『思想遊戯』第一章 第五節 散る桜
散る桜 残る桜も 散る桜
良寛の句より
第一節
桜の満開が過ぎ、桜の花びらが舞い散る。
僕は、図書館で本を読んでいた。ニーチェの『ツァラトゥストラはこう言った』という哲学書だ。日本語訳はたくさんあるみたいだけど、僕が今読んでいるのは手に入りやすい岩波文庫のものだ。
高校時代の倫理の授業で、僕は世界の思想家が考えて来たことを知った。もちろん、漠然とだけれども。倫理の授業は、僕にとってはとても面白かった。大学に入ったら、ちゃんと自分で調べてみたいと思っていた。そんなわけで、気になった哲学者の本を読んでみたりしているわけだ。
『ツァラトゥストラはこう言った』の上巻を読んで、今は下巻に突入している。正直言って、ツァラトゥストラが何か変なことを喚いていることは分かったけれど、ツァラトゥストラが何を主張しているのかは分からなかった。ニーチェは、何を言いたくてこの本を書いたのだろうか?
この本は四部構成で、第三部まではよく分からなかったのだけど、なんとか頑張って読み進めた。だけど第四部に入ると、とたんに読みやすく面白くなってきた。特に、[最も醜い人間]という箇所に、僕は引き込まれた。
最も醜い人間は、登場人物として物語に出て来る。彼は、ツァラトゥストラへ謎を投げ掛ける。
ツァラトゥストラ!
ツァラトゥストラ!
わたしの謎を解いてみよ!
言うがよい、言うがよい!
目撃者への復讐とは、何だろう?
最も醜い人間は、ツァラトゥストラに対し、自分が何者かと問い詰める。
ツァラトゥストラは、同情に襲われて倒れる。しかし、ツァラトゥストラは立ち上がり、そいつの正体が読めたことを告げる。ツァラトゥストラは・・・。
一葉「あれ、智樹くん。」
一葉さんが、僕を見つけて声を掛けてきた。彼女は白いワンピースを着ていて、それは彼女にとても良く似合っていた。
智樹「あっ、こんにちは。」
一葉「何を読んでいるの?」
僕は、読んでいた文庫本の表紙を彼女に見せる。
一葉「ニーチェ・・・。ツァラトゥストラ・・・は・・・こう言った・・・。」
彼女は、本を見詰める。
智樹「一葉さん?」
彼女は、いつもよりも低い声で述べた。
一葉「ニヒリズム。」
ニヒリズム? 彼女はニヒリズムと言った。倫理の時間に、習った記憶がある。確か、19世紀末のヨーロッパにおいて、人間が卑小化し、生の意義を失った状況のことだったと思う。日本語でいうと虚無主義だったかな。
智樹「虚無主義ですね。」
一葉「虚無主義・・・。ニヒリズム・・・。」
彼女は、どこか虚ろな感じで言葉を並べる。
智樹「一葉さん? どうしましたか?」
彼女は、少し考え込んでいる様子を見せる。
一葉「智樹くん。読書中みたいですが、桜も綺麗ですし、良かったら少しお散歩しませんか?」
彼女は静かに僕に微笑む。僕はうなずく。
智樹「よろこんで。」
第二節
僕と一葉さんは、並んで校内を歩く。一葉さんは少し早歩きで、僕は彼女の後を付いていく形になる。彼女から散歩に誘われたので、僕は自分からは話題を振らずに、彼女が話しかけてくれるのを待っていた。
しばらく歩き続けたけれど、彼女は何も話さずに歩く。僕は、少し不安になる。僕から何か話しかけようか迷っている内に、学内でも比較的大きな桜の場所までやってきた。桜は、もうかなり散ってしまっている。彼女は振り返り、僕を見た。
一葉「智樹くんは、虚無感に襲われるとき、ありますか?」
彼女は僕に問いかける。
智樹「どうでしょうか・・・。たまにはあると思いますけど。」
一葉「それは、どんなときでしょうか?」
今日の一葉さんは、どこか妖しい気配がする。
智樹「えっと、疲れたときとか...。」
一葉「そうですね。」
彼女は静かに妖しく微笑む。
智樹「一葉さん?」
一葉「智樹くん。ニヒリズムって、何でしょうか?」
僕は、自分の記憶を探りながら答える。
智樹「たしか、19世紀のヨーロッパで、人間が卑小化して、生の意義を失った状況のことだったと記憶していますが・・・。」
一葉「そうですね。智樹くんは、ニーチェとか好きなのでしょうか?」
僕は、なんと答えたらよいのか迷ったけれど、素直に思ったままを語った。
智樹「高校のとき、倫理の授業があるじゃないですか? 僕は倫理の授業が好きで、そのときにニーチェとか、ソクラテスとか習って、大学に入ったら色々と読んでみようと思っていたんです。ニーチェって、にわかな知識ですが、神は死んだとか言って、なんか格好良いなとかは思っていたんで・・・。」
彼女は僕の答えを聞き、少し考え込んだ。
一葉「智樹くん。桜が散っていますね。」
僕は、虚を突かれた。
智樹「・・・ええ、そうですね。」
一葉「智樹くんは、桜が散っているのを見て、ニヒリズムを感じますか?」
僕は、少し考えてから答えた。
智樹「ええと、感じないと思います。まだあまり良く分かっていないのですけれど。ですから、もっと勉強していく内に感想も変わっていくのかもしれません。」
彼女は、いつもより低い声でつぶやいた。
一葉「虚無と無常は違う・・・。」
僕は、何を言ってよいか分からず、黙って彼女を見ていた。彼女は、僕に背を向けて言葉を発する。
散る桜 残る桜も 散る桜
先ほどよりも高く透き通る声で、彼女は言葉を発した。
一葉「良寛という僧侶の句です。この句を聞いた者は、虚無を感じるのか、それとも無常を感じるのか、それとも何も感じないのか。その相違によって、人は異なる道へと踏み出すことになるのかもしれません。」
彼女は正面から僕を見詰めた。手を後ろで組み、首を少し傾け、薄く微笑んだ。その微笑みは、いつもとは違う不思議な魅力を備えていた。
彼女の微笑みに、僕は立ちすくむ。彼女は、にっこりと僕に微笑んだ。僕は、立ちすくむ。何故? その笑顔に、僕は何を見たのだろうか。彼女の笑顔に立ちすくむ? 立ちすくんだ僕?
僕は、自分の反応に驚いた。僕は、何故、立ちすくんでいるんだ?
桜の花びらが、静かに舞っている。桜の美しさは、彼女に、とても良く似合う。
体を緊張で強張らせている僕から離れ、彼女は、道端の石を拾う。その石は、彼女の手のひらにすっぽりとおさまった。まるで、彼女の手のひらにおさまるために、そこに、その形であったかのようだ、と僕は思った。
たまたま偶然、彼女の手のひらにおさまる石がそこにあったのではなく、彼女の手のひらにおさまる石がなければならなかったから、石はそこになければならなかった・・・。だから、その石がそこにあることは、偶然ではなく必然・・・。
・・・・・・僕は一体、何を考えているんだ・・・?
彼女は、その石を持ったまま、僕に近づいて来た。僕は、視線だけをその石に向ける。体は、動かない。まるで金縛りにあったかのようだ。
僕と彼女の距離が、手を伸ばせば互いに触れることができるところまで近づいて、彼女の歩みが止まった。僕は、視線だけを、彼女の持っている石から、彼女の顔へ移す。
彼女は、優しく微笑んでいた。僕は笑おうとした。笑おうとしたけれど、実際に笑えていた自信はまったくない。
桜の花びらが、静かに舞っている。
桜の美しさは、彼女に、とても良く似合う。
彼女が僕の瞳をとらえ、持っていた石を胸の前へかざし、告げた。
一葉「この石は"虚無"です。」
不思議な言葉だった。
彼女が、何を言っているのか分からない。
彼女は、何を言っているのだろう?
僕に、何を伝えたいのだろう?
そして、どうして僕は、彼女の言っていることが分からないのだろう?
僕は、とても悲しい気持ちになった。ああ、僕に理解力がなくて、彼女の言っていることが分からない・・・・・・。
彼女は僕を見つめたまま、腕を伸ばした。僕は、彼女から視線を外せない。身動きも取れない。
トンっ。
彼女の持つ石が、僕の胸に当たった。
軽く当たったはずだ。痛みはなかった。けれど、その衝撃が、僕を揺らした。
僕は、グラグラした。
その刻は、どれくらいだったのだろう?
僕の意識が覚醒し、体験した時間が引き延ばされる。この一連の出来事が、ひどく長い時間に感じられる。でも、多分、そんなに長かったはずはない。
僕はこのときのことを、きっと、何度も思い返すことになるだろう。
彼女は、僕を見ていた。僕は、何故か彼女から目をそらし、僕の胸に当たっている石へと視線を移した。目と首だけが、そこだけが動く自動人形のように、いびつに動いた。
石は、僕の胸から離れた。
その石は、僕と彼女の中間で止まった。僕の目は石に引き付けられ、その結果、石と彼女が同じ視界に入る。
桜の花びらが、静かに舞い落ちている。彼女は、首を少し傾けて微笑んでいる。
その微笑は、僕にとって命令だった。僕は、手を差し出す。その手が震えているのかどうかも、僕には分からない。
動悸が聞こえる・・・。
一葉「はい。」
そういって、彼女は持っていた石を、僕の手のひらに乗せた。
一葉「では、さようなら。」
そう言って、彼女は去っていった。僕は、馬鹿みたいに立ち尽くし、いつまでも彼女の後ろ姿を見つめ続けていた。桜の舞う道を、彼女は静かに歩み去っていった。
そこから先の記憶は、思い出そうとしても思い出せない。だから、おそらく彼女はそれから振り向くことなく去っていったのだと思う。僕は、彼女に手渡された石を持って、住まいへ無事に帰り着いたのだと思う。我に返ったときには、ベットの上にいたからだ。あの石は、机の上に置いており、僕はベットの上から、それをぼんやりと眺めていた。
第三節
祈「どうしたの? 智樹くん。」
智樹「えっ? 何が? ああ、水沢か。どうしたの?」
英語の授業の後、水沢が僕に声をかけてきた。珍しいな。
祈「どうしたのじゃないよ。何か、今日の智樹くんは変だったよ。」
僕は、思わず笑ってしまった。
智樹「何がだよ。全然変じゃないよ。どうしたの?」
水沢は、少し怒った風に言った。
祈「だから、どうしたのじゃないよ。智樹くん、何か変だよ。」
水沢がいつもとは違う真剣さで僕に詰め寄る。困ったな。
智樹「ちょっと、場所を変えようか?」
僕らは、カフェへ行くことにした。前に、一葉さんと話をしたところと同じ場所だ。僕はアールグレイを頼み、水沢はカプチーノを頼んだ。席に着いて、僕は水沢と向き合った。水沢は、なんか僕を睨んでいる。
智樹「そんなに睨まないでよ。」
水沢は、目線を逸らせた。
祈「睨んでないし。」
智樹「そっか・・・。」
なんか、気まずい空気になる。僕は、素直に話してみることにした。
智樹「まあ、確かに、いろいろあった・・・かな?」
水沢は、また僕を睨んだ。
祈「何が...、あったの?」
僕は、遭遇した出来事を語ろうとして、固まった。いったい、あれを、どう語れば良いのだろうか?
智樹「なあ、水沢。」
祈「何?」
智樹「得体の知れないものに出会ったとき、どうしたら良いんだろうな?」
祈「何の話?」
智樹「まあ、うまく言えないんで、例え話だよ。良く分からないものに出くわしたら、どうしたら良いんだろうって話。」
水沢の頭にハテナマークが見えた気がした。
祈「よく分からないけど・・・、逃げるか、戦うかじゃないかな?」
智樹「逃げるか・・・、戦うか・・・。」
僕は水沢の言葉をオウム返しに繰り返した。不思議なことに、頭が急にクリアになっていく感じがした。僕は混乱の極みに達していて、霧の中でまったく動けなくなっていたみたいだ。
確かに、逃げるか戦うかだよ。そうだよな。そりゃそうだよ。僕は、霧の中で目を凝らして、何とか道を見つけ出したような気がした。その道は、二股に別れていて、一つは逃げるという方向へ、もう一つは戦うという方向へと続いていた。もう少し冷静に考えれば、この二つ以外にも道はあるんだろうけど、僕は立ち止まって考えるよりも、この分かれ道へと歩を進めることにした。もちろん、逃げるという選択肢はなしだ。だとしたら、残る道は戦うことだけじゃないか。
僕は、水沢の手を握った。
智樹「水沢。」
祈「えっ、な、何?」
智樹「ありがとう。」
祈「え、何が...かな?」
智樹「いろいろと。」
僕は、手を放した。
祈「えっ? えっ? あっ・・・。」
水沢は、僕の手を見ている。
智樹「それじゃ、色々と考えてみなくちゃいけないこともあるし、もう行くね。」
水沢は、僕を見た。僕は手を挙げて、じゃあ、と合図した。
智樹「いろいろ、ありがとう。またね。」
第四節
塾の講義後の飲み会で、僕は三宮先生に相談してみることにした。三宮先生には、他の塾生を含めて話をしたい人が多いので、会話の隙間を待って接近した。
智樹「先生。」
三宮「んっ? 何だい?」
智樹「少し、お話させていただいてよろしいでしょうか?」
三宮「うん。」
僕は、持ってきたビール瓶を抱える。
智樹「あっ、お注ぎします。」
三宮「ありがとう。」
僕は、先生が一息つくのを待ってから質問した。
智樹「三宮先生、虚無って何でしょうか?」
三宮「キョム? 虚ろな無と書く虚無のこと?」
先生の問いかけに、僕は自信なげに応えた。
智樹「そう、だと思います。」
三宮「思うって、どういうこと?」
智樹「これを見てください。」
そう言って、僕は鞄の中から石を取り出した。
三宮「それは何かな?」
智樹「石です。おそらく、何の変哲もない。」
三宮「ふむ。」
智樹「ある人が僕に言ったんです。この石が虚無だと。」
先生はしばらく僕を見ていたが、不意に面白そうに笑って言った。
三宮「それ、どういうシチュエーションだったの?」
僕は、ゆっくりと思い出しながら語った。
智樹「僕とその人は、最近知り合ったんですが、その人はとても頭のいい人なんです。それで、えっと、数日ほど前になるのですが、僕が図書館で本を読んでいるときに、話しかけられたんです。」
先生は、そこでにっこり笑って言った。
三宮「もしかして、そこで読んでいた本って、ニーチェ?」
僕は驚いた。
智樹「・・・・・・正解です。『ツァラトゥストラはこう言った』です。」
三宮「なるほど。それで?」
智樹「その後、二人で散歩してたんですけど、その人は道ばたの石を、つまりこの石なんですが、これを拾って言ったんです。この石は、虚無だと。」
先生は、真剣に僕の話を聞いてくれた。
三宮「その人は、何でそんなことを言ったのですか?」
智樹「それが分からないんですよ。でも、その人は、ギャグとかジョークとかでそんなことを言う人ではないので、何らかの意味があると思うんですよ。」
僕は、正直に思っていることを述べた。先生は、少し考え込んでから、手帳を出して何か書き出した。僕はのぞき込む。
先生は、手帳を開いて「石 = 意志」と書いた。その「意志」の下に、下向きの矢印を書き、そこに「虚無主義 = ニヒリズム」と書いた。
石 = 意志 ↓ 虚無主義 = ニヒリズム |
三宮「推測だけど、その人は、そのときの君の意志が、ニヒリズムだと指摘したんじゃないかな?」
先生は、一葉さんの行動についての仮説を提示してくれた。僕は、先生が示してくれた考え方に感銘を受ける。
智樹「なるほど。そうですね。でも、すごいですね。先生、なぜ、そこまで分かるのですか?」
先生は、ビールを飲んでから応える。
三宮「私にとっても、ニーチェは気になる思想家なのです。それに、ニヒリズムをどう克服するかというのは、私にとって大きなテーマの一つなんですよ。」
先生は、そう言って笑った。ああ、こんな先生もいるんだ。僕は嬉しくなった。
第五節
智樹「一葉さん。こんにちは。」
一葉「こんにちは。」
僕は、一葉さんに確認してみることにした。
智樹「こないだの出来事についてなんですが・・・。」
一葉「なんでしょうか?」
彼女はベンチに腰掛け、僕は立ったまま彼女に尋ねる。僕は、鞄から石を取り出す。
智樹「この石が虚無であるという、その言葉が意味するところについてです。」
彼女は、僕を見上げた。
一葉「興味深いですね。」
智樹「ええと、それで、一葉さんがこの石を虚無と言ったことには、意味があると思うんですが・・・。」
一葉「はい。それで、智樹くんは、どういう意味を見出したのでしょうか?」
僕は一呼吸置いて、自分を落ち着かせてから、言った。
智樹「石は英語でいうとstone(ストーン)です。日本語では石の同音異義語に、英語でいうとwill(ウィル)の意志があります。stone(ストーン)とwill(ウィル)は、英語で言えば音も意味も違う二つの言葉ですが、日本語だと意味は異なりますが、音で言えば同じになります。そのため、stone(ストーン)の石とwill(ウィル)の意志で、言葉遊びが可能になります。」
彼女は僕をじっと見詰める。
一葉「面白い着眼点ですね。」
その彼女の回答に、僕は少し不安になる。でも、ここまで来たら、僕が持ってきた説を言うしかない。
智樹「この石が虚無だということ。この言葉が意味するところは、will(ウィル)の意志が虚無であることではないでしょうか?」
僕は、彼女の回答を待った。彼女は、しばらく黙ってから口を開いた。
一葉「そうだとすると、その続きはどうなるのでしょうか?」
僕はうなずいて語る。
智樹「意志が虚無であるということが示されたとき、何故、それを指摘されたのかという問題が残ります。」
彼女はうなずく。
一葉「そうですね。」
智樹「僕には、二つの可能性しか思い浮かびませんでした。一つ目は、僕の意志が虚無であるということ。つまり、僕がニーチェを読んで、ニヒリズムに囚われることに対して警告してくれているという可能性です。二つ目は、意志はそもそも虚無であるということです。これは、ニーチェの哲学の核心でもあると思うのですが、一葉さんが、そのことを僕に提示してくれたという可能性です。」
彼女は、静かに微笑んだ。
一葉「智樹くんは、どちらの可能性だと思いますか?」
僕は正直に答えた。
智樹「分かりません。どちらの可能性だとしても、筋は通ると思うんです。だから、正直分かりません。正解を教えてください。」
僕は彼女の回答を待つ。彼女は、いたずらっ子のように静かに微笑む。
一葉「一つ目の解釈については、ニーチェの『善悪の彼岸』146節にある言葉が適切ですね。」
そう言って、彼女はその一節を奏でる。
怪物と戦う者は、そのために自分も怪物とならぬように注意せよ。
汝が深淵を長く覗き込むとき、深淵もまた汝を覗き込む。
僕は、まだその『善悪の彼岸』という本は読んでいない。
一葉「解釈の仕方はいろいろあると思いますが、怪物と戦う者は、そのために自分も怪物になってしまうから気をつけろという意味です。このことは、ニーチェの哲学そのものについても言えてしまうと思うのです。」
怪物と戦う者は怪物になり、ニーチェと戦う者はニーチェになってしまうということだろうか?
智樹「ニーチェに近づく者は、ニヒリズムに墜ち込まないように注意しろってことですか?」
彼女は、微妙な表情を魅せる。
一葉「そこは、それぞれの感じ方の違いが出てしまうところだと思います。」
智樹「そうですか・・・。」
僕は、三宮先生が言っていたことを思い出していた。確か、ニーチェは、Aphorism(アフォリズム)、日本語で言えば格言を多用しているため、意味を厳密に確定することが難しいらしい。
彼女は、手帳をペラペラとめくる。
一葉「二つ目については、『権力への意志』という遺稿集で、ニヒリズムが〈至高の諸価値がその価値を剥奪されるということ〉、と説明されている箇所が参考になります。意志はそもそも虚無であるというなら、意志はそもそも最高の価値が無い状態であるということになります。ニーチェは、〈ニヒリズムは一つの正常な状態である〉とも述べています。これは、非常に興味深い洞察だと私は思います。」
彼女は、手帳を見ながら言葉を並べる。
智樹「それじゃあ・・・。」
僕は、身を乗り出した。正解は、もしかして・・・。
一葉「ですが、一つ目も二つ目も、どちらも不正解です。」
彼女は、手帳から目を離し、僕の方を向いてはっきりと告げる。
智樹「えっ。」
僕は、間抜けな声を出す。
一葉「宿題・・・というと、何か嫌な感じがしますね。では、私からの謎かけということにしておきましょう。」
彼女はおもしろそうに薄く微笑んだ・・・、ような気がした。
智樹「教えてくれないのですか?」
一葉「智樹くんは、世阿弥を知っていますか?」
智樹「ゼアミ? いや、知らないです。」
一葉「世阿弥は室町時代の芸術家です。世阿弥の『風姿花伝』という本には、〈秘する花を知る事。秘すれば花なり、秘すれば花なるべからず、となり。この分け目を知る事、肝要の花なり〉という言葉があります。」
ゼアミって、人の名前なのか・・・。手帳を見なかったから、この言葉は暗記しているんだろう・・・。好きな言葉なのかな?
智樹「どういう意味でしょうか?」
一葉「花は秘密にすべきだということを世阿弥は述べています。秘密にしているからこそ花なのであって、秘密にしなかったら花ではないということが示唆されているわけです。この、花となる、花とならないの境目の理由こそが、花の秘訣だということです。」
智樹「つまり、秘密ってことですね。」
彼女は僕に静かに微笑む。
一葉「その通りです。」
智樹「一葉さんの謎かけは、秘密になっている今は、まさしく花なのですね?」
一葉「そういうことになりますね。」
僕は彼女の瞳をじっと見詰めた。
智樹「なら、僕がこの謎を解いたら、この花は散ってしまうのですか?」
彼女は僕をのぞき込む。
一葉「それは、素敵なたとえですね。散らない花は、ないのかもしれません。」
智樹「散らない花はない・・・。よい言葉ですね。」
彼女は、ふっと遠くを見ているかのような眼差しになる。
一葉「松尾芭蕉の『野ざらし紀行』には、〈命二つの中に生たる桜哉〉という句があります。二人の間で、同じ時間を生きた桜が、美事に花を咲かせていることを詠った句です。私たちの間にも、今、花が咲いていますね。」
その言葉に、僕は嬉しくなってしまう。
智樹「そうですね。」
一葉「芭蕉の『笈日記』という作品には、〈さまざまの事おもひ出す桜哉〉という句があります。昔のままの桜を見ると、さまざまなことが思い出されるという句です。もし、智樹くんが私の謎かけを解いたなら、桜を見たときに思い出すことが一つ増えてしまいます。」
そう言って、彼女は静かに、嬉しそうに微笑むのだ。
僕は、彼女の謎かけに、いつかは答えられるのだろうか? それは分からないけれど、今の僕は、とても素敵な約束を交わしたのだと思うのだ。
彼女は立ち上がり、桜の花びらが舞っている場所へと身を躍らす。僕は、ゆっくりと彼女の後を追う。彼女は、ゆっくりと魔法の言葉を使う。
敷島の 大和心を 人とはば
朝日に匂ふ 山桜花
僕は魔法にかけられた。
一葉「この歌は、江戸時代の国学者である本居宣長の言葉です。ここに咲いているのはソメイヨシノであり、山桜ではないのが、ちょっと残念ですが...。」
そう言って微笑む彼女に、僕も微笑み返す。ああ、僕は彼女の思考に恐怖し、そしてどうしようもなく惹かれてしまうのだ。僕は、僕の心の内に奇妙な昂揚感があふれてくるのを感じていた。
第二章 パンドラの希望 へ進む
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