述べられています。状況に応じて対応を変えるのを見て、同じだとか異なるだとか言いつのるのは、時処位の道を知らない人だと語られています。
 法と道の関係については、〈法は聖人時・処・位に応じて、事の宜きを制作したまへり。故に其代にありては道に配す、時去、人位かはりぬれば、聖法へども用ひがたきものあり。合へずを行時は却て道に害あり、今の学者の道とし行ふは、多は法なり。時・処・位の至善に叶はざれば道にはあらず〉とあります。時処位の至善とは、時処位に適合する至極の善を意味しています。法は、その時の聖人が、その時の時処位に合うように制定したものであり、この時代に合っているわけではないというのです。道は、その時々の時処位に応じた善を行うことだと語られています。

 

第三節 日本の時所処
 時処位は、時(時間)と処(場所)と位(立場)に応じた基準のことです。その時々には、その時々に応じた時処位があり、その時処位に適合する善を行うことが道なのです。そのときの時処位に応じて制定されたものは法であり、時代が変われば合わなくなります。時代を通じて時処位に適合しようとする実義があり、それがうまく行われれば道が行われたと言えるのです。それが、日本の時処位なのです。

 

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