『思想遊戯』第二章 第一節 水沢祈の視点(高校)



 ところが女はその手で甕(かめ)の大蓋(おおぶた)をあけて、

 甕の中身をまき散らし、人間にさまざまな苦難を招いてしまった。

 そこにはひとりエルピス(希望)のみが、堅牢無比の住居の中、

 甕の縁の下側に残って、外には飛び出なかった。

 雲を集めアイギスを持つゼウスの御計らいで、

 女はそれが飛び出す前に、甕の蓋を閉じたからじゃ。

 しかしその他の数知れぬ災厄は人間界に跳梁することになった。

 現に陸も海も禍に満ちているではないか、

 病苦は昼となく夜となく、人間に災厄を運んで、

 勝手に襲ってくる、

 ただし声は立てぬ――明知のゼウスがその声を取り上げてしまわれたのでな。

 このようにゼウスの意図は、いかにしても避けることは叶わぬのじゃ。



 ヘシオドス『仕事と日』より



第一項

 わたしのこころは、少しずつ壊れはじめました。

 原因は何だったのでしょうか? 正直、私にも分かりません。

 わたしという器に、毎日すこしずつ得体のしれない液体が注ぎ込まれて、それがどんどん重くなって、わたしという器にひび割れが走ったのです。だから、だんだんと壊れはじめた私は、どこかで決壊するのを心のどこかで待ちわびるようになったのです。

 私は、何かよく分からなかったのだけれど、許せなかったのです。

 ......何かを。何かが許せなかったのです。それが分からない私自身も許せなかったのです。訳知り顔の大人に、若者特有の理由のない苛立ちだと指摘されたとしても、言い返せるだけの言葉は持ち合わせていませんでした。だから、誰にも言いません。そんな指摘を受けたら、私は逆上してしまうでしょう。

 だから、このまま壊れてもいいやと私は思ったのです。私は、親にも教師にも都合のよい子を続けながら、私という器がいっぱいになって、私が壊れるのを秘かに期待していたのです。

 そうです。私の中には、悪魔が棲んでいるのです。私の内に住み着いた悪魔は、私の中で少しずつ成長していきました。私は、私の内に巣くう悪魔を怖れながらも、悪魔が成長していくことに喜びを感じていました。

 私は、いわゆるよい子です。親や先生の言うことを素直に聞いていました。勉強も予習や復習をきちんとしていたので、成績についても文句を言われたことはありません。友人関係も、問題がある子はさけて、当たり障りのない子と付き合うようにしていました。だから、特に問題なく過ごすことができていました。私は要領が良かったのだと思います。そつなく物事をこなし、自然に優等生を演じることができていました。

 だから、そのまま優等生を続けていけば良かったのです。そのまま真面目に生きて、良い大学に入って、良い会社に入って、良い結婚をして、良い人生を送れば良いのです。そのことに、一体何の不満があるというのでしょう? それは、理想的な人生なのではないでしょうか? それを棒に振るなんて、そんな馬鹿げた理由などあるはずがないでしょう?

 真面目に生きて、良い大学に入って、良い会社に入って、良い結婚をして、良い人生を送るのです。そのことに疑問を抱いてはいけません。疑問を抱けば、それは一瞬で膨らんで暴発してしまいます。疑問を抱いてはいけないのです。

 人生の意味など、考えてはいけないのです。でも、私の内に棲み着いた悪魔はささやくのです。



 良い大学に入ること、良い会社に入ること、良い結婚をすること、それって、本当にそんなに大事なことなのかな? そんなことが、本当に良い人生を保証してくれるのかな?


 悪魔は私にささやきます。

 マンガやアニメなら、こんなときに悪魔と戦う天使が現れて、両者が戦ってくれます。でも、私の内には、どうやら天使はいないようなのです。だから、悪魔はゆっくりと時間をかけて、楽しむように私にささやくのです。悪魔の言葉は私を揺さぶります。

 ああ、そうです。悪魔は邪悪な存在です。悪魔は邪悪な言葉を吐くのです。

 ああ、しかし、悪魔の言葉は邪悪ですが、それが真実であることが私には分かるのです。邪悪な真実が、私を揺さぶるのです。悪魔は、私に優しくささやくのです。



 そんなことじゃないだろう?

 あなたが求めていることは、きっと、もっと違うことじゃないのかい?

 そんなことでは、きっと、ないはずだよ?



第二項

???「それで、ちょっと、君のこと、なんか良いかなって思って・・・。」

 私は告白されました。放課後、あまり親しくないクラスメイトの男子から、ちょっと図書館に来てほしいと言われたのです。私は理由を問いましたが、その人は友達に頼まれたからということでした。私は、これは告白だなとすぐに分かりました。同じようなことが過去にもありましたし。ですが、野暮な態度は取りません。分かりましたと伝え、言われた通りに図書館へ来た次第です。

 私が図書館へ入ると、背の高い人が待っていました。顔は、格好良い部類に入るでしょうか・・・? 彼は、急に呼び出してすまないと言い、それから、一方的に話し出しました。

 私は、黙って相手を見ていました。あまり知らない人から、自分のことをどうこう言われているのを聞くことは、なにか不思議な感じがします。彼の話はとりとめもなく続き、核心部分に到達しました。

???「えっと・・・、それで、好きなんで、付き合ってもらえないかなって・・・。」

 確か彼は、バレー部のキャプテンだったと思います。背が高いですし、女子の間で人気もあったような気がします。

祈「・・・・・・・・・。」

 私は黙って相手を見詰めました。この人の告白は、語彙に乏しいと感じました。何か、というか、色々と足りていないように思います。背は高いですが。

バレー部のキャプテン「それで、どうかな? ちょっと付き合ってみるってのは・・・?」

 彼は照れたように私に語りかけます。私は彼の語りの節々に「それで」とか多用し過ぎではないかなとか、どうでも良いことを考えながら答えました。

祈「すいませんが、おつきあいすることはできません。」

 私は、相手の目を見ながらはっきりと言いました。相手は、うろたえたように見えました。

バレー部のキャプテン「ど、どうしてかな? 誰か他に、好きなやつがいるとか?」

 私は、どう応えたものかと思案しました。後々、めんどうなことにならないように、好きな人がいることにしました。

祈「そうです。好きな人がいるので、残念ですがおつきあいすることはできません。」

 私はそういって、相手の反応を見ずにきびすを返しました。

 私が下駄箱に着くと、友達の橘郁恵(たちばな いくえ)ちゃんが待っていました。

祈「郁恵ちゃん。待っていてくれたの?」

橘「何か、面白そうなことがありそうだったので。」

 そう言って、郁恵ちゃんはにやけました。

祈「別に・・・・・・。」

 私は、靴を履き替えます。

橘「告白されたんでしょ?」

祈「・・・・・・告白されたよ。」

 郁恵ちゃんは、キャーとか言っています。余計なことを聞かれるかなと思っていたら、その通りになりました。

橘「誰? ね、誰?」

 私は、どうしたものかと思いましたが、素直に白状することにしました。

祈「バレー部のキャプテン。」

 郁恵ちゃんは、またキャーと言いました。

橘「えっ? それって、もしかして中条くん?」

祈「そう。」

 そうでした。彼の名前は中条くんでしたっけ。言われて、今思い出しました。

橘「え? え? それで、OKしたの?」

祈「していないよ。」

橘「え~。なんで? もったいない。」

祈「もったいないのかな?」

橘「もったいないよ~~。けっこう人気あるんだよ? 中条くん。」

 郁恵ちゃんは一人で盛り上がっていましたが、私はそれを冷めた気持ちで聞いていました。郁恵ちゃんは、次々と質問を投げかけてきます。

橘「なんで断っちゃったの?」

 私は少し考えました。

祈「なんでだろう?」

 本当に、なぜ私は断ってしまったのでしょうか? 特に理由もないような気がします。

橘「なに、それ? 他に好きな人でもいるの?」

 郁恵ちゃんは、中条くんと同じことを訊いてきました。私は、少しおかしくなりました。

祈「中条くんには、好きな人がいるって言って断ったよ。」

 郁恵ちゃんは、またキャーと言いました。

橘「えっ? マジで? 好きな人いるの?」

祈「いないけど・・・。」

橘「え~、いないのに、好きな人いるって言って断ったの? それって、ひどくない?」

祈「そう言っておけば、断りやすいかなって。」

 郁恵ちゃんは、う~んとうなりました。

橘「じゃあさ、とりあえず一回遊びにいって、それから判断するとかでもいいんじゃないかなぁ?」

 なるほど、と私は思いました。そういう考え方もありますね。

祈「でも、なんかピンとこなかったっていうか・・・。」

 私は素直な感想を言いました。郁恵ちゃんは、なにか不満そうに訊いてきます。

橘「じゃあさ、どういう人がタイプなの?」

 私は、考え込んでしまいました。私は、どういった人が好きなのでしょうか?

祈「う~ん。面白い人とかかなぁ。」

 なにか、自分でもピンと来ないままに答えました。

橘「でもさあ、面白いって言っても、下品な感じはダメでしょ?」

祈「それは、そうかも。」

橘「じゃあさ、外見とかは?」

祈「それは、格好良い方がいいと思うけど。」

橘「でも、中条くんを断ったんでしょ? 彼よりも格好良くないとダメってこと?」

 郁恵ちゃんは、ちょっときつめに私に詰め寄りました。

祈「そんなことはないけど・・・。ただ、彼は何となく合わなさそうな感じがしたの。」

橘「なんとなくって・・・、少しひどくない?」

 なにか、私を非難するような感じになってきたので、私は矛先を変えることにしました。

祈「それじゃあさ、郁恵ちゃんは好きな人は居るの?」

 私がそう言うと、郁恵ちゃんは一瞬だけ言葉に詰まって、少し赤くなりました。

橘「私? 私のことは、べ、別にいいじゃん。」

 私はピーンときました。これは、意中の人がいること確定です。

祈「なるほど。好きな相手がいて、どうしようかやきもきしている、と?」

 私の言葉に、郁恵ちゃんはさらに赤くなりました。郁恵ちゃんは、身長が167cmでスラッとした細身の女性です。小顔で目つきは若干きつめの印象を受けますが、十分に美人顔だと思います。

祈「誰かな? クラスの男子?」

 私は、郁恵ちゃんに質問をたたみかけます。

橘「えっと・・・。いいじゃん、私のことは。」

祈「良くないよ。私は、告白されたことも、それが中条くんだってことも正直に言ったよ。郁恵ちゃんも秘密はなしにしようよ。」

 そう言って、私は自分の心が冷えていくのを感じました。なにが、秘密はなしにしよう、でしょうか。私は秘密だらけです。誰にも言えない、誰にも言わないことを胸の内に抱えて生きています。白々しいにもほどがあります。こんなとき、語った言葉と胸の内のへだたりに、私は自分の内に棲まうものの存在を感じるのです。

 郁恵ちゃんは、そんな私の心内には気づかずに、恥ずかしそうに言います。

橘「誰にも言わない?」

祈「言わないよ。約束する。」

 私は郁恵ちゃんの目を見て答えました。郁恵ちゃんは、勇気を振り絞っているようでした。

橘「ええとね、同じクラスの、佳山智樹くん。今、席がとなりなんだ。」

 そう言って恥ずかしそうにはにかむ郁恵ちゃんは、とてもかわいらしく感じられました。

 ああ、郁恵ちゃんは恋をしているのです。私はそんな郁恵ちゃんを見て、不思議な気持ちになりました。この気持ちは、羨望なのでしょうか? それとも、嫉妬なのでしょうか? 私の気持ちを、私は量りかねていました。

 それはそうと、佳山君って、どんな人でしたっけ?

祈「佳山くんって? ごめん、私、よく知らないや。どんな人なのかな?」

 郁恵ちゃんは、恥ずかしそうに話し出しました。

橘「うん。佳山くんって、そんなに目立つ方じゃなくて。どちらかというと、よく本を読んでいておとなしい感じなんだよ。でも、部活も一生懸命やっているみたいで。それで、成績もわりと良くて。身長も私より高くて、ほら、私ってけっこう背が高いでしょ。やっぱり、彼氏とかは私より背が高いのにあこがれるっていうか・・・。」

 郁恵ちゃんは、嬉しそうに話しています。

 私は、衝撃を受けていました。ああ、郁恵ちゃん。あなたは真っ当だね。俗な言い方をすれば、素敵な青春だね。恋が実るにしろ、良い思い出に変わるにしろ、それはどちらも素敵なことだね。

 私は、一瞬だけ、彼女をまぶしく感じました。一瞬だけですが。

 その一瞬の後、私の中がざらつきました。私は、何か嫌なものになったのかもしれないと思いました。

 私は、きっと、とても醜い。

 ねえ、郁恵ちゃん。郁恵ちゃんは、スラッとして美人だよね。私は151cmだから、167cmの郁恵ちゃんと並ぶと、身長差があるよね。私はもうちょっとだけ身長がほしかったし、郁恵ちゃんはもう少し低い方が良かったって言っていたよね。二人を足して割るとちょうど良い感じかもだね。

 ねえ、郁恵ちゃん。私たちは、友達だよね? だって、スラッとした美人の郁恵ちゃんに、私も釣り合っているでしょ? 私たち、中学は別々だったけど、高校に入学して、同じクラスになって、友達になったよね。郁恵ちゃんから、私に声をかけてくれたものね。学年が上がって、別々のクラスになっちゃったけど、それでも友情は続いているものね。

 郁恵ちゃんは、私以外の女子にも声をかけて、みんなで仲良しグループになったよね? 私たちのグループは、良いグループだったよね? そうだよね? 

 だって、メンバーのレベルが高かったものね。郁恵ちゃん、そうだよね?

 うん。分かっているよ。そういうものだよね。特に女子のグループって、そうだよね。郁恵ちゃんのしたことが、意識的にそうしたのか、それとも無意識でそうなったのか、そんなのはどうでもいいことだよね。私も、どうでもいいことだと思うよ。そんなこと、気にする方がおかしいって。

 でも、少しだけ気になるの。

 だって、今回は見付かってしまったから。だって、帰ろうとしたとき、あんな風に誘われたらバレバレだものね。もう少し、気をつかってもらいたいものだよ。あんな風だと、バレバレだから。だから、報告が必要になってしまったのだし。だから、郁恵ちゃんも待っていてくれたのでしょ?

 うん、私は郁恵ちゃんのこと、ひどいなんて思ってないよ。本当だよ。ただ、郁恵ちゃん自身も気づいていない郁恵ちゃんの特性に、私は気づいてしまっているだけなの。だから、私は、ただ単にその分かっていることを、私の胸の内にしまって、友達づきあいを続けているだけなの。だって、そうするより、他には何もないでしょう? 私が気づいていようがいまいが、私たちの友情には、何も変化はないはずだよ。だって、無意味でしょう? 少なくとも、郁恵ちゃんにとっては。

 だから、後は、私の心持ち次第なんだ。

 私ね、けっこうもてるの。知っているでしょう?

 だからね、今までも何回か告白されたことがあるけど、断ってきたの。知らないでしょ?

 でも今回は、誘いがみんなのいるところだったし、ばれちゃったけどね。多分だけど、中条くんは自信があったんじゃないかな? でもちょっとだけ保険もかけたんだと思うよ。だから、友人を使って私を呼び出したんだと思うの。

 嫌な言い方をすれば、中条くんは優良物件だったかもだよね。なんで私は断ったのかな? すぐに思いつく理由は、付き合ったら色々とめんどうなことになりそうだったから。それは、その通りだと思うよ。でも、それだけじゃないの。だって、そのめんどうなことって、私にとってはどうでも良いことだから。どうでも良いことなのだけれど、私に残っている良識が、面倒なことを無意識的に避けてしまっているのかもしれないとも思うんだ。

 ああ、ごめんね。郁恵ちゃん。郁恵ちゃんが色々と話してくれているのに、それに相槌を打っているけれど、私は頭のなかで、こんなことを考えていたの。でも、気づかないでしょ? 大丈夫、郁恵ちゃんは、今、恋する乙女だものね? 恋する乙女は盲目なんだよ?

 そっか、郁恵ちゃんの好きな人って、佳山智樹くんっていうんだ。へえ~、そうなんだ。それは、良く覚えておかなくちゃだね。そうでしょ? 郁恵ちゃん。




第三項

 私は、郁恵ちゃんのクラスに入っていきました。

 学年が変わってクラスは別々になってしまったけれど、私と郁恵ちゃんは仲良しです。だから、私が郁恵ちゃんのクラスに入って、郁恵ちゃんと話をしていても、何の不思議もないのです。

 私は郁恵ちゃんとお話をしながら、郁恵ちゃんの隣の席の男子をさりげなく見ていました。郁恵ちゃんの話から受けた印象とは、違ったタイプの男子がそこにはいました。

 彼は確かにおとなしそうではありますが、体格はがっしりとしています。そういえば、部活に打ち込んでいたという話でしたから、体格ががっしりしているのは当然と言えば当然です。部活は文学系ではなく、運動部系なのでしょう。多分、郁恵ちゃん自身がスラッとしているので、そこから彼も細身なのだと勝手に思ってしまっていました。勝手な想像で思いこむのは良くないことです。今後は気をつけます。

 彼、佳山くんは、静かに本を読んでいました。カバーが掛かっていたので、何の本かは分かりませんでした。サイズから、文庫本だということは分かりましたが。

 なるほどね、と私は思いました。背が高い郁恵ちゃんと並んだときにも見劣りしない体格、物静かでおとなしい感じ、成績も良いらしいということで、郁恵ちゃんが好きになりそうな感じです。

 私は郁恵ちゃんを見ました。郁恵ちゃんも、私が佳山くんを気にしていることに気づいたようです。アイコンタクトで私は、「話しかけないの?」と訊いてみました。郁恵ちゃんは、"無理無理"といった感じで首を小さく振っています。

 仕方がないので、今日は退散することにします。教室から出て行くとき、振り返ってもう一度佳山くんを見ました。彼は、やっぱり本を読んでいて私の視線には気づかないようでした。私が彼から視線を外したとき、私を見ている視線に気づきました。一瞬、目が合ってしまいました。

 私は、しまったなと思いました。中条くんから告白されたとき、私を呼びに来た人です。誤解されたかなと思いましたが、訂正するのもおかしな話なので、私は何もせずに教室から出て行きました。別に、どう誤解されようと、私には関係のないことですし。




第四項

 それから私は、郁恵ちゃんに会いに行くときなど、さりげなく佳山君を気にするようになりました。

 郁恵ちゃんはあまり気づいていないようですが、佳山君はかなり変わった人だということが私には分かってきました。

 例えば、修学旅行。

 修学旅行中には、私と佳山君にはほとんど接点がありませんでした。でも、修学旅行後にまとめの資料作成があり、優秀者の資料は読めるように展示されていました。私の資料と佳山君の資料は、展示対象になっていました。私は人気(ひとけ)がないときを狙って、佳山くんの資料を読んでみました。

 そこには、あまり綺麗とは言い難い字で、独特の文体で旅が綴(つづ)られていました。



 僕は、高台から夕日を見た。

 修学旅行という特別な状況がそうさせるのか、この夕日は僕の胸に届いた。赤く染まる景色は、高台からの美しい景色をさらに美しく、そして少し不気味に浮かび上がらせた。

 僕は、旅の終わりを思った。この旅が終われば、いよいよ受験というものがリアルに迫ってくる。だから、そんなことは旅の最中は考えない方が良い。

 でも、考えてしまう。僕は、何を考えているんだ。今はただ、この景色を心に刻んでおくべきなんじゃないか?

 ああ、僕はこの赤い景色に飲み込まれたい。でも飲み込まれずに、つまらないことを考えている僕がいる。僕は、自身の未来を想った。この先の人生を想った。

 僕は、まだ僕の人生が見通せていない。満足からは程遠い。僕は、僕の人生を想う。そのために、今は旅の景色を心に刻む。今は、それしかできない。



 私は衝撃を受けました。

 彼は、私とはどこか違うと感じられました。それと同時に、どこかとても近いとも感じられました。

 読む人が読めば、青臭い文章だなと思うのかもしれません。でも、私には、この文章を書いた人の気持ちが分かるような気がしたのです。この人は、本当にこのように考えて、このように書いたのだと私には思えたのです。ですから、青臭い文章などではなく、とても恐ろしい文章だと感じてしまったのです。

 大げさな表現かもしれませんが、そこには、なんらかの闇が見えたのです。人は闇を怖れるものです。でも、闇を見据えて、それでも前へと進む人がいるのです。私は怖れました。闇も、彼も。

 もしかしたら、彼は危険な人物なのかもしれません。私にとって、危険な人物なのかもしれません。そのような予感が浮かびました。仮にそうだとしても、彼に近づかなければよいだけです。近づかなければ、危険は私にはやって来ないのです。

 でも、私は、彼に興味を持ってしまったのです。



 ある日、佳山君が進路指導室から出て来るところを見かけました。もう、三年生はあまり出入りしなくなる時期です。私は少しためらいましたが、彼が出て行った進路指導室に恐る恐る入ってみることにしました。

 進路指導室には、指導員の女性の先生がいました。私は「失礼します」と言って中へ入って行きました。

指導員「あなたは三年生?」

祈「いえ、二年・・・です。」

 先生は少し驚いた風でした。

指導員「めずらしいわね。この時期に。」

祈「そうですか?」

指導員「ええ、ついさっきも、二年の男子が来ていたのよ。早めに進路を決めようっていうのは、良い心がけよね。」

祈「そういうものでしょうか?」

指導員「うん。この時期に来る子は、自分の考えをちゃんと持っている子が多いのよ。だって三年生でも、まだ色々と迷っている子の方が多いくらいだしね。」

 私は、テーブルの上にある資料が気になりました。

祈「あの、この資料は?」

指導員「ああ、さっき来ていた男子が見ていた資料よ。片付けは私がやるからそのままで良いよって言って、そのままになっているの。」

祈「そうなのですか。」

 私は興味ないという様子を装いながら、その資料をチェックしました。各大学とその学部の一覧が載っている資料です。彼は、すでに自身の進路の目星をつけているのでしょう。彼は、自分の人生をきちんと考えている、この事実は、私を動揺させました。

指導員「あなたは、どういったことを知りたいのかしら?」

 先生に言われ、私はとっさに答えました。

祈「失礼します。」

 そう言って、私は逃げるように進路指導室から出て行きました。

 私は、彼を知りたいと思いました。もしかしたら、私の内の悪魔がささやいたのかもしれません。




第五項

 私は佳山君が部活をしているところを見に行きました。郁恵ちゃんから聞いた情報では、彼は第二体育館の横の道場で毎日練習しているそうです。

 私は校内を散策している風を装って、道場を覗いてみることにしました。道場からは、練習している人たちの声が響いていました。彼の声も聞こえてきました。普段の彼のイメージとは異なり、大きく低くよく通る声が響いていました。私は、道場からは見えない場所に座り、黙ってその声を聞いていました。

 しばらくそうしていると、サンドバックを蹴る音が聞こえてきました。道場を覗いてみると、佳山君がサンドバックを蹴っていました。一瞬、彼の顔が見えました。彼は真剣な顔をしていました。その顔を見たとき、思わず私は後ずさってしまいました。彼のサンドバックを蹴る音を聞きながら、私は道場から立ち去りました。

 私は、なぜか泣いていました。なぜ泣いているのか、自分でも分かりません。

 私の中には、悪魔が棲んでいます。その悪魔は、彼を怖れています。いえ、怖れているのは、悪魔ではなく、私自身なのかもしれません。ですから、私は、彼と対峙して、決着を付けなくてはなりません。

 でも、私は涙を流してしまいました。私は、なぜか彼に恐怖しているのです。彼と、決着を付けなければなりません。














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