『思想遊戯』第二章 第二節 佳山智樹の視点(高校)




 女たちを 禍いとして 死すべき身の 人間どもに 配られたのだ


 ヘシオドス『神統記』より



第一項

 修学旅行が終わり、受験へと意識が向かいはじめる季節。なんとなく憂鬱な季節。

 いつも昼飯を食べる友達が休みだったので、一人で弁当を食べようとすると、隣の席の橘さんが話しかけてきた。

橘「佳山くん、今日のお昼は一人寂しく?」

智樹「ほっとけ。」

橘「可哀想だから、よかったら今日は私たちと一緒に食べない?」

 橘さんは、別のクラスの水沢さんと二人でお弁当を広げていた。この二人は、学年でも指折りの美人だ。性格もよいらしく、一人寂しく弁当を食べようとしている僕に声を掛けてくれたようだ。

 ここで、こいつは僕に気があるに違いないとか思うのは、地雷なので止めておく。釣り合うわけもないしね。単に、たまたま一人になったクラスメイトを気遣う以上の感情はないだろう。冷静に分析すると、我ながら悲しくなってくるが・・・。

 まあ、可愛い女子と食事できるということで、断る理由はないな。

智樹「そう? それじゃあ、今日は女子トークに交ぜてもらいます。」

 そう言って、僕は机を少しだけ寄せて、三人で食事することにした。ちょっと気恥ずかしいので、さっそくこちらから話題を振ってみる。

智樹「修学旅行、どうだった?」

 我ながら、当たり障りがない話題だな・・・。

橘「面白かったよ。名所をまわるのも良いけど、夜にみんなでおしゃべりしたりするのも楽しいしね。」

智樹「ああ、分かる分かる。でも、男子チームは、初日とかそれで夜更かしして騒いでいたけど、日にちが経つにつれてみんなさっさと寝るようになったけどね。」

橘「う~ん、女子チームもだいたいそんな感じかなぁ・・・。後半のバス移動では、ほとんどの人が寝てたもんね。」

 そんな感じで、僕は当たり障りのない会話を続けた。噂では、橘さんが旅行中に告白されたって話だけれど、それをいきなり聞くのははばかられる。そんな空気を読まない暴挙には出ないぞ。・・・などと思っていたら、今までほとんどしゃべっていなかった水沢さんが口を開いた。

祈「ねえ、佳山くん。」

智樹「何かな?」

祈「佳山くんは、旅行中に誰かに告白とかしたの?」

 ・・・・・・はい?

 来ましたよ。恋愛ネタですよ。

智樹「い、いや、ないよ。そんなイベントは発生しておりません。」

 なぜか、しどろもどろになってしまった・・・。でも、やっぱり女子は、こういう恋愛ネタが好きなのかね?

 辺りを見回してみる。とりあえずそれなりに距離もあるし、声も大きくないので周りには聞こえてはいないと思う。橘さんの方を見てみると、驚いた顔で水沢さんを見ている。水沢さんは、そんな橘さんの視線を知ってか知らずか、さらに僕に質問してくる。

祈「そうなの? 旅行中に好きな子に告白って、定番だと思うけれど・・・。」

智樹「まあ、確かに定番かもしれないけどさ。でも、そういうのって、少しでも勝算がなければ勇気出ないしね。」

祈「そうかぁ・・・。勝算、なかったの?」

智樹「勝算も何も・・・、それより、そっちはどうなの?」

 こうなったら、こっちからも聞いてやるぞ。

祈「そっちって?」

智樹「僕だって、噂くらい耳にしてるよ。」

 水沢の言動に驚いていた橘が、こっちを向いてもっと驚いた顔をした。なにか、可愛そうになってきた・・・。フォローしておくか・・・。

智樹「いや、橘さんは美人だし、それは男としては、修学旅行なんて好都合なイベントがあれば、玉砕覚悟で告白ってのは自然な流れだと思うけど・・・。」

 僕がそういうと、橘さんはうつむいてしまった。まずかったかな・・・。

祈「へえ、そうなんだぁ・・・。ねえねえ、郁恵ちゃん。どうだったのかな?」

 僕は気まずく感じていると、水沢さんがどんどん話を進めてしまう。水沢さんって、一見おとなしそうに見えて、けっこうストレートなのかもしれない。

橘「いや、私は、その、ごめんって・・・。」

 橘さんは、うつむいたまま小声でぼそぼそと話す。僕はあわててフォローしようとする。

智樹「まあ、そうだよね。うん。そう聞いているし。まあ、そういうのは一期一会と言いますか、タイミングと言いますか、なるようになるときはなるし、ならないときはならないっていうか...。」

 僕がしどろもどろに話していると、水沢さんが聞いてきた。

祈「ふ~ん? 佳山くんは、どこまで知っているのかなぁ?」

 僕は周りを確認し、あわてながら応えた。

智樹「いや、知っているというか。有名っていうか。修学旅行のそういった話って、どうしても話題になっちゃうよね? 僕も詳しく知っているわけじゃないし。又聞きの又聞きっていうか、そんな感じだよ。」

 僕の応えを聞くと、水沢さんはうなずいて、それから橘さんの方を見て言った。

祈「だって、郁恵ちゃん。」

 女子の恋愛トークに付き合うのは、やっぱりかなり大変だ。今後は巻き込まれないようにしようと、僕は無駄なことを思ってみたりした。

 ただ、それから僕は、隣の席ということもあり、橘さんとは割と話すようになった。水沢さんは別のクラスでなかなか会わなかったけれど、廊下で会ったときなど、ちょっとした世間話くらいはするようになった。そのことで軽く冷やかされたこともあったけれど、彼女たちが僕なんかを恋愛対象に見るはずがない。僕は、彼女たちとは別に好きな女子がいると皆に言うことで、無用な冷やかしもなくなった。




第二項

 ある昼休みの食後、僕は生徒に開放されている屋上へ向かった。ほどよい天気の日には、屋上をぶらつくのも何となく気持ち良い。屋上には何人か別の生徒もいたけれど、僕も彼らも互いには目もくれず、それぞれがぼんやりと昼休みを過ごしている。

 僕がブラブラ屋上を歩き回って、当たりの景色を何となく見ていると、屋上に水沢さんが上ってきた。それを見つつも僕はボーっとしていたら、水沢さんから声をかけてくれた。

祈「こんにちは。智樹くん。」

 彼女は、僕を下の名前で呼んだ。ちょっとドキッとしたけど、彼女は大人しそうに見えて、割とストレートな性格なので、そんなものかなと気にしないことにした。ここで、僕も下の名前で呼んでもよかったのかもしれないけれど、僕はヘタレなので、きちんと名字で呼ぶ。ちゃんと、さん付けでね。

智樹「こんにちは、水沢さん。」

祈「屋上、好きなの?」

智樹「うん。割とね。たまに上がってくるね。」

祈「私は、そうでもないかな...。」

智樹「じゃあ、今日はたまたま?」

祈「そうね...。」

 そう言って、彼女は風に揺れる髪をおさえる。確かに、水沢さんが男子のあいだで人気があるのは分かる気がするなぁ。身長は低いけれど、それが可愛らしさを際立たせるとか言っていたやつもいたなぁ...。まあ、同意だけど。

 なんとなく会話が続かないので、それじゃあと言って別れようとすると、彼女が口を開いた。

祈「もうそろそろ、進路のこととか、考えないとだね。」

智樹「ああ、そうだねぇ...。」

祈「智樹君は、進路のこととかちゃんと考えている?」

智樹「う~ん、どうだろ? 割と考えてないこともないかも。」

祈「......それって、考えているってことだよね...?」

智樹「まあ、それなりに...。」

祈「例えば?」

智樹「例えば? ええと、そうだなぁ...。やっぱり数学とか苦にならないなら、理系かなって。選択肢も広がるしね。でも、理系っていっても、そこからいろんな選択肢があったりするわけだよね?」

祈「そうだね。」

智樹「信憑性とかはともかく、隆盛する分野って30年くらいしか持たないって話もあるみたいなんだ。」

祈「そうなの?」

智樹「本当のところどうかは分からないけどね。でも、大昔は石炭が流行っていたりしたわけだよね。石油の時代になって廃れたわけだけど。そこまで極端じゃなくても、一昔前はエリートなら銀行勤めとかね。でも、それって、いつまでもそうってわけじゃないよね?」

祈「......そうだね。」

智樹「うん。そうだとすると、選ぶ分野って、それなりに慎重になっておくべきだと思うんだ。」

祈「...それで、智樹君は、どうするの?」

智樹「ええと、最近のニュースとかで流行っている分野とかって、逆の意味で危ないと思うんだ。競争率が高いってのもあるしね。だから、長期的に考えて、自分が定年退職のときのこととか想像して、その時代まで、まあ廃れないなっていう分野を考えるとかね。そうやって考えると、それなりに絞れてくるよね。」

祈「智樹君は、自分の将来を考えているのね。」

智樹「まあ、そりゃあ、ね。自分の人生だしね。早めに決めておくと、精神的にも楽だしね。」

祈「でも、なんか、理路整然とし過ぎていて、逆に危なっかしく思えるけど?」

 そう言って、静かな眼差しで水沢さんは僕を見つめるのだ。僕も彼女を見返して、言った。

智樹「それって、挫折知らずのエリートが、はじめての挫折でもろくも崩れるってやつでしょ? 僕には、それはないなぁ。だって、挫折ばっかりだったしね。むしろ、逆なんだよ。」

祈「逆?」

智樹「そう、逆。僕は挫折ばっかりだったからね。だから、少しだけ慎重になっているだけだよ。水沢さんみたいに、人生が順調ってわけじゃないかね。」

祈「私の人生が順調? なぜ、そう思うの?」

 そう言う彼女の顔は、表情が読み取れない。少し怒らせてしまったのかもしれない。でも、こんなこと、僕は気にしない。

智樹「そりゃあ、そうでしょう。水沢さんは、可愛いし。頭だって良いし。人付き合いもうまいしね。」

 僕は、少しだけ意地悪をすることにした。

祈「でも、それは、智樹君の勝手な思い込みかもしれないよ。私の上っ面に過ぎないかもしれない。」

 彼女は、僕の予想の範囲内の回答を返してくれた。僕は、当たりを見まわして、僕たちの会話が誰にも聞こえていないことを確認してから、言った。

智樹「そうかもね。いや、そうだね。だから、僕は、その上っ面から判断した僕の判断を語ったんだよ。」

 彼女の顔が凍り付くのが見えた。僕は、ここで止めておいた方がよいかなと思ったのだけれど、彼女自身が続きをうながしてきた。

祈「それ、どういう意味かな?」

智樹「...言葉通りの意味。まず、水沢さんが可愛いのは、客観的な事実。成績が良いのも、客観的な事実。そうだとすると、問題は、人付き合いのうまさ。少なくとも、上っ面に関しては、うまそうに僕には見える。それで、問題は内面。上っ面の通りなら、問題ない。心から友達付き合いを大切にしていて、事実、大切にできている。ほら、何の問題もないでしょ? だから問題は、上っ面ではうまく人付き合いをしるのだけれど、本当は心の中では違うことを考えている場合。」

 僕は、そこでいったん話を止めて、彼女を見つめた。

祈「.........。」

 彼女は、黙って僕を見ている。それは、にらんでいるのかどうか、僕には判別がつかない。だた、続きを待っているように思えたので、僕はゆっくりと続きを話し出す。

智樹「それで、内面と外面が違う場合だ。極端な場合を言えば、内面ではくだらないと考えているのだけれど、実生活上の都合から、表面上はうまく人付き合いをしているパターン。でも、これって、何の問題があるんだろう? 僕は、もし、このようなことをできる人は、人生をうまく乗り切っていくことができる人だと思うな。だって、そうだろう? 嫌な相手にも、それなりに合わせることができる人ってわけで、それは、人生において重要なスキルなんだよ。だから、仮に、仮にだよ、こういった能力を持っている人の人生は、きっと順調に進むと思うんだよ。」

祈「智樹君は、私をそういう人だと思っているのね?」

智樹「いいや。」

 僕は彼女の心理状態を読み取ろうとしたけれど、彼女はポーカーフェイスを崩さなかった。たいしたものだと思った。

祈「それでは、どう思っているの?」

智樹「僕は水沢さんじゃないよ。だから、水沢さんの内面は分からない。だから、推測するしかない。で、僕は、こう思うんだ。内面と外面のギャップに悩んでいるんじゃないかってね。でも、僕からしたら、それって、罪の意識に苦しんでいるってことで、単に、好いやつだなぁって思うんだ。だって、そうでしょ? 心で思っていることとは違う態度を取っていて、それに悩んで苦しんでいるって。それって、そういうやつって、単純に好いやつだなぁって僕は思うよ。」

 僕がそういうと、水沢さんは、突然振り返って、そのまま屋上から出て階段を駆け下りていった。

 僕は、黙って彼女の後姿を見送った。彼女の姿が見えなくなっても、僕はしばらくその場所から一歩も動かず、ただその場にいた。チャイムが鳴って、僕は次の授業に出るために、ゆっくりと歩き出した。




第三項

 自習時間で課題を片付けたあと、伸びをしていると、隣の席の橘さんが声をかけてきた。

橘「佳山くん、課題終わったの?」

智樹「うん、ちょうど今ね。」

橘「私、四問目だけ分からないの。そこ、できているかな?」

智樹「うん。そこはね...。」

 橘さんの課題をかたづけて、それから何となく会話モードに突入してしまった。

橘「佳山くんは、進路どうするの?」

 またこの話題かと思ったけど、この時期にもなると、やはり皆気になるのだろう。

 前に屋上で水沢さんと話した後、なんか僕は気まずくなってしまった。だから、何か緊張していたのだけれども、次に水沢さんと会ったとき、そのときは橘さんも一緒だったのだけれど、水沢さんはいつも通りだった。僕だけ、変な緊張をしてしまった。やっぱり、そういったところは、女子の方が肝が据わっているのだと思う。

 進路の話は、やっぱりプライベートな面もあるので、当たり障りのないような感じで流すことにした。

智樹「一応、決まってるよ。進路相談室で資料とか見てきたりしてるし。」

橘「本当? それはすごいね。どこを目指しているの?」

智樹「内諸。」

橘「ええ~? いいじゃない。教えてよ。」

智樹「まだ絞っている段階なんで。橘さんは、目途はついているの?」

橘「私? 私は、まだぜんぜんだよ。進路相談室もまだ行ってないしね。でも、佳山くんはすごいね。部活だって、毎日頑張っているでしょ? それで、進路もきちんと考えて。私も見習わなくちゃ...。」

智樹「そんなことないよ。皆、自分のペースってあるしね。早く決めたから偉いってわけでもないしね。」

橘「早く決めた人は偉いと思うけどなぁ...。でもさ、佳山くんって、そういうところがモテそうだよね。」

 僕は、思わず周りを見回した。多分、大丈夫だと思うけれど、一応小声にして返す。

智樹「モテないって...。それを言うなら、橘さんの方がはるかにモテるでしょう...。」

橘「だから私、告白は断ったって...。」

智樹「だから、それがモテてるってことでしょ?」

橘「そうだけど...。でも、それなら、祈だって、告白されたりするし。」

智樹「祈って、水沢さんのこと?」

橘「そう。祈だって、告白されて、断ったりしてるんだよ。」

 僕は頭が混乱してきた。橘さんは何を言っているのだろう?

智樹「そうなの? 何で断ったのかな?」

橘「そうだよね。そう思うよね。バレー部のキャプテンだよ。断る必要なんてないのに...。」

 バレー部のキャプテンって、中条か...。確かに、レベル高いなぁ...。体育のとき、一緒のチームになって、僕がミスしまくったときにフォローしてくれたしなぁ...。

智樹「なんで断ったの?」

橘「それが分からないのよ。好きな人なんていないのに、好きな人がいるって断ったんだって。」

智樹「う~ん、まあ、それは、断るときの常套手段だしね...。」

橘「でも、断ることないと思わない? ちょっと付き合ってみて、合うかどうか試してみてもいいでしょう?」

 僕はさらに混乱してきた。

智樹「じゃあ、橘さんも告白断らずに、試しに付き合ってみればよかったじゃん。」

 僕がそう言うと、橘さんは怒ってしまった。

橘「なんでそんなこというのよ?」

智樹「いや、だって...。えっ?」

橘「それじゃあ、佳山くんはどうなのよ? 告白されたら、付き合うの?」

 なんでそうなるのだろう?

智樹「いや、付き合わないと思うけど...。」

橘「何でよ? 試しに付き合ってみてもいいんじゃない?」

 橘さんの理屈は訳が分からない。

智樹「いや、だって、僕、好きな女子(こ)だっているし。」

橘「えっ...。」

 橘さんは、驚いたようだ。失礼だなぁ...。僕だって誰かを好きになったりするのに。

智樹「だから、告白されても断りますよ。」

橘「だ、誰?」

智樹「言わないよ。橘さんの知らない人だよ。」

橘「同じ学年?」

智樹「違うよ。言いません。」

橘「同じ部活の女子(こ)?」

智樹「......言いません。」

橘「......そっか...。」

智樹「そうです。もういいでしょ? この話題は。」




第四項

 めんどうくさいことになった。

 中条とその取り巻きの後についていきながら、当たりを警戒する。放課後の校舎は、人気が少なくてどこか不気味だ。

中条「ここだ。」

 そう言って、中条たちは空き教室に入る。僕もそれに続いて入る。

智樹「で、何なの? こんなところまで呼び出して。」

 中条は、こっちを睨みながら言う。

中条「お前、最近、水沢や橘と仲が良いらしいじゃないか?」

 全部で...、四人か。微妙だな。中条とその仲間。他には、そうか、水沢や橘にホの字のやつらか。実に、めんどうくさい。

智樹「だったら、何?」

 僕は少しばかり、むかついてきた。穏便に済むように取り計らってもよいが、まあ、いいか。四人がかりで、一人を取り囲むっていう発想がいけすかない。ちょっとばかり挑発してみて、反応を確かめよう。

智樹「僕も見る目がないなぁ。中条さ、体育でバレーのとき、僕が失敗したときにフォローしてくれたじゃん? あれ、けっこう嬉しかったんだよね。でも、こんなことして、ちょっとガッカリなんだけど?」

 中条は、僕から視線をズラす。

中条「そのことは、関係ないだろ。」

智樹「はあ、そうっすか。で? どうするの?」

 僕が怖気づかずにいることで、相手はうろたえ始めた。

雑魚「だ、だから、お前は大人しくしてればいいんだよ。」

 モブが何か言っている。身長は中条よりは低いけど、この中では一番強そうだ。俺はそのモブを睨みながら近づく、そいつの目の前まで。

智樹「えっと、君、誰? ずいぶんと偉そうだけど?」

雑魚「ああん?」

 そいつは、僕の襟元をつかんだ。しめしめ。予想通りの行動をしてくれるものだ。襟元を掴んでいるそいつの拳の上から、僕は自分の拳を重ねて思い切り握りこむ。

智樹「グッ!?」

 うめいたそいつの拳を襟元から引きはがし、拳を上から握ったまま引っ張り、そいつの体を移動させ、自分の体と位置を入れ替える。握りを拳から手首へと変更し、そいつの腕を後ろ手にし、床へ押し付ける。自分の体を窓際に持っていき、他の三人と向かい合うように位置取りする。

智樹「動くな!」

 僕は素早く大声で叫ぶ。と、同時に、腕をひねりあげ、悲鳴を出させる。それで、うまいこと三人の足が止まった。

智樹「余計な動きをすると、こいつの骨、折るよ?」

 腕をギリギリの位置までねじ上げ、うめき声が出るようにしながら言った。

智樹「ああ、大人しくしてね。こんなことで、骨、折られたくないでしょ?」

 中条が、震えた声で言う。

中条「ほ、骨とか折ったら、問題になるぞ。」

 僕は、思わず笑いそうになった。いや、事実、僕の顔には笑みが浮かんでいる。

智樹「笑わせるね。4対1だよ? 正当防衛が成り立つよね? まあ、僕も注意されるだろうけど、どっちの被害が大きいか、分かるでしょ?」

 三人の顔には焦りが浮かんでいる。僕は内心、うまいこといったと思っていた。さすがに、三人以上で同時に飛び掛かられたら、まずかった。あとは、この状況をどうおさめるかだな。

智樹「少し、下がれ。」

 低めの声で命令する。

 三人は、お互いに顔を見合わせている。

智樹「もう一度だけ、言う。少し下がれ。こいつを痛めつけるぞ?」

 僕がそう言うと、三人はおずおずと動き出す。十分な距離が取れると、僕は三人を睨んだまま、ゆっくりと告げる。

智樹「じゃあ、いつまでもこんな茶番に付き合っていられないんで、僕はもう行くから。」

 そう言って。腕のひねりを調整し、床に押し付けていたやつを回転させる。タイミングをみはらかって、わき腹に蹴りを叩き込む。そいつの口から、醜い音が漏れる。動揺する三人を睨みつけながら、言う。

智樹「何? 僕はもう行くから。」

 地面でのたうっているやつを後に、僕は三人の方へ向かう。出口へと向かう。一人目とすれ違い、続いて二人とすれ違う。最後の中条の横を通り過ぎるとき、歯が折れない程度の力で、下方向から横顔をぶん殴ってやる。中条が転がるのを見てから、残りの二人を睨みつけて、僕は空き教室を出ていった。

 これは、それだけの話。

 特に意味のない、どうでもよい話。




第五項

 大学の入試試験が終わった後、水沢が声をかけてくれた。

祈「お疲れ様。佳山くん。」

 僕も笑顔で返す。

智樹「お疲れ。」

 僕らは並んで歩き出す。

智樹「水沢はどうだった?」

祈「たぶん、大丈夫だと思う。智樹くんは?」

智樹「僕? 僕は、どうだろうなぁ...。分からなかったところも結構あったし...。まあ、人事を尽くして天命を待つ、って感じかなぁ...。」

祈「受かったら、二人ともここの大学生だね。」

智樹「そうだなぁ...。そうなれば良いけどね。」

祈「多分、そうなるよ。そんな気がするの。」

智樹「そうなれば良いけどね...。」

 僕らはしばらく無言で歩いて、目的のバス停までやって来た。

祈「やっぱり、混んでいるね。ねえ、智樹くん。せっかくだし、ちょっとコーヒーでも飲んでいかないかな?」

 コーヒー? まあ、今日くらいは良いかもな。そう思って、僕はうなずく。近くの店に入って、コーヒーを飲む。一口飲んで、一息つく。

祈「ねえ、智樹くん。」

 そう言って、水沢は僕をじっと見ている。

智樹「何?」

祈「あの日のこと、覚えている?」

智樹「......いつの話かな?」

 水沢は僕から少し視線を外した。

祈「智樹くんは...、ううん、そうだね。...じゃあ、智樹くんは、大学に入ったら、何かしたいこととかある?」

智樹「したいこと? けっこうあるかなぁ...。何かサークルに入るのもいいしね。本とかもたくさん読みたいなぁ...。旅行とかもいいよね。貧乏旅行になるだろうけどね(笑)」

祈「そうかぁ...。旅行とかいいよね。」

智樹「水沢は? 何かしたいことあるの?」

 水沢は、しばらく考えていた。僕は、静かにコーヒーを飲んでいる。

祈「......私は、何がしたいんだろうね?」

智樹「...僕は、水沢じゃないんで、分からないよ。それは、水沢が決めることだよ。」

祈「......そうだよね。」

智樹「うん。そうだと思うよ。何もしたいことがないのなら、何もしなければ良い。何かしたいことがあれば、すれば良い。何をしたいのか分からないなら、考えれば良いよ。もし水沢が困っているなら、相談くらいはいつでも乗るよ。」

 僕と水沢は、お互いに少しだけ笑う。

祈「ねえ、智樹君。一緒に大学に合格したら、そのときは、これからも仲良くしてくれる?」

 僕は、一呼吸おいてから、はっきりした発音になるように心がけて応えた。

智樹「もちろん。」

祈「うん。ありがとう。」

 そう言って、水沢は静かに微笑んだ。






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