『思想遊戯』第一章 第三節 和歌
やまとうたは、人の心を種として、
万の言の葉とぞなれりける。
『古今和歌集』[仮名序]より
第一項
一葉「桜が咲き始めていますね。」
上条さんは、隣を歩く僕に話しかける。
智樹「そうですね。」
僕は、静かに答える。
一葉「この前、日本神話の話をしたときに、サクヤ姫とイワナガ姫の話をしましたね。」
智樹「ええ。」
一葉「イワナガ姫は、岩を暗示し、永遠性を示唆していました。サクヤ姫は、花を暗示し、繁栄とともに儚さを示唆していたと考えることができます。」
智樹「ええ。」
僕は、相槌(あいづち)を返しながら彼女の語る言葉に耳を傾ける。
一葉「日本では古来より、花の美しさと儚さを称える文化が育(はぐく)まれてきました。」
智樹「・・・そうですね。」
彼女は、不意に立ち止まった。僕も歩みを止め、彼女の方を見つめる。彼女は、まっすぐに僕を見つめている。ドキドキした。
一葉「佳山くんは、私と話をするのはどうですか?」
僕は、一瞬だけ思考停止常態に陥る。
智樹「どう・・・とは・・・・・・?」
一葉「私、よく言われるのです。話が難しいとか、よく分からないとか。」
そう言う彼女は、少し寂しそうに見える。僕は、あわてて言った。
智樹「全然、そんなことないです。僕は、楽しいです。僕も、たまにお前の話は難しくて苦手だとか言われたりしますし。でも、僕は、そういう話とか、この前話した神話とか、そういう話をするのは好きなんで、上条さんと話ができるの、楽しいです。」
僕の言い方は、かなりしどろもどろで、きちんとした言い方にはなっていなかったけれど、そんな僕の言葉を聞いて彼女は薄く微笑んだ。
一葉「ありがとうございます。」
彼女はゆっくりとお辞儀をする。
智樹「あっ、いえ、こちらこそ。」
僕もお辞儀を返す。なんか気恥ずかしい。
智樹「それで・・・、日本の花は美しさと儚さを兼ね備えているという話でしたっけ?」
僕は、彼女の話の続きを促す。
一葉「はい。そうです。特に、日本の花の中でも、美しさと儚さを代表している花として、やっぱり桜は特別だと思うのですが、どうでしょうか?」
僕は少し考えてから応える。
智樹「そうですね。桜は、やはり日本を代表する花だと思います。桜の美しさは、特別だと感じられます。特に、あっという間に咲いて、あっという間に散っていくその一瞬が、その美しさを際立たせているのだと思います。」
僕は、桜の美しさは、目の前にいる女性に似ていると思った。口には出さなかったけれど。
一葉「それでは、今度会うときにでも、桜について少し語っても良いでしょうか?」
彼女は、いたずらっ子のように僕に尋ねる。その仕草があまりにかわいらしくて、僕は返答まで少し時間がかかってしまったけれど、ちゃんと応えた。
智樹「はい。喜んで。」
第二項
噴水の近くのベンチに僕らは腰掛けた。上条さんは、いつもの革製の手帳を広げた。
一葉「『万葉集』には、桜についての素敵な和歌がたくさんあります。」
智樹「万葉集ですか?」
一葉「『万葉集』は、7世紀後半から8世紀後半頃にかけて編まれた、日本に残っている最古の和歌集です。様々な身分の人たちが詠んだ歌が、4500首以上も集められています。『万葉集』の名前の由来については、たくさんの言葉を集めたものという説と、末永く伝えられるべき歌集だという説があります。」
僕は素直に感心した。
智樹「けっこうな量の歌が収められているのですね。」
一葉「そうですね。桜にまつわる歌を紹介しますね。」
そう言って、彼女は『万葉集』の歌を詠った。
嬢子らが 插頭のために
遊士が 蘰のためと
敷き坐せる 国のはたてに
咲きにける 桜の花の にほひはもあなに
[巻第八-一四二九]
彼女は、透き通った声で音を奏でる。
僕は彼女の声に耳を澄ませた。意味はぜんぜん分からなかったけれど。
智樹「どんな意味なのですか?」
一葉「少女たちが髪を飾る花のように、風流な人が髪飾りとする花のように、大君が治める国の果てまで咲いている桜の花が美しい、という意味です。」
僕は、日本の隅々まで咲き誇る桜の花を想った。たしかに、それはとても美しい光景だと思えた。不思議な気持ちだ。彼女といると、僕は不思議な気持ちになれる。
智樹「大君とは、天皇のことですか?」
一葉「はい。その通りです。」
智樹「『万葉集』の時代から、日本には桜が咲いていたんですね。」
一葉「はい。ただ、今の日本で見ることができる桜は、たいていはソメイヨシノ(染井吉野)ですが、当時は山桜が主でした。」
智樹「そうなんですか? 何か違うのですか?」
一葉「山桜は、バラ科サクラ属の落葉高木です。日本の野生の桜の代表的な種であり、和歌に数多く詠まれています。ソメイヨシノは、江戸の中期から末期の時期に、系統の違う二つの桜の交配で生まれたと考えられている種です。ソメイヨシノは種子では増えず、全国各地にある現在のソメイヨシノは、すべて人の手で、接木(つぎき)などで増やしたものです。いわゆるクローンですね。」
智樹「クローンですか。」
一葉「はい。ソメイヨシノは、現在の桜で最も多く植えられた品種です。桜の開花予想などは、ソメイヨシノの開花時期だったりします。観賞用としての代表種ですね。」
智樹「山桜とソメイヨシノ・・・。」
一葉「次の歌へ行きましょう。次は、桜と無常観を重ね合わせた歌です。」
そう言って、彼女は歌を詠う。
世間も常にしあらねば
屋戸にある桜の花の散れる頃かも
[巻第八-一四五九]
今度の歌は、何となく意味が分かる気がした。
智樹「世の中が移ろいやすいことについて、桜の花が散ってしまうことと重ねているように聞こえました。世の中が無常であり、桜の花も散ってしまうということでしょうか?」
一葉「世間も移ろうものですから、家に咲いている桜の花とて散っている頃でしょうと詠まれていますね。」
少し違ったか・・・。でも、そんなに外れてもいないかな。
智樹「桜の花って、こういう言い方が良いのか分からないのですが、無常観と良く合う気がします。」
一葉「はい。そうですね。私は桜の花が散るのを見ると、世の中は移ろって、いつまでも変わらないものはないのだなぁ・・・という気持ちになります。」
僕は、彼女の考えと自分の考えが近いことが分かって嬉しくなる。
智樹「そうですよね。そうなんですよ。桜の花が散るのは、美しいんですが、美しいからこそ、それが終わってしまうことに、何とも言えない感じがするんですよねぇ。」
僕は彼女を見詰めて笑った。彼女も静かに微笑んでくれた。
一葉「次の歌は、恋の歌です。」
桜花
時は過ぎねど
見る人の
恋の盛りと
今し散るらむ
[巻第十-一八五五]
恋について語られているのは分かるけど、詳しい内容までは分からなかった。
智樹「恋について、桜と結び付けて詠われているのですか?」
一葉「はい。桜の花はまだ散る時期になってはいないのですが、桜を見る人の恋しさの盛りが今だから散るのだろうか。そう詠っているのです。」
僕は不思議な印象を受けた。
智樹「人の感情が、桜の花が咲いたり散ったりするのに影響を及ぼすということでしょうか?」
一葉「日本には、言霊(ことだま)という考え方があります。言霊とは、言葉が事柄に及ぼす霊力のことです。日本人は古来より、言葉が事柄化することを重視してきました。『万葉集』には、言葉の魂が人を助ける国であると詠った歌もあります。」
言霊という言葉は聞いたことがある。その考え方は幻想的かもしれない。僕はちょっと笑ってしまった。
智樹「でも、それって、恋しさを歌に詠んだから、桜が散る時期より前に散ったってことでしょう? なんか、ぶっとんでる気がしますよね?」
そう言った僕を、彼女は不思議そうに見詰める。
一葉「どうしてでしょうか?」
智樹「えっと・・・。」
彼女は語り出す。
一葉「言葉は、事柄に影響を及ぼします。それは世界にとって基本的なことです。そのために、世界は心を認めるのです。」
僕は、表面上は平静を装いながらも、ひどく混乱していた。彼女は何を言っているのだろうだろう? 言葉が事柄に影響を及ぼすから、それが基本だから、世界は心を認める?
智樹「すいません。ちょっと意味が分かりかねているのですが・・・。」
彼女は、少し考え込んでから僕に語った。
一葉「佳山君。ちょっとそっちを見てください。」
彼女は、右、つまり僕から見て左を指さした。僕は、彼女の指さした方を向いた。
智樹「何ですか?」
一葉「何もありません。」
僕は、彼女の指さす方から、彼女の方へ視線を戻した。
智樹「どういうことですか?」
一葉「私の言葉が、佳山君に影響を及ぼしました。」
僕は彼女をじっと見詰めたのだけど、彼女はいたって真剣で、すこしもふざけた素振りはなかった。
智樹「それは・・・、そうですけど。それは、僕が人間だからですよ。」
一葉「人間だけでしょうか? いえ、佳山君は、人間なら言霊が妥当すると思っているのですよね?」
智樹「えっと、人間同士なら、言葉は影響を与え合いますよね。それを言霊と呼ぶなら、言霊は成り立つと思いますけど・・・。」
一葉「それでは、人間だけが言霊が成り立つのでしょうか? 例えば、犬や猫には成り立ちませんか?」
僕は少し言葉に詰まった。
智樹「それは、成り立つような気がしますが・・・。」
一葉「それでは、桜は?」
智樹「桜は・・・、違うと思います。桜は植物ですから。」
彼女はうなずいた。
一葉「佳山君は、動物には言霊があるけれど、植物にはないと考えているのですね?」
智樹「そう・・・、だと思います。というか、そうです。人が恋の歌を詠っても、桜の花は早く散ることはない・・・です。」
彼女は、またうなずいた。
一葉「そうですね。でも、私は恋の歌によって、桜の花は早く散ることがあると思っているのです。」
智樹「どういうことでしょうか?」
一葉「言葉が事柄に影響を与えるということは、言葉が通じ合うということです。それは、とても素晴らしいことです。では、なぜ、言葉は通じるのでしょうか?」
智樹「人間だから・・・じゃないんですか? それとも、日本語が理解できるからとか、そういうことでしょうか?」
一葉「少し違います。佳山君、なぜ、あなたは、私の言葉が通じるのでしょうか?」
今している会話はかみ合っていないから、通じていないのではないかと思った。
智樹「少なくとも、今の会話はあまり通じているとは思えません。僕には、上条さんの言っていることがあまり理解できていません。」
彼女は、ゆっくりとうなずいた。
一葉「そうですね。では、会話が通じているとか、あまり通じていないとか、なぜ佳山君は分かるのでしょうか? それは、佳山君が、私に心があると判断しているからです。」
僕はなぜか、まばたきを連続でしてしまった。
智樹「それは、そうですけど・・・。」
一葉「佳山君が私に心を認めてくれているおかげで、私と佳山君の会話は、かみ合ったり、かみ合わなかったりすることができるのです。なぜ、佳山君は、私に心を認めてくれているのですか?」
僕は、少し呆然としてしまった。彼女は、いったい、何を言っているんだ?
智樹「だって、そんなの・・・、当たり前じゃないですか・・・。」
一葉「ありがとうございます。」
彼女は僕にお礼を言った。お礼を言われて、こんなに不思議な気分になったのは生まれてはじめてだ。
智樹「いえ、こちらこそ。」
変な返ししかできなかった。
一葉「心が心を認めたとき、そのとき言霊が生まれます。そういうことです。」
智樹「そういうことですか・・・。」
おそらく、動物とか植物とかいう以前に、桜に心を認めているかどうかを彼女は問題にしているのだと僕は思った。僕は、桜に心を認めておらず、彼女は桜に心を認めていたということなのだろう。僕は、なんか釈然としない気持ちになった。
そんな僕の気持ちを知ってか知らずか、彼女はさらに続きを語る。
一葉「そして私は、桜が散る時期よりも早く散ったなら、それには理由があったと思うのです。恋の歌が詠われるなら、恋の歌によって、恋の歌のために、桜は早く散ったのです。」
僕は、ここであっさりと同意するべきなんだろう。それが、もてる男なんだってことも分かってる。でも、僕は、佳山智樹は、そういう人間ではないのだ。
智樹「でも、それは因果が逆転しています。」
言ってしまった・・・。
僕のその言葉に対し、彼女は応える。
一葉「そうです。因果の逆転です。お見事です。佳山さん。」
そう言って、彼女は薄く微笑むのだ。
虚を突かれ、僕は一瞬、またもや思考停止に陥る。沼の底から意識を引きずり出し、僕は絞るように声を出す。
智樹「僕を・・・、試していたのですか?」
彼女は真剣に僕を見詰めて言った。
一葉「いいえ。違います。試してなどいません。」
彼女は、はっきりとした声で僕に告げる。その声は、その言質が本物であることを僕に突きつけて納得させる。
智樹「では、どういうことでしょうか?」
彼女は、しばらく僕を見付けていた。僕も、黙って彼女を見詰めていた。しばらくして、彼女は語り出す。
一葉「因果の履行、そして、因果の逆転。この二つは、どのようにできあがるか分かりますか?」
僕は、思考を整理して答える。
智樹「それは、因果は世界の理(ことわり)として、そして因果の逆転は、思考の間違いとして・・・です。」
一葉「ある意味で、正しい答えです。」
彼女は、僕を見据えて述べた。僕は疑問を口にする。
智樹「ある意味とは、どういうことでしょうか?」
一葉「正しくは、因果の履行も、因果の逆転も、心が認識することによって可能になります。確かに、科学という特定の方法論に則った場合、因果の履行は真となり、因果の逆転は偽となります。しかし、心の認識という観点から考えるなら、因果の履行と因果の逆転は、ともにありえる二つの選択肢になります。」
僕は、彼女の言葉を頭の中で必死に反芻して考える。
智樹「ええと、あまり理解できていないのですが、因果の逆転は科学的には間違っていても、人間の心の上ではありえるということでしょうか?」
一葉「そうですね。もう少し正確に言うなら、認識論的にありえる選択肢に対して、正しいとか間違っているとか言うためには、何らかの価値判断を導入する必要があります。その一つに、科学という方法があるわけですが、科学そのものは、価値判断を原理的に行えません。そのため、科学は正しいという科学外からの判断を密輸入した場合に、因果の逆転は間違いだという判断が為されるのです。」
僕は、彼女の言っていることの半分も理解できていない。でも、科学的ということにこだわらなければ、因果の逆転はありえるし、それを楽しむこともできるのではないか? その程度のことは、僕にだって、彼女の話から理解できた、と思う。
智樹「正直、半分も分かっていないのかもしれませんが、興味深くはあります。科学というものにこだわらなければ、因果の逆転も楽しむことができるということですよね?」
そう言う僕を、彼女は少し遠い視線で眺める。
一葉「はい。そうですね。では、そろそろ次ぎの桜の歌へいきましょう。」
そう言って、彼女は歌を奏でる。
桜花
咲きかも散ると
見るまでに
誰かも此処に
見えて散り行く
[巻第十二-三一二九]
この歌の意味は、けっこう分かりやすいと思った。
智樹「桜が散ることと、人が散り散りになることをかけているのですか?」
一葉「はい。桜が咲いて散っていく様子を、その桜を見る人々が現れては散り散りに別れていく様子と重ねているのです。」
智樹「花見の風景なんか、そんな感じですね。」
一葉「そうですね。桜が散ると、人もそこから散って行くのですね。風情があると思います。」
智樹「もうすぐ、至るところで見られる光景ですね。」
彼女は、僕の意見に静かに微笑んだ。僕も彼女に微笑む。
一葉「次の歌は、桜と無常をからめた歌です。」
彼女は、歌を詠う。
世間は数なきものか
春花の散りの乱ひに
死ぬべき思へば
[巻第十七-三九六三]
死という単語が出てきて、僕は緊張する。
智樹「死と、散ることをかけているように思えます。」
一葉「はい。この歌では、世間が数え上げるほどもない儚いものだという考えが示されています。その上で、春の花が散るのにまぎれて死ぬべきことを思っているのです。」
智樹「死ぬことを思う・・・。」
彼女は、神妙な表情になった。
一葉「佳山くんは、死を考えることはありますか?」
その質問の唐突さに驚く。
智樹「いえ、あまり、考えたことはないと思いますけど・・・。」
一葉「では、世の中は儚いものだと思うことはありますか?」
僕は少し考えてから答えた。
智樹「世の中は、儚いものだと思います。そういった意味では、例えば、今日の話が終わって帰る途中で、僕が車にはねられて死ぬかもしれないわけですし。」
智樹「そうですね。人間、いつ死んでしまうか分かりませんものね。」
僕は、気になったことを聞いてみた。
智樹「あの、もしかして、こういうことを聞くのは失礼かもしれないのですが、過去に何かありましたか?」
彼女は、薄く微笑む。
一葉「いいえ、特には。ただ、私が、おかしなことを考えてしまうタイプの人間だというだけのことです。」
智樹「おかしなこととは思いませんが・・・。」
一葉「そうでしょうか? 花の散りと自らの死を重ねて考えてみる。この感性が、私は大好きです。でも、この感性は、今の日本人にはすでにほとんど失われていて、持っていることが奇妙に思われるようなものなのではないでしょうか?」
僕は、何と応えれば良いか判断に困った。
智樹「そんなことは・・・。」
一葉「ありませんか?」
智樹「難しいですね。そうかもしれないし、そうではないかもしれません。」
彼女は、少し考え込んだ。僕は、彼女が口を開くのをじっと待っていた。
一葉「佳山くん。江戸後期の俳句人に、小林一茶という人がいます。」
智樹「小林一茶ですか?」
一葉「ええ、一茶が桜を詠ったものがあります。」
そう言って、彼女は一茶が詠った歌を奏でる。
死支度致せいたせと桜哉
[七番日記]
智樹「死に仕度・・・。」
一葉「一茶の歌では、明瞭に桜と死というものが結び合わされています。何故、一茶はそんな歌を詠んだのだと思いますか?」
彼女は、僕の瞳を覗き込んだ。僕は、ゆっくりと考えてから答える。
智樹「自身の老いを認め、死を身近に感じ始めたから、といった理由でしょうか?」
一葉「そうかもしれません。」
彼女は静かに応える。僕は、疑問に思ったことを聞いてみた。
智樹「上条さんが重要だと考えている点は、死を身近に感じ始めた者が、死を語るのに何故、桜を持ち出し、桜と関連付けて死を語ったのか、ということですよね?」
彼女は僕の質問を聞いて、嬉しそうに言った。
一葉「そうですね。死を身近に感じた者が、死を桜と関連付けて語ったのです。桜の木そのものではなく、桜の花を一つの生命としてとらえ、それを自身の生命と関連付けたとき、桜の花が散ることは、自身の死と重なります。」
僕は、彼女の言葉にうなずく。
智樹「そうですね。そうだと思います。」
彼女は薄く微笑む。
一葉「次の歌にいきましょう。」
山峡に
咲ける桜を
ただひと目
君に見せてば
何をか思はむ
[巻第十七-三九六七]
彼女は、静かに語る。
一葉「山の谷間を埋める桜の美しさ。一日だけでもあなたにお見せできたのなら、何の物思いがあるでしょうか。」
彼女は、魔法を唱えた。その魔法で、僕は惑わされるのだ。
第三項
僕は、食堂で食事中の水沢を見つけた。今日は、水色系のショートパンツでカジュアルにまとめている。水色系は、水沢によく似合っていると思う。名字が水沢だし。
智樹「よっ。ここ、良い?」
水沢は、パスタを食べていた。
祈「いいよ。」
僕は向かいに座って、自分の持ってきたトレイを置いた。
智樹「なあ?」
祈「何かな?」
智樹「水沢は、和歌とか好き?」
水沢は、きょとんとした顔をした。
祈「何かな? 急に?」
それは、そうだろう。いきなり和歌を好きかどうか聞くのは、確かに変だと思う。
智樹「いや、別に。何となくだけど。」
祈「う~ん。なんか受験で頑張った気がするけど。」
智樹「そうだよなぁ。まずは、受験とか、そういう話になるよなぁ。」
祈「そういう話じゃないの?」
智樹「受験は終わったんで、その話はなしで。」
祈「そっか。」
そう言って、水沢は静かに食事をする。水沢は、楽しそうに食事をするし頭の回転もはやいから、一緒に食べるのは楽しい。
上条さんは、食事のときはどうなんだろう・・・。
祈「智樹くん。」
智樹「えっ、何?」
祈「何を考えていたの?」
智樹「え? 何が?」
祈「なんか、考えていたような気がしたから...。」
僕はびっくりする。
智樹「別に、なんでだよ。」
祈「なにか、他の人のこと考えていたような気がしたから。」
こいつは、エスパーか?
智樹「そんなことねえよ。」
僕は、トレイに乗っている豚肉の梅しそ巻きにがっつく。いつもはうまいのに、今は味を感じる余裕がない。
祈「そうかな?」
智樹「そうだよ。」
祈「なんか、ムキになっているところがあやしいな。」
智樹「そんなことより、明日の講義の宿題はやったのか?」
僕は、露骨に話題を変えたが、水沢は乗ってこない。
祈「智樹くんさぁ、文学部の子にでも惚れたのかな?」
僕は、一瞬言葉に詰まる。水沢は、話し続ける。
祈「だってさ、いきなり和歌とかって、文学部の女子とかが関係してそうな気配がありありだよね? なんとか話題をつくって、お近づきになりたいって魂胆じゃないのかな?」
うう、水沢も女だけに、勘がいろいろと鋭いなぁ。切れ味抜群...。
智樹「別に、文学部とか関係ないし。」
嘘は言ってない。上条さんが文学部とは聞いてないし。文学部かもしれないけど。
祈「あ、やっぱり女の人のことなんだ。」
智樹「何でそうなるんだよ?」
祈「だって、文学部は否定したけど、女の気配は否定してないでしょう? 文学部ではないかもしれないけど、気になる女の人ができたってことじゃないかな?」
水沢は、僕が思っているより遙かに鋭い女性なのかもしれない。嘘を吐くより、当たり障りのないことで誤魔化した方が良いかもしれない。
僕は内心ドキドキしながらも、表面上は平静を装って応える。
智樹「まあ、確かに、ちょっと上の学年の先輩と話して、ちょっと和歌とかの話題になったことは確かだけど・・・。」
祈「へえ・・・、誰かな?」
智樹「別に、ちょっと話した程度だよ。ほら、今って桜の季節じゃんか。桜の和歌について、その人が少し教えてくれただけっていうか・・・。」
祈「ふ~ん。智樹君は、そういう古風な感じの女性が好みなのかな?」
今日の水沢は、ずけずけと踏み込んでくる感じがする。
智樹「別に、そういうのが好みっていうわけじゃないけどな。ちょっと、和歌について語る人って珍しかったから、ちょっと聞いてみただけだろ。」
祈「まあ、和歌ではないけど、私はポエムとか書いたりはするかな。」
智樹「ポエム?」
祈「そう。」
智樹「どんな?」
祈「内緒。」
そう言って水沢は笑う。うっ、なんか気になる。
智樹「なんだよ。そこまで言ったんなら教えてくれよ。」
祈「女性の秘密を探ろうとするのは、感心しないな。智樹くん。」
微笑みながらそう言われると、引き下がるしかない。
智樹「そうだね。分かったよ。ごめん。確かに、ちょっと失礼だったよ。親しき仲にも礼儀ありだしね。」
祈「分かればよいのです。」
そう言って、水沢は何事もなかったかのように、ご飯を食べ続けた。
第四項
一葉「今日は、『古今和歌集』に収められている桜の歌を見ていきましょう。」
彼女は、革製の手帳を広げる。
智樹「前回の『万葉集』に引き続きですね。」
一葉「はい。『古今和歌集』は、平安時代前期の勅撰和歌集です。最初に編纂された勅撰和歌集ですね。」
智樹「すいません。勅撰和歌集って何ですか?」
一葉「勅撰和歌集とは、天皇の命によって編集された歌集のことです。まずは、『古今和歌集』の[春歌]に収められている桜の歌から見ていきましょう。」
彼女は歌を詠う。彼女の和歌の朗読は、とても心地良く感じられる。
春霞
たなびく山の
さくら花
うつろはむとや
色かはりゆく
[巻第二 春歌下 六九]
智樹「前半は分かりましたが、後半の部分がいまいち分からないのですが・・・。」
一葉「散り際に向かって桜の色が変わって行くという意味です。春の霞がたなびいている山に咲く桜。その桜の色が、散り際に向かって変わって行く光景が描写されているのです。」
僕は、散る間際に色を変え行く桜を想像した。それは、とても幻想的だ。
智樹「僕は、桜の花が満開のときや、花びらが散っているときなんかも好きなんですが、散る間際までは気にしたことはなかったです。」
一葉「普通はそうですよね。桜の花と一言でいっても、細かな時期の違いがあり、それらに注目すると、また新しい発見があります。『古今和歌集』には、この歌と前半が同じ歌があります。[恋歌]ですね。詠んでみますね。」
春霞
たなびく山の
さくら花
見れどもあかぬ
君にもあるかな
[巻第十四 恋歌四 六八四]
確かに前半は同じだ。だけど・・・。
智樹「やっぱり、前半は分かりますけど、後半が分かりません。」
一葉「桜の花は、いくら見ていても飽きることはないように、お逢いするあなたも見飽きることはないという歌です。」
そう言って、彼女は静かに微笑む。僕は、気恥ずかしくなる。
智樹「なんか、歌にのせて思いを伝えるっていうのは奥ゆかしいかと思いきや、けっこうストレートというか、はっきりとした気持ちを伝えている感じですね。」
一葉「そうですね。素敵な歌です。」
ここで気の利いたことの一つや二つ言えればいいのだけれど、僕は恥ずかしくなって次の歌をうながしてしまう。
智樹「次の歌は何ですか?」
一葉「次の歌は、桜が散ることそのものについて歌ったものです。」
気持ちが高ぶっている僕をよそに、彼女は落ち着いて語るのだ。
のこりなく
ちるぞめでたき
桜花
ありて世の中
はてのうければ
[巻第二 春歌下 七一]
智樹「どういう意味でしょうか?」
一葉「詠み人は、桜の花がきれいさっぱり散ってしまうのを素晴らしいと考えています。世の中というものは、いつまでもあれば、その果ては嫌なものになってしまうというのです。」
僕は少し驚いた。
智樹「桜が散ることが素晴らしいのは分かりますが、そのことと重ねて、世の中がなくなることを肯定しているのですか?」
一葉「そうですね。すごい歌だと思いませんか?」
僕はうなずいた。確かに、すごい歌だ。
智樹「正直、『万葉集』や『古今和歌集』など、昔の人が単純に花がきれいだとか、そんなことを集めているだけだと思っていました。お恥ずかしいですが。でも、とても深いですね・・・。」
彼女は微笑む。
一葉「深いですね。」
智樹「深いです・・・。」
僕らは、しばらく黙ってお互いを見詰め合っていた。
一葉「次は、無常観と桜を結び付けた歌です。」
彼女が語り出す。
空蝉の
世にもにたるか
花ざくら
さくと見しまに
かつちりにけり
[巻第二 春歌下 七三]
空蝉(うつせみ)・・・って聞いたことがあるような・・・。
智樹「空蝉って、どういう意味でしたっけ?」
一葉「空蝉というのは、蝉の抜け殻という文字を当てることで、この世や現に生きている人は儚いということを表しています。」
智樹「蝉の抜け殻のように、世の中やそこに生きている人は儚いという意味ですね。」
彼女は薄く微笑む。
一葉「そうです。その通りです。この歌は、桜は儚い世の中に似ていて、咲くかと思って見ている間に、もう片端から散ってしまったということを詠っているのです。」
智樹「桜がぱっと咲いて、あっという間に散っていくことを、無常な世の中に例えているのですね。」
一葉「はい。この桜の咲き散りと、世の中の無常を結び付ける感覚は、日本史を貫いて共有されていきます。世の中は儚いのですが、そう思うこと、つまり世の中は儚いと思うことそのものは、永くながく日本人の精神に刻まれてきたのです。」
そう言って、彼女は厳粛な表情になる。僕は、素直に感動した。ああ、彼女は素晴らしい女性だ。
智樹「いや、ほんと、勉強になります。」
僕の答えに、彼女は静かに薄く微笑む。
一葉「それでは、次の歌です。この歌は、百人一首にもあり、教科書にも載っていて有名です。」
久方の
ひかりのどけき
春の日に
しづ心なく
花のちるらむ
[巻第二 春歌下 八四]
確かに聞いたことがある。その内容までは、それほど真剣に考えたことはなかったけれど。
智樹「確か、教科書に載っていて見たことがあるような気がします。」
一葉「日の光ものどかな春の日に、落ち着いた気持ちもなく、桜の花が散っているようだという歌です。」
智樹「しづこころって、沈んだ心のことで、だから落ち着かないって意味ですか?」
一葉「残念。しづこころは、静かな心のことです。」
智樹「なるほど。」
そうか、静かな心で、落ち着いた心か。でも、そうなら不思議な感じもするな。
智樹「この作者は、桜が散っている様子を落ち着かないと考えているわけですよね。僕は、桜が春の日に散っていくのは、ある意味で落ち着いた風景の一つだと思うのですが・・・。」
彼女は、ゆっくりとうなずいた。
一葉「そうですね。桜の花が散っていくのは、桜の観賞の一つの醍醐味だと言えるでしょう。ですが、桜が満開に咲いている光景も、やはり素晴らしいものです。桜が散っていくというのは、その満開の光景が失われることを意味しています。桜の満開は、一瞬の出来事です。桜を楽しみにしている人からすれば、散っていくのは、やはり惜しいという気持ちがあるのでしょう。それが、桜の観賞に相応しいのどかな春の日であれば、散るのが早いと思うのも無理のないことだと思います。その気持ちが、桜が落ち着かずに散っていくという感慨になったのではないでしょうか?」
僕は彼女の説明をじっと聞いていた。確かにその通りだと思った。
智樹「そうだと思います。桜の散る風景というのは、見る人によって、落ち着いた風景と見えたり、落ち着かない風景と見えたりするのですね。なんか不思議ですね。」
彼女は、ゆっくりとうなずいた。
一葉「はい。そこには、人の心が関係してきます。小野小町の歌に、人の心と花を重ねて詠ったものがあります。」
そう言って彼女は、小野小町が詠った歌を奏でる。
色見えで
うつろふものは
世の中の
人の心の
花にぞ有りける
[巻第十五 恋歌五 七九七]
世の中とか、人の心とか、花という単語が並んでいる。
智樹「どういう意味でしょうか?」
一葉「色には見えずに移り変わるものは、この世の中の人の心という花であったという歌です。」
僕は、少し考える。
智樹「人の心が移ろうことを、花が姿を変えることに例えているということですか?」
一葉「というよりも、人の心は花であるということですね。」
僕は、彼女の言うことが全部は分からなかったけれど、なんとなくは分かるような気がした。
智樹「人の心は、花・・・。」
一葉「小野小町の歌で、私が好きな歌に、こういう歌もあります。」
上条さんが小野小町の歌を詠う。確か小野小町は、絶世の美女だと伝えられていたはずだ。絶世の美女が残した歌を、上条一葉という美女が詠う。その歌を聞く僕。今の僕は、とても素敵な場所に居るのだと思う。
世の中は
夢かうつつか
うつつとも
夢ともしらず
有りてなければ
[巻第十八 雑歌下 九四二]
僕は、彼女の歌に耳を澄ませた。彼女は、優しく歌の解説をしてくれる。
一葉「この世の中は、夢なのか、それとも現実なのか。世の中が現実なのか夢なのか私には分からない。存在するようで、また存在しないのだから・・・。」
彼女の語る言葉を聞きながら、僕は古(いにしえ)の呪文に思いを馳せたのだった。
第四節 桜の木の下には へ進む
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