『思想遊戯』第二章 第五節 水沢祈の視点(大学)
あらゆる禍いにみちた瓶の中に
宝石のごとく貴重な希望が保存されているはずはありませんから。
ブルフィンチ『ギリシア・ローマ神話集』より
第一項
智樹「なあ、水沢。」
祈「何かな?」
二人歩いて帰りながら、智樹くんは私の名前を呼んだ。
智樹「入るサークル、決まった?」
祈「入ることが前提なの?」
智樹「まあ、普通はどこかに入るんじゃない?」
祈「そうかもね。」
智樹「水沢は、どこにも入る予定ないの?」
祈「どうだろうね?」
智樹「どうだろって、僕に訊かれてもなぁ...。」
祈「智樹くんは、どうするの?」
智樹「僕? 実はねぇ、新しいサークルを作ろうとしているんだ。」
そう言って、彼は笑うのだ。その笑顔が素敵で、私は少し不安になる。
祈「新しいサークル? なんで? なんていうサークル?」
智樹「"思想遊戯同好会"っていう名前のサークル。特にテーマを限定せずに、議論し合うサークルだよ。」
私は歩みを止めた。隣の智樹くんも私に合わせて歩みを止める。
祈「どうして?」
智樹「どうしてって、面白そうだから。」
祈「だから...。」
智樹「ええとね、最近、上条一葉さんって人と仲良くなったんだけど...。その人、すごく博識で話していると面白い人で、その人にいろんなこと教えてもらいたくて、その人といろんなことを話したくて。それなら、サークルを作っちゃおうって考えたんだよ。」
そう言って、彼は笑うのだ。
祈「それで?」
智樹「それでね、サークルを作るには5人必要で、入ってくれるメンバーを探しているんだよ。」
祈「それで?」
智樹「それで、もしまだ入るサークルが決まっていないんなら、水沢に入ってほしいなって...。」
そう言って、彼は笑うのだ。
私は黙って歩き出す。彼も、私に合わせて歩き出す。
祈「...ちょっと、考えさせて。」
第二項
祈「こんにちは。」
私は、噴水で本を読んでいる一つ年上の先輩に話しかけた。その人は、読んでいる本から目を離し、しばらく私を見詰めてから言った。
一葉「・・・・・・・・・こんにちは。失礼ですが、どちら様でしょうか?」
私の鼓動が、ドクンッと鳴った音が聞こえた。
その女性は、とても美しい人だった。それに加え、彼女の瞳が私を見据えたとき、私は、私の奥が覗かれたと感じた。
正直、屈辱だ。
この人は、私の勘が言っている、恐ろしい女性だ。それも、実際は恐ろしいということを隠しているタイプだ。気づく人だけが気づく。牙を隠している。そして、後ろからそっと牙を立てるのだ。
私は、鼓動を必死に押さえて、平静を装って応えた。
祈「私は、水沢・・・祈と申します。佳山智樹くんの友達と言ったら分かりますか?」
私の言葉に、彼女は眉一つ動かさなかった。彼女が何を考えているのか、まったく読むことができない。
彼女は、とても長い時間、黙って私を見詰めてから、言った。
一葉「そうですか。智樹くんのお友達ですか。」
私は、少しばかり、いや、かなり動揺した。この女性は、智樹くんを名前で呼んだ。智樹くんは、この女性に名前で呼ぶことを許したのだろうか?
私は呼吸を整えてから、彼女に話しかけた。
祈「そうなんです。智樹くんから、面白そうな人がいるって聞いて、どんな人なのかなって思って。」
私は彼女の様子をうかがったけれど、やはり彼女はわずかな感情の起伏も見せない。
一葉「・・・そうですか。それで、私に会いに来たのですか?」
彼女は静かにそう訊いてきた。
私は、一瞬、何と答えるべきか迷った。迷ったけれど、彼女をしっかりと見詰めて、言った。
祈「そうです。智樹くんからあなたのことを聞いて、どんな人か確かめにきました。」
私がそう言うと、彼女は静かに微笑んだ。思わず見とれそうになる。ああ、この人はとても美しい人だ。でも、美しい薔薇には棘がある。私の心に浮かんだこの言葉を、そのまま彼女にぶつけてみたらどうだろう。そんなことが考えに浮かんでは消えた。
一葉「もう一度、お名前を。」
祈「えっ?」
一葉「先ほど、よく聞こえなかったので、もう一度あなたのお名前を教えていただけませんか?」
彼女は静かに私に言った。彼女の声は平静そのものだったけれど、私には子供をあやす母親のように響いて・・・・・・、正直なところ、不快を感じた。
落ち着け。ただ、名前を聞かれただけだ。まだ、何も始まってはいない。
祈「私の名前は、水沢・・・祈・・・です。」
一葉「良いお名前ですね。」
彼女は、やっぱり静かに言葉を並べる。私は、自身の気が立ってくるのを抑えることができない。
祈「そうでしょうか? それなら、上条さんのお名前も素敵だと思います。樋口一葉みたいで。」
私は、勢いのまま言葉をはき出す。そんな私の様子など関係ないかのように、彼女は静かにゆっくりと答える。
一葉「ありがとうございます。樋口一葉のイチヨウで、カズハって読むのは、自分でも気に入っています。」
そうして彼女は微笑むのだ。
私は、自分の劣勢をありありと感じた。こんな当たり障りのない簡単な会話。でも、私にははっきりと分かる。この女は危険だ。恐ろしいと言ってもいい。怒りと恐怖が入り交じっている感情の渦の中、私は溺れそうになっている。
私が黙って彼女を睨んでいると、彼女は優しく言った。
一葉「せっかくなので、座って話しませんか?」
私は、しばらく経ってから、こくりと頷いた。
私と上条一葉。
二人は大学内にある噴水のところのベンチに座り、会話をする。
一葉「水沢さんは、大学には馴れましたか?」
彼女は、当たり障りのない話題を振ってきた。
祈「ええ。だいたい分かってきました。大学って、高校までとは違って、なんかのびのびできる感じがします。」
そう言って私は笑みを作る。そんな私を見て、彼女は静かに微笑む。
一葉「そうですか。それは良かったです。水沢さんは、大学に入って何かやりたいこととかあるのですか?」
祈「ええ、まあ、色々と、あります。」
一葉「訊いても良いですか?」
断ろうかと思ったけれど、さすがに私から話しかけておいてそれはないだろうと思い直す。
祈「ええ。こう見えて私、高校時代はけっこうな優等生を演じていたんです。それに飽き飽きだったので、大学では自分の思うように生きてみようかと。」
そう言って私は彼女の瞳を見つめた。綺麗な瞳だ。
一葉「思うように生きてみたいのですか?」
祈「そうです。思うようにです。」
彼女の瞳は、まだ、底が見えない。
一葉「水沢さんの思うようにとは、どういったことなのでしょうか?」
彼女は私に問う。
祈「どういったことって・・・。」
彼女が私を覗き込む。
一葉「例えば、授業をさぼったり、バイトしてみたり、恋をしてみたりすることですか?」
そう私にささやく彼女に、私は、かつて私の中にいた悪魔の面影を見つけた。おもわず私は、まばたきを二度繰り返す。
一葉「どうかしましたか?」
祈「い、いえ。」
私は、何を考えているのだろう...?
祈「えっと・・・。」
一葉「思うように生きてみれば良いのではないでしょうか。水沢さんの人生は、水沢さんのものです。思うように生きたいのなら、そうすればよいのではないでしょうか?」
彼女は、そう言って私を見つめる。
気付け、私。彼女の意図を。彼女の言葉は、きっと、重いのだ。
祈「その意見には、何か棘がある気がします。」
私は彼女を睨む。彼女は静かに私を見返す。
一葉「棘・・・、ですか?」
祈「そう、棘です。綺麗な薔薇には刺があるそうですよ。」
私がそう言うと、彼女は静かに微笑む。
一葉「そうですか。それは、面白いたとえですね。」
私はひるまずに語る。
祈「私の中には、昔は悪魔が棲んでいました。」
私がそう言うと、彼女の表情が微妙に変化したのを私は見逃さなかった。
一葉「悪魔・・・ですか・・・。」
私はうなずく。
祈「そうです。悪魔です。私の中には悪魔がいました。私は、私の内で育っている悪魔を怖れていました。そして、私は、あなたの中に、かつて私の中にいたものと同じ匂いを感じています。」
私がそう言うと、彼女は、とても嬉しそうに微笑んだ。
一葉「それは、とても素敵なお話ですね。」
私は、思わず彼女を睨みつけてしまった。
祈「どこが・・・、素敵な話なんですか?」
彼女は、黙って私を見つめている。その瞳に吸い込まれそうになる。危険だ。私は意識を強く保ち、彼女の目を見返す。
一葉「水沢さん。私は、明日も同じ時間にここにいます。よろしいでしょうか?」
祈「分かりました。明日なら、大丈夫です。」
それを聞くと、彼女はベンチから立ち上がった。
一葉「それでは、また明日。」
そう言って、彼女はゆっくりと去って行った。
第三項
私がベンチに座って噴水を眺めていると、上条さんが話しかけてきた。
一葉「こんにちは。」
彼女は、穏やかな声で私に語りかけた。この人は、危険だ。あの表情、あの仕草、あの憂い。世の男どもを魅了するに十分だ。
祈「こんにちは。」
私は、彼女のほほ笑みに応える。
一葉「早かったですね。」
祈「講義が少し早く終わったので。」
一葉「そうですか。」
そう言って、彼女は私の隣に座る。彼女は、私をのぞき込んで、こう言った。
一葉「あなたは私に似ているかもしれません。」
私は、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
祈「どこが似ているのですか?」
私は、できるだけ感情を抑えて冷静を装って彼女にたずねた。彼女は、静かに語った。
一葉「あなたの精神は、どこか冷たいほどに透き通っているような気がします。」
彼女が私にささやく。
一葉「あなたには、私の心の中を少しだけ教えてあげます。でもその前に、あなたの心の中を私に教えてください。」
彼女のその言葉に、私は凍りつく。とても危険なことだ。とても、まずい。
私の心臓は、最大限の警報を鳴らしているかのようにバクバクと脈打っている。
一葉「あなたは、なぜ、智樹くんに惹かれたのでしょう? そこには、きっと、かわいらしい少女の気持ちだけではない、もしかすると恐ろしい何かがあったのだと思うのです。」
私は、体がふらつきそうになるのを感じた。力を入れていないと、ふらふらと体が揺れてしまいそうだ。
一葉「智樹くん。彼も不思議な人だと思います。いいえ、不思議というより、変わった人かな。智樹くんは、他の人とは違うものを観ています。だから、智樹くんはとても危ういし、ある意味で魅力的でもあるのだと思います。常識人というよりも、常識を知っている人なのです。ですから、常識的な振る舞いをすることができます。でも、彼は、もっとずっと難しいことを考えています。それは、多分、平均的な人には興味のないことなのです。ですから、彼の興味は世間からは外れています。だから、彼と会話を交わす回数が増えていくたびに、彼の興味と会話する相手の興味はだんだんと隔たっていくのでしょう。そのズレに耐えられなくなった人は、きっと智樹くんから去っていきます。智樹くんと親交を深めるには、彼の興味の少なくとも一端には触れていなければなりません。そうしないと、彼と本当の意味において、友達にはなれません。だから、水沢さん。あなたは、心の中に何かを秘めている。そして、その秘めている何かが、智樹くんと化学反応を起こしたのです。」
彼女はそう言って、黙って私を見つめた。私は、どうしたら良いのだろう? この人が怖い。はっきりと私は恐怖を感じていた。
でも、恐怖以外の感情も私の中にはあった。それは、智樹くんに対して覚えた感情と同じものなのかもしれない。そう、思った。
だから、私はここから、逃げ出すわけにはいかないのだ。
祈「ずいぶんと勝手な推測をしていただいたようですけど、全然違うと思いますよ。」
私は、少し強い口調でそう言った。彼女は、まったく表情をくずさずに、冷静に私に告げる。
一葉「そんなことないと思います。もう少しはっきりと言ってあげます。あなたは、心の中に闇を抱えています。その闇の部分が、智樹くんに反応したのです。そして、それゆえ、あなたはこうして、今、私の前にいるのです。」
彼女は、当り前のことのように言い放った。その姿勢に、その声色に、私は虚勢が無意味なことを悟った。
祈「おもしろいですね。では、私の心の中の闇ってなんですか?」
彼女は微笑む。そのきれいなほほ笑みの裏に、どんな感情が潜んでいるのだろう?
一葉「簡単に要約することは難しいですね。でも、あなたは、あなたの闇に取り込まれることを望んでいたことがあったはずです。そんなとき、智樹くんと会って、あなたはご自身の闇を強く意識するようになった。そのことによって、あなたの人生は、少し違う軌道を描くようになったはずです。それがあなたにとって良いことだったのか、それとも悪いことだったのか、それはあなたがこれからの人生で実感していくことなのでしょう。私は、あなたにとって良かったことだと思っていますが。」
恐怖とも歓喜とも言い難い、得体のしれない感情が湧きあがってきた。
祈「なぜ、そんなことが分かるのですか?」
一葉「言ったでしょう? あなたは私に似ているかもしれない、と。」
私の中の恐怖の度合いが膨らんだ。私と彼女は、似ていない。いや、正確には、彼女の中には、私の闇をとらえるほどの何かがあるのだ。私のこのときの恐怖を理解していただけるだろうか?
私のこの恐怖は、今まで誰も分かってくれない、それどころか、気づいてもくれないと思っていた私の感情が、私の闇が、見透かされているという恐怖だ。この恐怖の深さを、どれだけの人が同じ水準に立って共感してくれるのだろうか?
祈「先輩と私は、似ていません。ただ、先輩の脳みそを解剖して、その中身をじっくりと検査してみたいですけどね。」
私がそう言うと、彼女は穏やかに笑うのだ。
一葉「ふふふっ。それは良いアイディアだと思います。」
ああ、私ははっきりと理解した。これは、力量差がある戦いなのだ。いや、だから、戦いですらなかったのだ。人知れず自分は頭が良いと思っていた井の中の蛙が、本当の意味でやりこめられてしまうという、滑稽で情けない喜劇でしかないのだ。
一葉「あなたの中の闇は、智樹くんに惹かれました。それは、分かります。だから、あなたは、私に会いに来たのです。でも、智樹くんは私の大事なお友達なのです。」
彼女は、一葉さんは、私をしっかりと見つめて言った。
ああ、彼女の言うことはもっともだ。私は迂闊だったのだ。私の内に潜む闇の部分どころか、その闇の部分を心ひそかに優越感にしてしまっていたというところまで曝されてしまった。
恥ずかしい。でも、
祈「そうですね。でも、智樹くんは、私にとっても大事な友達です。」
私は、そう、彼女に告げたのだ。
一葉「それは、素敵ですね。」
彼女は本心から微笑んだ、ように見えた。
祈「なっ、あ、あなたは何を言っているのですか?」
一葉「私は、水沢さん、あなたともお友達になりたいのです。だから、智樹くんが作ろうとしているサークルに入ってください。」
私たちは、見つめ合っている。彼女は、どこまで見据えているのだろう?
祈「分かりました。」
そう、私は応える。
一葉「水沢さん。"思想遊戯同好会"は、議論をするサークルです。あなたと議論できることを楽しみにしています。」
祈「分かりました。」
彼女は、ゆっくりとうなずく。
一葉「ところで、水沢さん。パンドラの匣という神話を知っていますか?」
祈「...知っています、と言っても、聞いたことがあるくらいですが...。」
一葉「私は、サークルの第一回のテーマに、このパンドラの匣を推したいと考えています。」
そう言うと、彼女は立ち上がった。
祈「あの...。」
一葉「それでは、今日のところはこれで。水沢さん、次回お会いするのは、サークルの発足会のときだと思います。そのときを、楽しみにしています。」
第四項
智樹くんから連絡が来た。いよいよ、新しいサークルが始まる。
講義後に指定された教室へと向かう。
祈「あの、こんにちは。水沢祈です。」
私が教師に入ると、智樹くんが手を挙げて迎えてくれる。隣にいる友達を紹介してもらう。
智樹「こいつは、峰琢磨。同じ学部の友達。」
琢磨「あっ、えっと、峰琢磨です。よろしくお願いします。」
彼が峰くんか。一応初対面なので、挨拶をして雑談して過ごす。しばらくして、残りの2名がやってきた。
一葉「こんにちは。上条一葉です。こっちは、ちーちゃんです。」
上条さんが、もう一人を紹介した。ちーちゃんって...。今までのイメージとのギャップに、私は面食らう。
千里「ちーちゃん言うな! えっと、高木千里です。はじめまして。」
もう1名は、高木さんという方のようだ。高木先輩、か。落ち着いた感じの人だ。上条さんとは違って、この人とは気軽に話せそうな気がする。
サークルメンバー5名がそろった。私たちは互いに自己紹介し合う。
智樹「まあ、今日はサークル発足の顔合わせということで。幹事長は僕、佳山智樹が、そして副幹事長は上条一葉さんにお願いします。会計は峰琢磨が担当です。水沢と高木さんは、無理にお願いして参加してもらっているので、役職とか気にせず、気が向いたときに参加していただけると助かります。」
智樹くんが幹事長としてしめる。私はこれから先の生活に思いをはせる。一癖も二癖もありそうなメンバーがそろったのかもしれない。そんなことを考えていると、高木先輩と目が合った。
祈「あっ、水沢です。よろしくお願いします。高木先輩。」
千里「よろしく。水沢さん。水沢さんは、どうしてこのサークルへ?」
祈「あ、あの、智樹くんに誘われまして。」
私は当たり障りのないように応える。別に嘘は言っていないし。
一瞬だけど、高木先輩の表情に微妙な感情が浮かんだ。私はそれに気づかないようにし、静かに微笑みを返した。
自己紹介がてらの雑談が終わった頃を見計らって、上条さんが提案した。
一葉「それじゃあ、"思想遊戯同好会"の結成を記念して、一つ何かテーマを設定して論じてみませんか?」
さっそく智樹くんが食いつく。
智樹「いいですね。それでは、上条さんは何かありますか?」
祈「パンドラの匣ですよね?」
私の発言に反応し、智樹くんがこちらを見た。私は横目で彼の視線を感じながらも、上条さんを見据えている。上条さんは、私を見て微笑んだ。
一葉「そうですね。パンドラの匣をテーマにして、ちょっと論じてみましょうか。」
第五項
上条さんは、教室の黒板側にある前方の台に上った。彼女は大仰に、パンドラの匣について述べていく。
皆の反応は様々だ。智樹くんは、楽しそうに彼女を見ている。高木先輩は、慣れた風で静かに彼女を見ている。峰くんは、ポカーンといった感じで彼女を見ている。私は、静かに表情を崩さず冷静に彼女を見る。
彼女が語り終えると、彼女はゆっくりと台から降りて、近くの席に座る。
一葉「さあ、テーマは"パンドラの匣"です。このテーマをたたき台にして、議論してみましょう。」
ここで、峰くんがおずおずと発言した。
琢磨「あの、ここでは多分、俺が一番頭悪いと思うので質問しておきたいのですが、議論って、具体的にはどうやるのでしょうか? パンドラの匣をたたき台にするって、それって話としては完成されているものでしょ? それで、どうやって議論するのですか?」
智樹くんが答える。
智樹「琢磨は、ディベートみたいなのを想像してるんだろ? まあ、テーマは何でもありなんで、ディベートみたいのでも良いことは良いんだよ。だから、分かりやすく死刑制度の是非についての議論とかでも良いんだ。で、今回のテーマは"パンドラの匣"なんだけど、こういった歴史的な物語の場合は、この話の教訓は何だろうとか、この話ができたときの歴史的背景はどうなっていたのかとか、この話が後世でどのように利用されてきたのかとか、そういったことを好きに話せば良いってわけ。」
琢磨「ふ~ん。なるほどねぇ。」
千里「峰くんは、パンドラの匣は知っているの?」
ここで高木先輩が議論に乗ってくる。
琢磨「あんまり知らないですね。先ほどの上条先輩がおっしゃっていた内容くらいは知っていますけど、それ以上は分かりません。」
私も議論に参加することにしよう。
祈「パンドラの匣の元ネタは、古代ギリシャの詩人ヘシオドスによります。ヘシオドスによると、ギリシャ神話の主神ゼウスが、最初の女性であるパンドラを作って人間に与えたとされています。」
琢磨「その人間って、プロメテウスのこと?」
峰くんが私にたずねる。
祈「いえ、パンドラはプロメテウスの弟のエピメテウスの妻として迎えられたそうです。そうして、あらゆる女性の母となった、と。」
智樹「そのとき、パンドラが神から送られた匣を持ってきたんだっけ?」
今度は智樹くんが、私にたずねる。
祈「ううん。実はオリジナルでは、匣ではなくて甕(かめ)なの。甕の大蓋(おおぶた)をパンドラが開けてしまって、苦難をまき散らしてしまう。パンドラがあわてて大蓋を閉めると、最後に希望のみが残ったと伝えられているのね。」
智樹「へぇ、じゃあさ、甕だったのが途中で匣に変化したってこと?」
祈「そうみたいね。甕だったり、瓶(ビン)だったり、匣だったりするみたい。まあ、蓋を開け閉めできるものなら、何でもいいのでしょう。」
千里「そのときどきで、イメージしやすいものが題材にされて論じられているってことじゃないかな?」
高木先輩が意見を出す。なるほど、面白い意見です。
ここで、上条先輩が発言した。手には皮製の手帳がある。
一葉「"パンドラの甕"が、"パンドラの匣"になってしまった原因は、ロッテルダムのエラスムスが1508年に出した『三千の格言』という書物のせいです。この中で、パンドラが開けてしまったものが匣として語られています。」
千里「へえ、ずいぶんと後の時代になってからなのね。」
高木先輩が、いつものことのように応える。峰くんは驚いているようだ。智樹くんは嬉しそうに聞いている。
一葉「そうだね。そもそも、ヘシオドスの著作がラテン語で読めるようになったのは、十五世紀末ごろからなの。だから、パンドラの話自体が、そこまで時代をさかのぼらないとなかなか出てこなかったという歴史的経緯があるの。そして、出てきたらすぐに、エラスムスによって匣という設定にされてしまい、それが定着したということです。」
琢磨「すごいです。よくそこまで知っていますね。」
峰くんが感嘆の声をあげる。
一葉「いえ、興味があったから調べたことがあるだけです。」
手帳を片手に、あっさりと上条先輩は言う。
智樹「いや、やっぱり一葉さんはすごいです。それにしても、このパンドラの匣って、『旧約聖書』の[創世記]の原罪の話に似ているような気がするんですよね。アダムとイブが神に禁じられた果実を食べたから、楽園を追放されたって話と似ているなぁって。」
ここで智樹くんが、別の視点を打ち出す。私もそれに乗って話す。
祈「そうね。そもそもパンドラは、プロメテウスが火を盗んだことに怒ったゼウスが、人間に災厄をもたらすために遣わせた者だし。」
琢磨「んっ? どういうこと?」
峰くんが質問する。
智樹「琢磨って、神話って何のためにあると思う?」
琢磨「何って、科学が発達する前の時代の迷信?」
智樹「まあ、そういった考えでもいいや。とりあえず、世界がなぜこうなっているかは現代では科学的に研究されているわけだけど、神話がその役割を担っていた時代があったってことだね。それで、この世界に悲惨なこととかがあふれている理由が、神話には必要だったってわけ。そういった観点から神話を考えてみるのも、面白いって話だね。」
琢磨「はぁ~。でも、アダムとイブって、最初の男女じゃなかったっけ? パンドラも最初の女性なの?」
智樹「まあ、そこは違う神話の話ってことだな。日本神話でいうなら、イザナギとイザナミが最初の男女になるしね。」
ここで上条先輩が発言する。
一葉「イザナギとイザナミは神世七代(かみのよななよ)の最後に登場する神様です。神世七代の途中から男神と女神が出てくるから、厳密には最初の男女ってわけではないのですけどね。」
琢磨「いろいろと詳しいですね。」
峰くんが感嘆している。
智樹「な? 上条先輩って、すごいだろ?」
智樹くんがなにか得意そうで、ちょっとむかつく。
千里「パンドラって、いろんな題材でネタにされているわよね?」
高木先輩が話をもとに戻そうとしているので、私もそれに乗っかる。
祈「そうですね。例えば私は、太宰治の『パンドラの匣』を読んだことがあります。登場人物がパンドラの匣という物語について解説するのですが、そこではなぜか匣の隅に小さい光る石が残っていることになっていて、しかもその石に希望という文字が書かれていたという設定になっているのです。変な脚色が付け加えられているわけです。先ほど高木先輩がおっしゃったように、その時代でイメージしやすいように題材が加工されているような気がします。」
千里「何で石に希望って文字が書かれていたのかしらね?」
高木先輩がもっともな疑問を投げかける。
祈「そうですね。不思議ですね。その答えになるかどうかは分からないのですが、太宰の『パンドラの匣』では、人間には絶望と言う事はあり得ないと考えられているんですよ。不幸のどん底につき落とされても、人間は希望を求めずにはいられないと語られているのです。そのため、希望が単なる抽象的なものではなく、イメージしやすい石という形を取ったのではないかと私は考えています。」
千里「へぇ、面白いね。あなた、やっぱりちょっと一葉に似ている気がするなぁ。」
その高木先輩の言葉に、私はドキッとする。
祈「そうですか? 自分では分かりかねますけど。高木先輩は、パンドラの匣で何かイメージしたりしないのですか?」
私は平静を装って会話を続ける。
千里「私? 私は、そうねぇ。ヴェデキントの『パンドラの箱』なら見たことあるかな。」
祈「私は、そっちは見たことないです。どういった話なんですか?」
千里「だいぶ前に読んだからかなり忘れているのだけれど、ルルっていう女性が男性たちを次々と破滅させていく話かな。そういった意味で、ルルを人間社会に禍いを撒き散らすパンドラに例えているわけね。」
祈「なるほど。」
千里「でも、パンドラ関連って、女性を悪く仕立てあげている感じがしない?」
祈「あっ、それはありますよね。なんか男目線の勝手な感じがしますよね。」
そう言って、私と高木先輩は、男どもの方を向く。
峰くんは半笑いを浮かべている。智樹くんは、なにやら上の空だ。
祈「どうしたの? 智樹くん?」
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