『思想遊戯』第一章 第二節 日本神話




 かれここをもちて、

 今に至るまで天皇命等(すめらみことたち)の御命(みいのち)長からざるなり。



 『古事記』より




第一項

一葉「佳山君。日本最古の歴史書には、神様が地上に降り立ち、美しい娘と婚約した話が語られています。知っていますか?」

智樹「ええと、それって『古事記』のことですか?」

一葉「はい。『古事記』のことです。」

 そう言って、上条さんは薄く微笑んだ。僕はうれしくなって、彼女に話の続きをうながした。

智樹「その話は、どのような話なのですか?」

一葉「神様の名前は、ニニギノ命(ミコト)。美しい娘の名は、コノハナノサクヤ姫です。」

智樹「ニニギノミコトとコノハナノサクヤ姫・・・。」

一葉「佳山君は、天孫降臨を知っていますか?」

智樹「ええと、確か日本神話で、神様が地上にやって来たことでしたっけ?」

一葉「はい。天照大神(あまてらすおおみかみ)の命を受けて、ニニギが高天原(たかまがはら)という天上の世界から、日向(ひゅうが)国の高千穂峰に天降(あまくだ)ったという物語です。」

 僕はうなずいた。

智樹「それが天孫降臨ですか?」

一葉「はい。そうです。地上に降り立ったニニギは、美しい少女と出会います。それがサクヤ姫です。ニニギはサクヤ姫に求婚します。サクヤ姫は、自分の父親に訊くようにとニニギへ告げます。それを受けてニニギは、父親のところに遣いを出します。」

 僕は、楽しそうに語る彼女を見ていた。とても不思議な感じがした。大学に入って、とても美しい女性の隣に座って、その女性が日本神話について楽しそうに語っているのを聞いている。これは、夢なんじゃないかと思った。いや、事実、これは一つの美しい夢なのだと僕は勝手に納得するのだ。目覚めて視る、一つの、美しい夢。

一葉「遣いから話を聞いた父親は、喜んで多くの献上品とともに娘を差し出します。そのとき、サクヤ姫と一緒に、姉のイワナガ姫も送り届けました。けれど、その姉は、サクヤ姫と違って容姿が醜かったため、ニニギは恐れをなして父親のもとへ送り返してしまうのです。ニニギは、妹のサクヤ姫だけを留めて、契りを結びます。」

 穏やかな風が吹く。僕は、イワナガ姫の心情を想った。

一葉「父親は、イワナガ姫を送り返され、嘆いて言うのです。娘を二人遣わせたのには理由があったのだと。イワナガ姫を娶れば、天の神の御子の命は、雪が降っても風が吹いても岩のように永遠になったであろうと。サクヤ姫を娶れば、木の花が咲き栄えるように、繁栄がもたらされるであろうと。そのために二人を遣わせたのだと。」

 僕は、彼女の述べた内容について考えてみる。

智樹「サクヤ姫は花を比喩し、繁栄を象徴していて、イワナガ姫は岩を比喩し、永遠の生命を象徴していた、ということですか?」

一葉「はい。ニニギはイワナガ姫を送り返し、サクヤ姫一人と結婚したため、寿命が木の花のようにはかなくなったということです。木の花とは、桜の花か、あるいは梅の花だとする説が有力です。イワナガ姫は、岩の永遠性を表しているとされています。花の美しさを取り、岩の醜さを遠ざけたため、現在に至るまで、天皇の寿命はそれほど長くないと語られているのです。つまり、天皇が神の子孫でありながら、人間と同じ寿命になっている理由が示されているのです。」

 彼女は薄く微笑んで僕を見た。僕は不思議な感じを受けた。

智樹「でも、もしニニギが、イワナガ姫とも結婚していたら、どうなっていたのでしょうか。というか、ニニギはイワナガ姫に謝って、イワナガ姫とも結婚すれば良かったんじゃないでしょうか?」

 僕がそういうと、彼女は少し寂しそうな顔をした。

一葉「そうですね。もしニニギがイワナガ姫とも結婚していたのなら、天皇陛下の寿命はもっと長かったのでしょう。でも、今現在、事実、そうなってはいないのです。」

 僕は彼女がとても賢いことを分かっているので、あえて訊いてみた。

智樹「なぜ、そうなってはいないのでしょうか?」

 彼女は、少しだけいたずら子っぽい表情をした。美麗な女性のそのような表情は、正直言ってグラッとくる。

一葉「神話というものは、今のこの世界の理由を説明する役割を果たしています。実際に、神の子孫である天皇の寿命は人間とは変わらないわけですから、その事実の理由が必要になります。その理由が、物語として要請されるわけですね。ですから、ニニギはイワナガ姫と結婚しないことで、永遠の命を手放さなければならなかったのです。ですから、謝って結婚してもらうということは、物語の性質上、できないのです。」

 そういって、彼女は薄く微笑んだ。彼女のその微笑みは、不思議な魅力を放っている。僕は、少しだけ怖くなった。

智樹「では、そのためにイワナガ姫は用意されたということでしょうか? つまり、永遠の命を手放すための存在というか、装置というようなものとして・・・。」

 僕がそう言うと、彼女は僕から視線を外し、遠くを見つめた。その眼差しは、とても寂しそうに見えた。

一葉「日本神話としては、『古事記』と『日本書紀』が有名ですね。サクヤ姫とイワナガ姫の物語も、この二つの歴史書に記載されています。『古事記』と『日本書紀』には、同じ物語が、異なった内容で記述されている場合があります。」

 僕はうなずいて、続きを促した。

一葉「『古事記』では、ニニギはイワナガ姫を見て恐れをなして、親のもとへ送り返します。イワナガ姫は、その後出てきませんし、永遠の命を手放す理由も、イワナガ姫と結婚しなかったからだと語られています。」

 僕は、先の展開を想像した。

智樹「では、『日本書紀』の方は・・・。」

一葉「『日本書紀』には、イワナガ姫が呪いをかけた話が記載されています。」

智樹「呪い・・・。」

 僕は、思わず彼女を見つめた。彼女は、僕を見つめ返して、言葉を続けた。

一葉「ニニギに追い返された後、イワナガ姫は恥ずかしさを感じ、呪いをかけました。私と結婚していたら、生まれる子供は永遠の命を得たでしょう。ですが、妹一人と結婚したため、生まれる子供の命は、花のごとく散ってしまうでしょう、と。」

 僕は、イワナガ姫を想った。せつないような、痛さを伴う感覚が胸の中に生まれた。

智樹「二つの神話では、理由が異なるということですか? 結婚しなかったことが原因の場合と、呪いをかけられたことが原因の場合があると。」

一葉「どうでしょうか・・・。ただ、一説では、イワナガ姫はさらなる呪いの言葉を吐いています。この世に生きている人々は、花のごとくに移ろって、衰えてしまうと。これが、世の人の命がもろいことの原因として語られているのです。」

 僕は、呪いの言葉を吐くということに、胸が締め付けられた。不思議だ。僕は、神話の話に、こんなにも心を動揺させるような人間だったのだろうか? もっと、冷めた見方をする人間だったじゃないか。

 もしかしたら、いいや、もしかしなくても、彼女の言葉だからこそ、僕は動揺しているんだ。ただの話ではなく、彼女の話だからこそ、僕は動揺しているんだ。

 僕は、彼女の話してくれた内容で、気になった点をたずねてみることにした。

智樹「『日本書紀』の側にだけ、天皇の命が短い理由だけではなく、世の人の命が短い理由が、イワナガ姫の呪いによって説明されているのですか?」

一葉「はい。そうです。イワナガ姫の呪いによって、世の人の寿命は短いのです。」

 彼女は憂いを帯びた表情を見せる。僕は、彼女の美しい容姿を想う。客観的にも主観的にも美しい女性が、醜いために結婚できずに呪いの言葉を吐く女性の物語を物語る。これは、なんという出来事なのだろう。世の中に、残酷さというものが、有り有りと在るのだということが分かる。僕は、的確な表現が思い浮かべることができなかったけれど、これがとても貴重で贅沢な体験であることは分かった。

智樹「イワナガ姫は、それからどうしたのですか?」

一葉「『日本書紀』の記述においても、イワナガ姫は呪いの言葉を発した後、出番がなくなります。イワナガ姫は、呪いを発した後、それからどのような人生を過ごしたのでしょうか・・・?」

 彼女は、無表情で語る。その無表情という表情の裏で、どのような感情が彼女の心の中に生まれているのだろうか。僕は、彼女がとても頭が良いということは分かっているけれど、彼女が何を考え、何に心を動かされるのか、そのことをほとんど知らない。いや、ほとんど分からないと言った方が正確だろう。彼女は、神秘的で、魅惑的で、不思議な存在なんだ。僕は、彼女のことをはかりかねている。

智樹「では、サクヤ姫の方は?」

一葉「サクヤ姫は、身ごもって子供を産みます。ただし、ニニギは、一夜の交わりで妊娠したサクヤ姫に疑惑を投げかけます。別の男の子供ではないかというのですね。サクヤ姫は、自身の潔白を証明するために、誓約(うけひ)をします。」

智樹「ウケイって何ですか?」

一葉「誓約(うけひ)とは、古代日本の占いのことです。」

智樹「なぜ占いをするのですか?」

一葉「誓約(うけひ)では、ある事柄について、そうならばこうなる、そうでないならば、こうなるという宣言を行います。そのどちらが起こるかによって、吉凶を判断するのです。サクヤ姫は、子供を産むときに産屋へ火を放ち、ニニギの子でなければ無事に産まれない。ニニギの子ならば無事に産まれると宣言して、無事に子供を産んで自身の潔白を証明したのです。」

 僕は、微妙な気持ちになった。男のあわれな側面というか、男の嫉妬の醜さを、綺麗な女性に赤裸々に語られるというのは、すごく、気まずい。

智樹「・・・すごい話ですね。」

一葉「サクヤ姫は、三柱の子を産みました。火が盛んに燃えている時に生んだ子、火が弱くなった時に産んだ子、火が消えた時に産んだ子の三柱です。」

智樹「何か、不思議な話ですね。僕は、サクヤ姫とイワナガ姫の話を聞いていて、イザナミのことを思い出しました。イワナガ姫は人の寿命を制限しましたが、イザナミは人の死を約束していましたよね?」

 彼女は、僕の言葉を聞き、一瞬キョトンとした表情になった。それから、嬉しそうに笑った。

一葉「よくご存じで。」

 僕は、照れくさくなった。

智樹「いや~、たまたまですよ。」

 その話については、中学生のとき何かの授業で教師が話していたのを、たまたま覚えていただけだ。イザナギとイザナミは、日本神話で国産み・神産みを行う非常に重要な神だ。日本の国土を形づくり、森羅万象の神々を産み出した。

 しかし、イザナミは火の神の子供を産み、そのときの火傷がもとで亡くなってしまう。夫であるイザナギは、死んでしまった妻のイザナミに逢いたいため、黄泉の国へおもむく。黄泉の国は、死者がおもむく場所だ。そこでイザナギは、決して除いてはならないという約束を破って、腐敗したイザナミの姿を見てしまう。イザナギは逃げだし、イザナミは追いかける。イザナギは、黄泉の国と地上との境にある黄泉比良坂(よもつひらさか)の出口を大岩で塞ぎ、イザナミと離縁した。そのとき、岩を挟んで二人は会話を行う。

 その会話の内容について、彼女は語り出した。

一葉「イザナミは、一日千人の命を奪うことを約束し、イザナギは一日千五百人の新たな命を約束するのでしたね。」

 僕はうなずく。

智樹「そうですね。それをそのまま受け取れば、日本では一日に五百人ずつ人口が増えていく計算になりますね。今は少子高齢化ですから、この神話の約束も効力を失ったのかもしれません。」

 ちなみに、イザナギが黄泉の国の穢れを落とすために禊(みそぎ)を行うと、天照大神を含む、日本神話でも重要な神々が誕生するのは有名な話だ。

 僕は、とても不思議な気がした。日本神話は、単なる神話だ。どこかの誰かが、勝手に作った物語だ。その物語を目の前にいる女性と話している。その物語の続きに、すなわち日本の歴史の一部に、僕と彼女が居るのだ。

一葉「佳山くんは、神話を信じていますか?」

 唐突に、彼女は僕にたずねた。僕は、単純に驚いた。彼女は、何を意図しているのだろう?

智樹「信じているかって、どういうことですか? 信じているわけ、ないじゃないですか・・・。」

 僕は、言った。声が、わずかにかすれていたと思う。

一葉「私は信じています。」

 そう、彼女は言った。彼女は、何を言っているのだろう?

智樹「信じている・・・って・・・・・・。」

一葉「"信じる"という言葉は、何を意味しているのでしょうね?」

 彼女は、僕にささやく。これは、悪魔の言葉かもしれない、と、僕は思った。

智樹「何を・・・言っているんですか?」

一葉「"信じる"という言葉の意味は、多義的です。おそらく私の言う"信じる"と、佳山さんの言う"信じる"は、異なる意味を持つのでしょう。その違いがどうであれ、私は日本の神話を信じているのです。」

 そう言って、彼女は僕の眼を見つめた。僕はいつのまにか拳を握りしめていたことに気づいた。拳を緩めると、手が汗ばんでいた。




第二項

智樹「先生。先日、友達と日本神話のコノハナノサクヤ姫とイワナガ姫の話をしたんですよ。」

 僕は、参加している私塾の講義が終わってからの打ち上げの席で、三宮(さんのみや)教授に話しかけた。

三宮「日本神話ですか。最近の学生は、そんなことを話題にするのですか?」

 三宮教授は、珍しいことを聞いたという風に、驚きの表情になった。

智樹「ええ、まあ。ちょっと色々とありまして。その友達は知識が豊富で、日本神話についても色々と教えてもらったんです。」

三宮「なるほど。それで、どのような話だったのですか?」

智樹「天孫降臨で地上に降り立ったニニギが、美しいサクヤ姫を見初めて結婚する話です。そのときサクヤ姫の父親は、姉のイワナガ姫も一緒に結婚するように勧めるのですが、イワナガ姫は醜いため、ニニギはイワナガ姫を送り返してしまうんです。サクヤ姫は、花の美しさと儚さの比喩であり、イワナガ姫は、岩の永続性の比喩なんです。サクヤ姫と結婚して、イワナガ姫と結婚しなかったため、神の子孫である天皇の寿命は短くなったという物語なんです。」

 僕が説明すると、三宮教授は少し考え込んでから話し出した。

三宮「それは一般的には、バナナ型神話と呼ばれるタイプですね。」

智樹「バナナ型神話ってなんでしょうか?」

三宮「う~ん。少し長くなりますが・・・。」

 三宮教授が横目でチラッと僕を見た。それを受けて、僕は静かにうなずいた。

智樹「構いません。是非、お願いします。」

 教授は丁寧に説明を始める。

三宮「バナナ型神話とは、東南アジアやニューギニアを中心にして、各地で見られる死や短命にまつわる起源神話を意味しています。確か、スコットランドの社会人類学者ジェームズ・フレイザーが命名したものだったと思います。」

智樹「なぜ、バナナなのですか?」

三宮「バナナが出て来る説話が基になっているからですね。大まかに言うと、神が人間に対し、石とバナナを示す話です。人間は当然ですが、食べられない石よりも、食べることができるバナナを選びます。石は不老不死の象徴です。人間が石を選んでいれば、人間は不死か、あるいは長命になったと考えられています。バナナは脆く腐りやすいですから、人間は死ぬ、あるいは短命になったと考えられているのです。」

 僕は驚いた。

智樹「サクヤ姫とイワナガ姫の話と、基本的な部分は同じですね。」

三宮「そうですね。日本神話でいうと、サクヤ姫とイワナガ姫の説話はバナナ型神話の変形だと見なせます。石が岩を名前に含んだ女性に変化していて、バナナは花に変化していますね。花は繁栄の象徴であり、岩は長寿の象徴です。」

 僕は、考え込んでしまったが、教授は静かに僕の言葉を待ってくれた。

智樹「確かに、バナナバージョンと日本神話は、基本的な構造は同じだと思います。ですが、やっぱり、少し違うところもあると思うのですが・・・。」

三宮「例えば、どこですか?」

智樹「う~ん。そうですねぇ。日本神話では、ニニギの選択によっては、イワナガ姫とも結婚することもできたと思うんですよ。つまり、繁栄と長寿の両方を手に入れる可能性が示されていたのではないでしょうか? だけど、バナナ神話の方は、石を選択してバナナを手放すという選択肢は、始めからなかったのではないでしょうか?」

 僕がそう言うと、今度は教授の方が考え込んでしまった。僕は、黙って教授の答えを待った。

三宮「なるほど。確かにそう考えると、バナナ型神話では、神様が意地悪な気がしますね。石とバナナの二者択一を示されたら、それはバナナの方を選びますからね。」

 僕は嬉しくなった。

智樹「そうなんです。それに、バナナの方は、前提がおかしいと思うんですよ。もともと石を食べられなくて、バナナを食べられる人間に対して、選択肢を提示しているじゃないですか? これって、そもそも理由になっていないと思うんですよ。だって、例えば今の我々は、バナナを食べることはできても、石は食べられないじゃないですか。その我々に対して、急に神様がやってきて石とバナナを持ってきて、どっちを食べるか聞かれるなら、バナナを選ぶしかないじゃないですか。それでバナナを食べると、神様は、はい、残念~。石を選ばずにバナナを選んだので、あなたは短命で~す。とか言われるわけですよ。なんか、むかつきませんか? なんか、卑怯というか、単におちょくられただけのような気がしませんか?」

 教授は、うなずいてくれた。

三宮「そうですね。そのバナナ型神話に比べ、日本神話の方は、自分が選んだ選択によって、自分が制限を受けるという点がはっきりしているように思えますね。自業自得という観点が、はっきりしています。」

智樹「そうなんです。例えば、綺麗で料理が下手な女性と、容姿が微妙で料理がうまい女性のどちらかを選ぶ、あるいは両方を娶るといった場合を考えると分かりやすいと思うんですよ。」

三宮「その場合ですと、嫁の容姿自慢ができるけど料理下手なため長生きできない人生と、料理上手のおかげで長生きできる人生に分岐しますね。その分岐は、自身の選択によって決定されるわけですね。ちなみに蛇足ですが、今の日本では一夫多妻は認められていませんから、両方を娶るというのは難しいですね。」

 そう言って、教授は笑った。僕も笑った。ああ、こういう会話は心地良い。教授は、紳士的で理知的なので、僕の意図していることなど、すぐに察してくれるのだ。それが出来るほど頭の良い人との会話は、スムーズに進んで僕は心地よさを感じる。

智樹「まあ、一夫多妻の話は置いておきまして、日本神話の方は、ニニギが美しさを選んで、醜い容姿に恐れをなしたということで、まあ、納得できるんですよ。ですが、バナナ型の方はアンフェアです。どちらも食べられるといった条件の上で、どちらかを選ぶという形式が必要なはずです。」

三宮「そうですね。」

智樹「はい。ところで、バナナ型神話って、他には見られないのですか?」

 僕は、話題を変えた。

三宮「そうですね。有名なところでは、『旧約聖書』の創世記の記述ですね。」

智樹「『旧約聖書』ですか・・・。」

三宮「ええ。『聖書』は読んだことがありますか?」

智樹「いえ、すいません。読んだことないです。」

三宮「では、アダムとイブという名前は知っていますか。」

智樹「ええ、知っています。最初の人間ですよね。」

三宮「そうです。『旧約聖書』では、神は、最初の人間アダムを造り出します。神はエデンの園という楽園を作り、アダムをそこに住まわせます。次に、そのアダムから最初の女性であるイブを造り出します。」

 僕はうなずいた。『聖書』そのものを真剣に読んだことはなくても、アダムとイブの話は有名なので知っている。後は、ノアの箱船とか、バベルの塔の話なんかは、大体分かると思う。

三宮「『旧約聖書』の創世記に出てくる生命の樹と知恵の樹の説話も、バナナ型神話の変形と考えることができます。エデンの園の中央には、神によって2本の樹が植えられていました。一つは、その実を食すと永遠の命を得ることができる生命の樹です。もう一つは、善悪の知識を得ることができる知恵の樹です。知恵の樹の果実を食べることは、神から禁じられていました。食べると死んでしまうと神は述べています。」

 僕はこの話を知っている。確か、ヘビが出て来るはずだ。

智樹「そこにヘビが出てきて、イブをそそのかして、アダムとともに知恵の樹の果実を食べてしまうんでしたよね?」

三宮「ええ。ヘビは、知恵の樹の果実を食べても死ぬことはないと言います。それを食べると、神のように善悪を知る者になれると言うのです。」

智樹「それでヘビは、食べちゃえとそそのかしたわけですね。」

 教授は、首を振った。

三宮「いいえ。原文を正確に追って行くと、面白いことが分かります。ヘビは、園のどの樹からも食べてはいけないと神に言われたのか、女にたずねます。女は、園の中央にある樹の果実だけは、死ぬから食べてはだめだと言います。ヘビは、その果実を食べても死ぬことはなく、神のように善悪を知るようになることを女に告げます。それを聞いた女は、果実がおいしそうなために、取って男とともに食べてしまうのです。」

 僕は、教授の話を聞いて驚く。

智樹「それでは、ヘビは・・・、もしかして悪くないのでは・・・。」

三宮「そうです。ヘビは、少なくとも嘘は吐いていないのです。恐るべきことに、この一連のやりとりで嘘を吐いている者が一人だけいます。」

 僕は、教授が意図しているところが分かって、背筋に冷たいものを感じた。

三宮「その者は、アダムとイブが知恵の樹の果実を食べてしまったことに気がつきます。その者は、ヘビとイブとアダムに呪いをかけます。その者は、アダムとイブが、生命の樹の果実を食べて永遠の生命を手に入れることを恐れ、エデンの園から二人を追放します。」

智樹「恐ろしい話ですね。」

 僕は、正直な感想を言った。

三宮「まったくですね。」

 僕と教授は、しばらく黙っていた。僕は、世界最大の宗教の秘密の一つを見せられた。そこには、嘘を吐く者と、嘘を暴くものがいた。

 打ち上げが終り、帰り道で僕は、上条一葉さんの言葉を思い出していた。



 「嘘をつくことは、悪いことでしょうか?」



 そう、彼女は言った。僕は、彼女がそう言ったことを知っている。だから僕は、本当のことが分かった。

 ただ単に、真実を語る者が正しくて、嘘を吐く者が悪いという簡単な話ではないということを。嘘を吐く者が正しく、真実を暴く者が悪い場合もあることも知っている。

 そして、その逆の場合も。

 醜い嘘を吐く者。その嘘を暴く者。嘘を暴かれたことを呪う者。

 この呪いによって始まる世界の今の説明。その説明によって、つむがれる一つの世界。その世界原理にあらがう、別の世界の可能性。

 僕は、上条一葉さんに惹かれている。彼女は、別の世界の可能性を僕に観せてくれるのかもしれない。それは期待というより、彼女の語る言葉から導き出された予測だった。




第三項

祈「智樹くん。こんにちは。」

 そう言って、水沢が話しかけてきた。

智樹「水沢か。おっす。」

 片手を上げて返事をする。

祈「席、いいかな?」

智樹「良いよ。」

 水沢は僕の向かいの席に静かに座った。

祈「今日は、ひとり?」

智樹「うん。」

 僕は丼モノで、水沢はサンドイッチ。今日は、昼の時間なのに比較的空いていて助かった。落ち着いて食事ができる。食べながら、僕は気になっている話題を振ってみる。

智樹「なあ、天孫降臨の話って、水沢は知ってる?」

祈「天孫降臨? それって神話の?」

智樹「そう。日本の神様が地上に降り立って、美しい娘と結婚した話。」

 水沢は、ゆっくりと僕に応える。

祈「恋愛もの、好きなの?」

 からかわれている気がしたけれど、変に反発するのも大人げないので冷静に返す。

智樹「少女漫画は読まないけど、日本神話とかは意外に面白いと思うよ。」

祈「どんなふうに?」

智樹「ニニギって神様が地上に降り立ったとき、美しい娘を見つけるんだ。結婚を申し込むと、娘の親は姉も一緒にニニギに差し出す。でも姉は醜くかったため、ニニギは美しい妹とだけ結婚して、姉とは結婚しなかった。」

 水沢は、こっちを見た。

祈「神話なのに、俗物的な話だね。女は愛嬌だと思うよ。智樹くん。」

 どうも内面が読み取れない雰囲気で、水沢は淡々と話す。何か、笑みに凄みがあるなぁ・・・。僕は、半ば無理矢理にもとの話を続ける。

智樹「ええと、それで美しい妹は花の比喩で繁栄を意味し、醜い姉は岩の比喩で長寿を意味していたわけ。それで、妹と結婚して姉と結婚しなかったから、長生きすることができずに、神様は短命になっちゃいましたって話。だから、神の子孫である天皇の命は永遠じゃないって話。」

祈「不思議な話だよね。きれいな女の人とは結婚して、そうでない人を振ったら寿命が縮むってことかな?」

智樹「えっと、その姉妹も神様で、そういう不思議な力を持っていたっていう話じゃないかなぁ? 確か、天上の神様と地上の神様がいたとかいう設定で、天上の神様が地上に降りてきて、地上の神様に求婚したってことじゃないかな・・・?」

祈「良く分かっていないだけかもしれないけど、天上の神様が、地上に降りてきて美人な神様をナンパしたっていうこと?」

 水沢のストレートな言い方に、僕は少しおかしくなった。

智樹「うん。そうかも。」

祈「それで、親は美人な妹と一緒に、醜い姉の方も押しつけちゃえって考えたのだけど、失敗してしまったということ?」

智樹「まあ、そうだね。」

祈「それで、実は、姉は醜いけど長寿の属性があって、妹は繁栄の属性があったと。」

智樹「そうかも。」

祈「両方を娶ったら、長寿と繁栄を享受できたのだけど、顔で判断したため、長寿の方は取り逃がしたという話なのかな?」

智樹「なんか、そういう風に言うと、ホントに俗っぽいな・・・。」

祈「そこには、教訓が隠されているね。」

智樹「教訓?」

祈「女を顔で判断すると、後悔するぞってね。」

 水沢は笑顔でそう言った。なにか、怖いかもしれない。そもそも、水沢はかなり容姿レベルが高いんだから、そこで絡まないでほしい・・・。

智樹「えっと・・・、そうなのかな。違うんじゃないかな・・・。」

祈「じゃあ、智樹くんは、この話の教訓は何だと思う?」

智樹「いや、教訓かどうかは分かんないのだけど、世界の成り立ちを説明しているんだと思うよ」

祈「世界の成り立ち?」

智樹「いや、だからさ、神の子孫である天皇が永遠に生きられない理由を説明しているわけで...。」

 水沢は、僕をじっと見た。

祈「美しくない女性を振ったから、永遠に生きられないってことかな?」

智樹「・・・・・・・・・。」

 僕は、黙ってしまった。確かに、水沢にそう言われると、そんなような気がしてきた。確かに、醜いイワナガ姫と結婚しないと短命になるって、変だよな。まずいな。なんか自分の考えに自信がなくなってきたなぁ・・・。

祈「だからね、智樹くん。女を顔で選ぶと、後悔するぞってことだね。」

 彼女は少し微笑みながら言った。かわいい女性が言うだけに、よく分からないけど、なにか不思議な凄みがある・・・。

智樹「いや、違うと思うけど・・・。」

 僕は苦笑いをし、水沢は静かに微笑んでいる。僕は、黙って残りのご飯を食べた。




第四項

 上条さんは、今日も静かに本を読んでいた。僕は、本を読んでいる彼女に話しかけた。

智樹「上条さん。こんにちは。」

一葉「・・・・・・こんにちは。」

 彼女は本から目を離し、僕を見た。

智樹「上条さん。この前、サクヤ姫とイワナガ姫の話をしたじゃないですか。そのことについて、社会思想を専門としている教授と話をしてみたんですよ。」

とも樹「教授・・・。誰でしょうか?」

一葉「知ってるでしょうか? 三宮教授って人なんですけど・・・。」

智樹「三宮教授・・・。それで、どのような話をされたのですか?」

 彼女が三宮教授を知っているかは分からなかったが、僕が教授と話した内容には興味を示してもらえたみたいだ。僕は、彼女の隣に座る。

智樹「サクヤ姫とイワナガ姫の話は、バナナ型神話と呼ばれているのはご存じですか?」

一葉「はい。知っています。」

 そう言って、彼女はにっこりと笑った。なんだ、知っていたのか。ちぇっ。

智樹「それで、バナナ型神話つながりで、『旧約聖書』の話とかもしたんですよ。」

一葉「エデンの園の話でしょうか?」

 僕は、かなり驚いた。

智樹「すごいですね。正解です。」

一葉「正解ですか。生命の樹と知恵の樹の話ですよね?」

智樹「・・・そうです。」

 僕は彼女の知性を侮っているつもりはなかったのだけれど、改めて感心した。彼女の知識の範囲は、かなり幅広いのかもしれない。

 ここは、彼女に三宮教授の意見を紹介してみることにしよう。

智樹「三宮教授と話して、面白いことを教えてもらったんですよ。」

一葉「アダムとイブの話ですか?」

智樹「そうです。アダムとイブは、ヘビにそそのかされて禁断の果実に手をつけるじゃないですか? でも、実はヘビは、嘘を吐いているわけではないんですよ。」

 彼女は、僕の目を見つめて黙ってしまった。僕は、彼女の反応をうかがった。しばらく反応がないので、続きを話すことにした。

智樹「えっと、神様は、知恵の樹の果実について、食べると死んでしまうとアダムとイブに言っているわけです。それに対してヘビは、食べても死なないこと、それに、食べると神のように善悪を知るようになることをイブに語るんです。それでイブは、その果実がおいしそうに思えてきて、アダムと一緒に食べてしまうんです。」

 彼女は静かに僕を見た。

一葉「つまり、嘘を吐いているのは神様で、ヘビは真実を述べているだけだと。」

 彼女は、この話の本質をずばりと言い当てた。

智樹「・・・そうです。なかなかに、面白いでしょう。」

一葉「はい。そうですね。」

 彼女は、うなずいた。

智樹「ヘビは、何を考えていたんでしょうね?」

 この質問を、僕は彼女にたずねてみたかったのだ。

一葉「ヘビは、実はサタンだったという解釈がありますね。」

智樹「サタン・・・。悪魔の王様でしたっけ?」

一葉「そうです。キリスト教では、神の敵対者です。」

 そう言うと、彼女は分厚い革製の手帳を取り出した。以前も、彼女は手帳に書かれている言葉を使って話していた。色々とメモっているんだっけか。彼女は、手帳をパラパラとめくって言った。

一葉「佳山くんは、アナーキストのバクーニンを知っていますか?」

智樹「・・・知りません...。アナーキスト...。上条さんは...。」

 僕が質問するより速く、彼女は答えた。

一葉「私自身は、アナーキズムはあまり好きではありません。」

 そう言って、にっこりと笑った。僕は、少しゾクっとした。彼女の笑顔の裏に、何かしらの強い意志が感じられた。

智樹「では、なぜ突然、バクーニン?」

 何か、変な返しになってしまった。

一葉「バクーニンの思想はあまり好きではないのですが、『神と国家』という著作に面白い意見があるのですよ。」

智樹「どのような意見でしょうか?」

 彼女は、手帳に眼を落とした。

一葉「バクーニンは、こう述べています。〈そこへ登場したのはサタン、あの永遠の反逆者であり、最初の自由思想家であり、世界の解放者である、あのサタンである。彼は、人間に対して、その無知であること、獣のように従順であることの恥ずかしさを教えた。彼は、人間に従順を捨てさせ、知恵の木の実を取って食べさせた。そうすることによって、サタンは人間を解放し、その額に自由と人間性という刻印を押したのである〉と。」

 僕は、彼女が何を言いたいのか分かった気がした。

智樹「なるほど。つまり、神様の言いつけを守っている間は、人間は神様の奴隷だったと。その奴隷の地位から人間を解放したのが、ヘビ。つまり、サタンだった、と。」

一葉「たいへん良くできました。」

 彼女は薄く微笑んだ。僕は嬉しくなる。

智樹「上条さんは、ヘビの役割をそう解釈しているのですね?」

一葉「物語を聴く者の思考によって、物語は異なった姿を見せます。神の加護を失ったと見るか、神の呪縛から解き放たれたと見るか。どちらも魅力的な考え方ですが、私は後者の方に、より共感を覚えます。」

 そう言う彼女は、僕には不思議な魅力をもって映る。

 話が一段落したと思って別れを告げようとしたとき、彼女の方から話題を振ってくれた。

一葉「ところで、生命の樹と知恵の樹の話をバナナ型神話と見なすのは、私には違和感があります。」

智樹「どういうことですか?」

一葉「聞きたいですか?」

智樹「是非。」

 彼女は薄く微笑んで、嬉しそうに語り出した。

一葉「アダムとイブの話をバナナ型神話として見たとき、生命の樹による永遠の命と、知恵の樹による善悪の知識の選択が問題となります。人間が、生命の樹の果実ではなく、知恵の樹の果実を選んだことにより、永遠の命を失い、その代わりに善悪の知識を得た・・・。」

智樹「そういう話ではないんですか?」

一葉「私は、違うことを考えています。」

智樹「どういうことでしょうか?」

一葉「神は最初、知恵の樹の果実を取ることを禁止しており、生命の樹の果実の方は、明確に禁止していなかったのです。ですから、生命の樹と知恵の樹の二者択一ではなかった可能性があるのです。」 

 僕は驚いた。僕は、彼女と話をするため、その部分を読み込んで来たのだ。彼女は、当然ながら、突然振られた話のはずだ。それなのに、僕よりも深く話すことができている。僕は、彼女と僕の間にある隔たりの大きさをあらためて思い知った。

 彼女は、彼女の説を続ける。

一葉「原文の通りに読むなら、神は最初、知恵の樹の果実を取ることを禁止しており、生命の樹の果実を取ることを禁止していませんでした。そして、神は、アダムとイブが知恵の樹の果実を食べ、善悪を知る者となった後に、生命の樹の果実を食べることを恐れたのです。」

 僕は、彼女の言うことがまだ分からない。彼女は、何かを意図している。それが、まだ分からない。でも、彼女は何か重要なことを言おうとしていることは分かった。

 彼女は、静かに語り続ける。

一葉「最初、生命の樹の果実を食べることは、禁止されていませんでした。ということは、アダムとイブは、実は、生命の樹の果実を食べていたのではないでしょうか? 神は、善悪を知る前のアダムとイブを必要としていたのです。そのために、アダムとイブは生命の樹の果実を食べ、神のために永遠に生きるようになっていたのです。」

 僕は、彼女が恐ろしく感じられた。彼女は、僕の恐怖を知ってか知らずか、僕を見つめたまま話を続ける。

一葉「神は、知恵を付ける前のアダムとイブを愛していたのです。知恵をつけない限りで、神はアダムとイブを愛していたのです。しかし、アダムとイブが知恵をつけてしまったら、神はアダムとイブを今まで通りに愛することはできなくなってしまう。神は、知恵をつけたアダムとイブが、生命の樹の果実を食べ続けて、永遠の命で居続けることを許さなかったのです。神は、アダムとイブをエデンの園から追い出しました。アダムとイブは、すなわち人間は、エデンの園を追放されて、必ず死ぬようになったのです。」

 僕は、おそるおそる話した。

智樹「でも、それはおかしいじゃないですか。それなら、神は、生命の樹は作っても、知恵の樹は作らなければよかったんじゃないですか?」

 彼女は、薄く微笑んだ。

一葉「神は、アダムとイブを愛していました。目の前に知恵を得る方法があるのに、それに手を出さずいる二人を。」

 彼女の声は、透き通っていた。

智樹「それなら、ヘビは・・・。」

一葉「ヘビがサタンであるかどうかは、私には分かりません。でも、もし私がヘビなら、同じ言葉を吐いたことでしょう。」

智樹「上条さんが、ヘビだったら・・・。」

一葉「神は、人間が善悪の知識と永遠の命を得ることを許しません。なぜなら、それは、人間が神になることだからです。神は、人間が愚かであることを楽しみ、神と同じ知性を持つことを憎むのです。生命の樹と知恵の樹が、互いに相反する性質を持つのなら、それは神の意図に由来します。」

智樹「それは・・・。」

一葉「自分と同じ知性を嫌う神、これは、人間性の顕著な特徴の一つです。」

 そう言って、彼女は微笑むのだ。

 僕は、ふと思ったことを口にした。

智樹「そういえば、ヘビ自身は、知恵の樹の実を食べていたのでしょうか?」

 そういった僕を、彼女は不思議そうに見詰めた。

一葉「それは、・・・・・・面白い視点ですね。」

 そう言って、彼女は静かに微笑んだ。











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