偉大な日本の先人たち 漸進の思想「中巌円月」篇
臨済宗の僧である中巌円月(1300~1375)の著作に、『中正子』というものがあります。
書名の『中正子』とは円月みずからの号なのですが、宋の周濂渓の『太極図説』に、聖人の道を定義して「中正仁義」と要約しているのに本づくと言われています。
中巌円月にしろ、『中正子』にしろ、その名を知っている日本人はほとんどいないのではないでしょうか。
あまり知られてはいない円月の『中正子』ですが、その内容には参照すべきものが含まれています。いくつか円月の残した言葉を見てみましょう。
中正子曰く、改革の道は、疾(はや)く行ふべからず。
いわゆる漸進主義です。漸進主義とは,社会や国家の変革に急激な手段を避け,順を追って前進しようとする考え方です。構造改革などという狂騒を繰り広げた日本人は、正座して聴きましょう(笑)。
では、なぜ変革を性急に行ってはならないのでしょうか。それは、社会や国家には、人の心というものが関わっているからです。
人心未だ信ぜざるの時には改むべからざるなり。人心已(すで)にこれを信ずるの日、もつてこれを革むべきものなり。
人民の心がまだ信じるに至らないときは改めてはいけません。人民の心が,変更の意義を十分に信じられるようになってから改めるべきだと円月は言います。
人の心という複雑なものが絡んでくると,研究室の実験のように安易な変更を行うわけには行きません。研究室の出来事を安易に社会に適用してはならないのです。
いえ,もっと正確にいうならば,実験やシミュレーションでも,その複雑性が上がればあがるほど,急進主義の危うさが見えてくるものなのです。
その意味で,社会に対して大規模な変革をたくらむ急進主義者は,合理主義の弊害におちいっているというよりも,むしろ合理的に物事を考えていないと言えるのです。
そもそも,合理を合理的に突き詰めたならば,合理の底が割れているということが合理的に導かれるのです。別の言い方をすると,合理とは合理的には説明の出来ないもの(公理・公準・仮定)の上に成立っているということです。
特に、社会が対象の場合、合理の底に人の心という不確定要素が関わってきます。ですから、人(の心)が変革の意義と意味を信じているということが重要になるのです。国民が一時の熱狂に身を任せるのではなく、説得された上で納得し、穏やかに変革を行わなくてはうまくいかないのです。
天下国家、制令の新しきものを行へば、蚩蚩庸庸(ししようよう)[愚かでつまらぬ]の無知の民は、習熟せざるが故に、艱辛(かんしん)不便(ふべん)の患(うれい)をもつて、もつて朝廷[政府]に偶語(ぐうご)[二人以上の者が集まって、あげつらう]し、天下に流言するに至る。故に兌(だ)を口舌となすなり。この故に庚革(こうかく)の道は、宜(よろ)しく速疾なるべからず。必ずその事畢(おわ)り已(や)むの日に逮(およ)べば、無知の民はこれに漸(ぜん)[次第に慣れてくる]し、これに熟して、しかして后(のち)これを信じ、反(かえ)つて便利となして、自らこれを行ふ。
政治において新しい制度を導入したとします。すると無知な愚民(ひどい言い方ですね)は,その制度に不慣れなためうまく適用することができずに不満を持ちます。政府に対して徒党を組んで文句を言うようになります。このため,変革の道は急激に行ってはならないのです。変革を穏やかに行えば,変革が終わりになる頃には,人民は次第に慣れて成熟してきます。そうすると,この変更を信じるようになるどころか,かえって便利と思い,自分からこれを行うようになります。
革の道は、宜しく疾速なるべからず。故に初(しょ)は鞏固(きょうこ)にして、次(じ)は革む。
要は,先ず改革のための基礎的条件を固めることが先決であって、実際の改革はそれからというわけです。あせって急いではならないと言うことです。
当たり前と言えば,当たり前なのですが,この当たり前のことを忘れてしまったのが戦後日本人という構造改革騒ぎを巻き起こした人たちなのです。
古人の言葉の中に、現代の病理に対抗する智恵が含まれているというのは不思議な気がします。特に、日本思想の豊穣さに触れると、古人に対する感謝の気持ちが湧いてきます。それと同時に、その豊穣さを足蹴にしてきた戦後日本人に対する憤りを覚えます。
なんとか道を踏み外さずに生きていこうと思うなら、その場の雰囲気に流されずに、古人の言葉を参照することが大切なのだと思われます。
<参考文献>
本論の引用は全て、岩波書店の『日本思想大系16 中世禅家の思想』の中正子・外篇五からのものです(引用ページは、上から140頁,140~141頁,141頁,143頁)。
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