『思想遊戯』第一章 第四節 桜の木の下には
桜の樹の下には屍体が埋まっている!
梶井基次郎『桜の樹の下には』より
第一項
上条さんは不思議な人だと思う。
あれだけの美貌もさることながら、博識というか、色々と知っている。勉強ができるとかそういうことではなくて、何か深いものを、一般の人には見えていないものを観ているのだと思う。僕も物事について色々と考え込んでしまう方だと思うけれど、正直言って、彼女と比べるとレベルが低かったと感じざるをえない。
僕は彼女のことを知りたいと思う半面、彼女の奥深さに少し怖さを感じるときもある。それでも僕は、怖いもの見たさもあって、彼女に会いにいくのだ。
智樹「桜が咲いて来ましたね。」
僕は、ベンチで本を読んでいる上条さんに声をかける。
一葉「そうですね。」
彼女は、読んでいた本から目を離して僕の方を向いた。
智樹「今日は、何を読んでいるのですか? あっ、となり座っても良いですか?」
一葉「はい。どうぞ。」
彼女は笑って、ベンチのとなりのスペースを許してくれる。このささいなやり取りが、僕にはとても嬉しく感じられる。
彼女は本を僕に見せながら言う。
一葉「今日は、梶井基次郎の『檸檬』を読んでいました。」
智樹「おもしろいですか?」
一葉「この中には、『桜の樹の下には』という題名の話が収められています。」
ゆるやかな風が、僕と彼女の髪を揺らした。
智樹「それは、今の季節にぴったりですね。」
一葉「そうかもしれません。でも、多分、佳山くんが想像しているのとは違うと思いますよ。」
僕の想像・・・。桜の咲く季節に、噴水のベンチで美人が『桜の樹の下には』という題名の本を読んでいる。これは、とてもロマンチックというか、素敵なことだと思う。
智樹「どう違うのでしょうか?」
一葉「桜の樹の下には屍体が埋まっている。」
智樹「はっ?」
僕は、変な声を出してしまった。彼の言葉に、僕は一瞬世界から隔離された。
一葉「桜の樹の下には屍体が埋まっている。」
彼女は、同じ言葉を、少しゆっくりとはっきりと言った。
智樹「・・・・・・それは、何ですか?」
一葉「『桜の樹の下には』という作品は、桜の樹の下には屍体が埋まっていることを曝いている話なのです。」
彼女は静かに僕を見据えて言った。僕は恐る恐る尋ねる。
智樹「どうして・・・、桜の樹の下には屍体が埋まっているのですか?」
一葉「桜の樹の下には屍体が埋まっている。梶井は、その理由を次のように述べています。」
彼女は本を開いて、その内容を語る。
桜の樹の下には屍体が埋まっている!
これは信じていいことなんだよ。
何故って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。
俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だった。
しかしいま、やっとわかるときが来た。
桜の樹の下には屍体が埋まっている。
これは信じていいことだ。
彼女は厳かに言葉を紡ぐ。僕は、黙ってその言葉を聞く。
一葉「これは、別に科学的根拠とか、そういう話ではありません。桜が美しい理由を、屍体が埋まっているからだという幻想に求めた一種の空想です。梶井は、次のような言葉も述べています。」
智樹「どんな・・・ですか?」
一葉「〈俺には惨劇が必要なんだ。その平衡があって、はじめて俺の心象は明確になって来る〉と。」
智樹「惨劇・・・。」
一葉「他にも、こういう言葉もあります。〈一体どこから浮んで来た空想かさっぱり見当のつかない屍体が、いまはまるで桜の樹と一つになって、どんなに頭を振っても離れてゆこうとはしない〉と。」
智樹「頭を離れない・・・。」
僕は、混乱しているのを自覚した。彼女は、何の話をしているのだろうか?
彼女は、とても素敵な笑顔で僕に尋ねる。
一葉「桜は何故うつくしいのでしょうか? その答えは、桜の樹の下には、屍体が埋まっているからだというのです。ねえ、佳山くん。素敵な話だと思いませんか?」
そのとき、僕の背筋に走ったものを、何と名付けたら良いのだろうか。
智樹「素敵な・・・話・・・ですか?」
一葉「おそらくこの話の桜は、ソメイヨシノのことだと思います。今、校内に咲いている桜も、ほとんどがソメイヨシノです。」
桜には、大きく分けて山桜とソメイヨシノがある。僕は、以前の上条さんとの会話を思い出していた。
智樹「確か、ソメイヨシノはクローンでしたっけ?」
一葉「そうです。接ぎ木ですね。ソメイヨシノは、山桜とは違う妖しさを備えていると思います。ソメイヨシノは、種子ではなく、接ぎ木で増えるため、その代償を必要とします。それは、人の屍体です。人の屍体を養分として、ソメイヨシノは美しい花を咲かせるのです。」
そう言って、彼女も静かに妖しく微笑むのだ。
ああ、その笑顔はやめてほしい。そんな笑顔を向けられたら、僕は気が狂ってしまう。彼女の言葉を真実と認識してしまう・・・。
智樹「うろ覚えですが、確か、桜の下で死にたいというような和歌があったような気がします。」
彼女は嬉しそうに静かに微笑む。
一葉「西行ですね。『新古今和歌集』に収められている歌です。」
智樹「『新古今和歌集』って、こないだの『古今和歌集』の次のやつですか?」
一葉「少し違います。『古今和歌集』の次ではなく、八代集の最後を飾る作品です。『古今和歌集』を範として、八代集の最後を飾るのが『新古今和歌集』です。」
智樹「八代集とは?」
一葉「古今・後撰・拾遺・後拾遺・金葉・詞花・千載・新古今の八つの和歌集のことです。日本人は、古来より歌を詠うのがたいへん好きだったことが分かります。」
智樹「和歌の歌集って、そんなにあるのですか?」
一葉「たくさんあります。『新古今和歌集』の後も続いて行き、勅撰和歌集は二十一になります。総称して二十一代集と言います。和歌は想いを詠います。それが日本人の心の歴史を紡いで来たのです。」
想いを詠うこと。彼女の言葉は僕の心に染み入る。他人の言葉に素直にうなずくことが苦手な僕が、彼女の言葉には不思議と引き込まれる。彼女が美人だからというのもあるとは思うけれど、やっぱり、彼女の考え方が深いからだと思う。彼女の言葉が深い意味を持っていること、それを僕は求めてしまう。
智樹「それで、ええと、桜の下で死にたいっていう歌は?」
一葉「西行という人の歌です。いいですか?」
僕はうなずいて、彼女の歌を聞く。
願はくは
花の下にて
春死なむ
そのきさらぎの
望月の頃
(巻第十八 雑歌下 一九九三)
智樹「素敵な歌ですね。ところで、きらさぎって、いつのことでしたっけ?」
一葉「如月とは、旧暦の二月のことです。私の願いは、如月の満月の春に、桜の下で死ぬことだという歌ですね。」
智樹「二月って、まだ桜は咲いてないのでは?」
一葉「如月は旧暦の二月ですから、今の暦に直すともう少し春よりですね。」
智樹「ああ、そっか・・・。確かに。恥ずかしいですね。」
一葉「ここで詠われている歌は、おそらく山桜です。桜の下に"死"という言葉が出てくる場合でも、山桜とソメイヨシノでは、少し違う印象を私は受けるのです。」
智樹「どういう違いでしょうか?」
彼女は、少し考え込んでから応えた。
一葉「うまくは説明できませんが・・・。」
智樹「聞きたいです。」
僕は彼女にお願いをする。
一葉「和歌に詠われる山桜は、死ぬのならそこで死にたいと日本人に思わせる力があるように感じられるのです。それに対して、ソメイヨシノは、その美しさに狂気を感じるのです。その美しさは、屍体を養分として花を咲かせるためではないかと。」
智樹「それは・・・。」
一葉「そう。一種の空想です。屍体の養分などなくても、ソメイヨシノは美しい花を咲かせることができます。でも、接ぎ木のために、すべてのソメイヨシノは一斉に咲いて一斉に花を散らします。その瞬間的な美しさを思うとき、そういった空想は不思議な説得力を持つように思われるのです。」
僕は、彼女の言葉にうなずいた。
智樹「確かに、そう思う気持ちもなんとなくですが、分かります。そもそも土って、動物や植物などの生物の死骸を、微生物が分解して出来たものですもんね。そういった意味でなら、花は、死骸の養分によって花を咲かせると言えますしね。」
彼女も僕の言葉にうなずく。
一葉「食物連鎖の過程に、ある植物は花を咲かせるわけですね。でも、そう考えると、やっぱり不思議です。なぜ、花は、人間にとって美しいのでしょうか?」
彼女は、疑問を投げかけた。この疑問はもっともだと思った。僕は、かなりおかしなことを思いついてしまった。
智樹「花が美しいことの理由を求め、人は、空想するわけですね。そこに狂気が入り交じる。屍体を糧にして咲く桜の花。それは、狂おしく美しい幻想だと僕も思います。それなら、変な想像をしてしまったのですが、桜の下に屍体を埋める人が必要ですよね?」
彼女は、面白そうに静かに微笑む。
一葉「そうですね。桜のために、桜の下に屍体を埋める人の話。その話は、おそらく悲劇的で、ちょっぴり切ないお話になりそうですね。」
僕は、その話に想像を働かせる。
智樹「確かに、悲劇的なおとぎ話になりそうです。例えば、そうですねぇ。主人公は医者なんかにして。それで、その医者は良かれと思って、死んだ患者を墓ではなく、夜な夜な桜の下に埋めるんです。そうすると、その桜はとても綺麗な花を咲かせてみんなが喜ぶ。でも別の登場人物が、その医者の行為を見つけてみんなに知らせてしまうんですね。その医者は逮捕されて、桜の下に屍体を埋める人はいなくなる。それで、桜は花を咲かせなくなる。そういう話を思いついたんですか、どうでしょうか。」
彼女は静かに微笑む。
一葉「おもしろい話です。その医者の行為を見つけてしまう人物は、その人の恋人という設定ではどうでしょうか?」
僕は、驚くと同時に、素直に感心してしまう。
智樹「それは、良い設定ですね。それだと、物語の最後で恋人は思い悩むわけですね。私のしたことは正しかったのか、と。」
彼女は、僕を見詰めて言った。
一葉「もし、私が夜な夜な桜の下に屍体を埋めていると言ったら、佳山くんはどうしますか?」
僕は、おもわず彼女を見詰め返す。
智樹「どういうことですか?」
一葉「いえ、ただ、聞いてみたいと思っただけです。」
智樹「上条さん。もしかして、やっぱり何かありましたか? 別に最近でなくても、今までの人生の中で。」
彼女は静かに微笑む。
一葉「いいえ。特に何も。ただ、私は、そういう変なことを考えてしまう質(たち)なのです。」
そんなことを言って、はかなく笑う彼女に僕は何と言えばいいのだろう。そのとき、僕の口から、自分でも驚く答えが発せられた。
智樹「僕は、夜な夜な屍体を埋める上条さんを見つけたら・・・、きっと手伝います。だって、屍体って重いし、思いものを担ぐのは男の役割ですから。」
僕は、できるだけ良い笑顔を作ろうとしてみた。できていた自信はないけれど。それを聞いて、彼女は静かに微笑んでくれた。
智樹「佳山くん。私のことは一葉(かずは)でいいですよ。私の方は、智樹くんと呼んでいいですか? ちゃんとしたお友達になりましょう。」
僕の胸にあついものがこみ上げてくる。
智樹「よろこんで。ええと、一葉・・・さん。」
そう言って、僕は手をさしだした。
一葉「これからよろしくお願いしますね。智樹くん。」
彼女は僕の手を握った。僕らは、友人になるための握手を交わした。
第二項
祈「智樹くん。花見でもしないかな?」
授業の後、水沢に誘われた。
智樹「いいよ。ちゃんとしたやつ?」
祈「そこまでちゃんとしてなくても...。コンビニで飲み物でも買って、ちょっと歩かないかな?」
僕はうなずいた。学内のコンビニで飲み物やらなんやらを買って、僕と水沢は校内を出て歩きはじめた。大学近郊にはたくさんの桜が埋められているから、この季節は美しい光景が続いている。僕らは、近くの公園にある比較的人通りの少ないベンチに腰掛けた。桜は、満開の一歩手前といった感じだけれど、鑑賞するにはまったく問題ない。
智樹「今日は、白系でまとめているね。春だから?」
祈「智樹くんが服に注目するって、どうしたのかな?」
水沢はちゃかした答えを返してきた。悪かったな。服にコメントするとか、らしくないことして。
僕らは買ってきた缶を開けて、軽く当てて乾杯をする。
智樹「どう、大学生活もそろそろ馴れてきた?」
祈「まあまあかな。智樹くんは?」
智樹「うん。俺もまあまあかな。でも、不思議だよね。水沢とは、高校時代はあんまり話したことなかったけれど、大学が一緒になって割とよく話すようになった感じだもんな。」
水沢はうなずいた。
祈「そうだね。智樹くんは、高校のときとあんまり変わらない感じだけどね。」
智樹「そうかな? そうかもなぁ...。別に何かを変えようとかしてないしなあ。別に大学デビューも狙ってないし。」
祈「まあ、そんな感じはするね。」
僕は持っていた缶を傾ける。良い気分になってきた。
智樹「そういえばさ、水沢はさ、桜の樹の下に屍体が埋まっているって話、知ってる?」
水沢は僕を見た。
祈「何かな? 怪談? 大学生にもなって、学校の七不思議ってこと?」
僕は、水沢に何と説明したものかと考えていたけど、そういう方向で考えてくれるなら、それはそれでありかと思った。
智樹「まあ、一種の怪談だな。桜が綺麗な花を咲かせるのは、桜の下に屍体が埋まっていて、その養分を吸っているからだって話。」
水沢は、おもしろそうに言った。
祈「何それ? ホラー? ゾンビ? 桜の下にタイムカプセルとか埋めようとしたら、屍体が出て来るの? タイムカプセルとか埋めようとした小学生が、屍体を見つけちゃってトラウマって話かな?」
僕は、その光景を想像して、苦い顔をする。
智樹「確かに、それは壮絶なトラウマだな・・・。」
祈「屍体は、誰かが埋めたの?」
智樹「桜を綺麗に咲かせようとした人が埋めたんじゃない?」
水沢は面白そうに笑う。
祈「それは違うでしょう。むしろ、人殺しが殺人を隠そうとして、桜の下に埋めたのじゃないかな? だけど、その年の桜の花が綺麗すぎるって噂になって、あわてて掘り起こしたところを見付かって逮捕、みたいな?」
僕は感心した。
智樹「その話、おもしろいな。」
祈「おもしろくないよ。変な話をさせないでよ。」
智樹「悪い。でも、もしかして水沢って、ホラー系好きとか?」
水沢の感性は、一葉さんとも違っていて面白い。水沢は、横を向いてから応えた。
祈「えっと...、違うっていうか...。友達に誘われて、少しなら見たことがあるというか...。」
僕は、おかしくなった。多分、水沢はホラー系統が好きなタイプだな。ニヤニヤしていると、水沢はこっちを見て言ってきた。
祈「それで?」
水沢は僕をじっと見た。
智樹「それで、とは?」
祈「だから、桜の下に屍体が埋まっているとか、どこから持ってきたネタかなって。この前、話題になった新しい女の人?」
僕は、どう答えたら良いか分からなかったので、素直に肯定した。
智樹「まあ、そうかな。」
祈「ふ~ん。で、どうなのかな?」
水沢は、興味なさそうに聞いてきた。
智樹「別に、単なる友達だよ。ただ、考え方がおもしろいから、色々と話を聞いていると楽しいことは楽しいけど。」
祈「どんな人なのかな?」
僕は、しばらく悩んだ。なんて説明すれば良いんだ?
智樹「難しいなあ。ある意味で、変わった人だよ。それよりもさあ、水沢はどうなんだよ?」
祈「私?」
水沢はキョトンとした、ように見えた。
智樹「水沢ってさあ、高校のときとか、けっこうモテてたみたいじゃん。」
水沢は、少し赤くなった。
祈「な、なに。急に。」
僕はおもしろくなった。
智樹「いや、だって、水沢が告白されたとかいう話、聞いたことあるぜ。」
水沢は、また少し赤くなった。
祈「な、なんで智樹くんがそんなこと知ってるのよ?」
智樹「いや、だって、聞いたし。」
祈「何、聞いてるのよ。というか、誰に聞いたのよ?」
僕は少し困った。
智樹「いや、水沢の仲良かった友達に、橘さんっていたじゃん。橘さんと同じクラスになったとき、隣の席になったことがあったでしょ? そのときに色々と聞いたんだよ。聞いたというか、聞かされたというか・・・。」
水沢は、むくれた顔をした。
祈「それで、どんな風に聞いているの?」
智樹「どんな風って?」
水沢は、声を大きくして言った。
祈「だから、どんな感じで智樹くんがその話を聞いたか訊いているの!」
水沢があわてている・・・。
智樹「いや、バレー部の部長だっけ? けっこう人気のあったやつに告白されたのに、水沢が振ったって、けっこう有名な話だったと思うけど。」
水沢は、なんか、怒ってる? まあ、過去の恋愛話は恥ずかしいか・・・。
祈「それで、智樹くんはどうしたのよ。」
その顛末について、僕は言わないことにした。必要もないし。
智樹「どうしたって、どうもしないけど・・・。」
祈「じゃあ、なんで聞いたのよ。」
智樹「聞いたっていうか、聞かされたっていうか。そもそも水沢と俺って、高校時代はそんなに接点なかったじゃん。あの当時の水沢って、今とちょっと印象が違って、おとなしめで清楚な感じがしてたし、もてそうだなとは思ってたけど。」
水沢は、立ち上がってうろうろしだした。
祈「なによ、それ...。」
智樹「いや、なんだと言われても・・・。」
祈「いい!」
水沢は、僕をにらんで言った。
智樹「はい。何でしょうか?」
なぜか敬語になる僕。
祈「私は、高校のときとは違うの。あのときの私とは違うの。今は、智樹くんの目の前にいる私が私なの。分かった?」
僕は、さっぱり分からなかったが、とりあえず、うなずいた。
智樹「あっ、はい。分かりました。」
第三項
前回、僕は一葉さんと正式に友達になった。なんか、おかしな友達のなり方だったと今でも思う。まあ、それはともかく、せっかく友達になったので今日も会いに行くのさ。前回、また話そうとちゃんと約束したし。
僕がいつもの噴水のベンチへ行くと、一葉さんが誰かと話をしていた。話が終わるまで待っていようか迷ったけど、話が長くなりそうな気配なので声を掛けてみた。
智樹「こんにちは。」
一葉さんと、先輩らしき男性がこっちを振り向いた。うっ、眼鏡が知的な男性だ。美男美女の組み合わせになってるし。僕は場違いか?
一葉「こんにちは。」
一葉さんが、僕に挨拶を返した。それから、その男性の方を向いて僕を紹介してくれた。
一葉「この間、少し話したでしょ。彼が智樹くん。」
その男性は、僕の方を見た。
???「ああ、君が佳山くんか。俺は滝嶋(たきしま)。よろしく。俺は三年だけど、君は?」
智樹「あ、一年の佳山です。よろしくお願いします。」
僕は軽く会釈をする。
智樹「あの、前回また話そうって約束してたんですけど、お取り込み中なら、また今度ってことで。」
僕は、微妙な空気を感じて、ここは一端引き下がろうとした。
一葉「いいえ、お話ししましょう。」
一葉さんは、僕を引き留めた。
滝嶋「へえ、どんな話をするの?」
智樹「ええと、桜の話とかです。和歌とか、日本神話とか。」
僕は、落ち着いた振りをして応えた。
滝嶋「ふ~ん? まあ、先約があるならいいや。上条、この件については、また今度にでも話そう。」
一葉「面白い内容でしたら。」
一葉さんが軽く会釈をすると、滝嶋さんは、「じゃあ」と言って去っていった。
智樹「よかったんですか?」
一葉「どうしてですか?」
智樹「いえ、別に・・・。」
一葉「ひとまず、座りましょう。」
智樹「あ、それなら、今日はカフェにでも行きませんか?」
一葉「そうですね。行きましょうか。」
僕らは、校内のカフェへと移動した。僕はアールグレイで、彼女は抹茶ラテを頼んで店外の席に着いた。少し遠いけど、桜も綺麗に咲いているのが見える。今日の話題として、滝嶋さんの話をこれ以上引っ張るのは得策ではないと判断し、さっそく桜の話題を振ってみる。
智樹「今日は、随筆に見る桜の話でしたね。」
一葉「そうですね。まずは『枕草子』から行きましょうか。」
智樹「『枕草子』というと、清少納言ですね。」
彼女は、うなずきながら革製の手帳を広げる。
一葉「清少納言は、〈桜は、花びらおほきに、葉の色濃きが、枝細くて咲きたる〉と記しています。桜は花弁が大きく、若葉の色は濃いけど枝が細く見える程度に咲いているのが良いということですね。」
智樹「なんか、直球ですね。」
一葉「私もそう思います。では、変化球というわけではないですが、『枕草子』とは違った視点として、次は『徒然草』の記述を見てみましょう。」
そう言って、彼女は手帳をペラリとめくる。
智樹「『徒然草』は、たしか兼好法師でしたね。」
一葉「『徒然草』の桜と言えば、やはり第百三十七段です。さわりの部分を、ちょっと読んでみますね。」
花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは。
雨にむかひて月を恋ひ、たれこめて春のゆくへ知らぬも、なほあはれに情け深し。
咲きぬべきほどの梢(こずゑ)、散りしをれたる庭などこそ見所多けれ。
智樹「なにか、受験勉強で聞いたことがあるような気がします。」
一葉「有名な箇所ですからね。桜の花は満開の様子を、月はかげりのない様子のみを鑑賞すべきだろうかという問いかけです。その上で、雨を見ながら見えない月を恋しく思い、部屋に閉じこもって春が暮れていくのを知らないでいるのも、いちだんと感銘があって趣深いと述べているのです。開花間もない梢や、しおれた花びらが散って敷き詰められた庭などにこそ見所があるとも語られています。」
智樹「すごい意見ですね。直接に桜や月を見るより、間接的に見たり、それどころか見なかったりする方が、より情緒があるという意見ですよね?」
一葉「はい。たしかに、すさまじい意見ですよね。」
そう言って、彼女は面白そうに微笑む。
智樹「でも、花びらが散って、庭一面が散った桜の花びらに覆われている光景というのは、たしかに素晴らしいでしょうね。この着眼点は、さすがだと思います。」
僕は、その光景を想像して高揚した。
一葉「確かに、趣のあるお寺などで、そのような光景を見ることは最高に贅沢なことだと思います。」
彼女が僕に微笑んでくれて、僕は嬉しくなる。僕は、彼女に素直な感想を告げる。
智樹「でも、日本人の感性って、昔からすごいですよね。たしか『古今和歌集』にも、散る間際の桜を称えた歌がありましたよね? 色々な角度というか、視点をかえて桜を見ることで、それぞれに風情を見つけることができるんですねぇ...。」
僕はしみじみと言った。彼女はうなずいてくれる。
一葉「『徒然草』では、風流でない人に限って、この枝もあの枝も花が散って、見るべきところがなくなってしまったと言うのだと指摘されています。風流な人は、桜が散ったなら、散ったなりに風情を楽しむということですね。」
智樹「なるほど。」
彼女は、まじまじと僕を見て言った。
一葉「智樹くんは、感性が成熟しているように思えます。」
僕は、自分の顔が赤くなるのを感じた。
智樹「そうですか? 自分では、そんなことはないと思うんですが。」
彼女は、また手帳をパラパラとめくった。
一葉「谷崎潤一郎の『細雪』という小説の一説に、桜の歌を感じることについて書かれた箇所があります。」
僕はうなずいて、彼女が読む文章を静かに聞いた。
古今集の昔から、
何百首何千首となくある桜の花に関する歌、
―――個人の多くが花の開くのを待ちこがれ、
花の散るのを愛惜して、
繰り返し繰り返し一つことを詠んでいる数々の歌、
―――少女の時分にはそれらの歌を、
何と云う月並なと思いながら無感動に読み過して来た彼女であるが、
年を取るにつれて、
昔の人の花を待ち、
花を惜しむ心が、
決してただの言葉の上の「風流がり」ではないことが、
わが身に沁みて分るようになった。
僕は静かに彼女の声に耳を傾ける。
智樹「良い文章ですね。」
僕がそう言うと、彼女は静かにうなずいてくれた。
第四項
また話をする約束を交わして、僕は一葉さんにさよならを言った。
彼女は、飲み終わった容器をゴミ箱に捨てて去って行った。僕は、去って行く彼女の後ろ姿をさりげなく眺めた。
桜が美しく咲いている。桜と、遠ざかる彼女の後ろ姿を僕は交互に見詰める。桜を見る視点は無数にありえる。それらの視点の違いによって、異なる風情を感じることができる。このことは、とても素敵なことだと思った。
桜の樹の下には屍体が埋まっている・・・。
不意に、僕の脳裏にこの言葉が浮かび上がった。
桜の樹の下には屍体が埋まっている・・・。
散る桜。桜の花びらは、ある意味で屍体だ。
桜は、生物の死骸である土から養分を吸い込み、花びらという屍体を舞い散らせる。花びらは散り、一面が花びらに覆われている地面とは、すなわち屍体で覆われている大地。
僕は一体、何を考えているのだろう。僕は一葉さんと話すことを通じて、今までになかったものが、自分の中に生まれてきたことを自覚する。
それは、たぶん、きっと、狂気と呼ばれるものだろう。
僕は彼女と関わることで、自分の中にも狂気が隠れていたことを認識させられたのだ。
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