『思想遊戯』第二章 第六節 佳山智樹の視点(大学)




 つまりゼウスは、

 人間がどれほどひどくそれ以外の禍いに苦しめられても、

 やはり生命を投げすてず、

 たえず新たに苦しめられつづけていくことを欲したのである。

 そのため彼は人間に希望を与える、

 希望は本当は禍いの中でも最悪のものである、

 希望は人間の苦しみを長引かせるのであるから。



 ニーチェ『人間的、あまりに人間的』より



第一項

一葉「ねえ、智樹くん。」

智樹「はい? なんでしょう?」

一葉「もう桜が散りきってしまいましたね。」

 そう言って彼女は、もう花びらが残っていない葉桜を見る。僕は不謹慎にも、その憂いを帯びた横顔に見とれるのだ。

智樹「そうですね。また、来年のお楽しみです。それに、桜は散るからこそ美しいのだと思います。」

 僕は、割と恥ずかしいことを言った。彼女は静かにうなずいてくれた。しばらく僕たちは、黙って葉っぱに覆われた桜の木を見ていた。

一葉「そういえば智樹くん。どこかのサークルに入りましたか?」

智樹「いえ、まだです。一葉さんは、どこかのサークルに入っていますか?」

一葉「いいえ、どこにも。」

 その答えを聞いて、僕は良いチャンスかもしれないと思った。

智樹「一葉さんなら、哲学サークルとか、そういったのに入っているイメージですけど。」

一葉「私も大学に入ったばかりのころは、そういったサークルに入ろうと思っていたので、仮入部とかはしました。でも、なんとなく馴染めなかったというか、結局入らずじまいでしたね。」

 馴染めなかったというより、多分だけど、レベルが低かったのではないかなと僕は思う。もしくは、恋愛関係で一悶着があったかだな。まあ、サークルに一葉さんみたいな人がいれば、恋愛関係で揉めるのは想像に難くない。

智樹「それじゃあ、僕らでサークルを作ってみませんか?」

 僕は、思い切って提案してみた。彼女は、僕をじっと見つめる。

一葉「どういったサークルですか?」

智樹「そうですねぇ・・・。読書サークルとか、哲学サークルとか。一葉さんがしてくれたみたいな話を、みんなで集まってワイワイ楽しむサークルです。楽しそうじゃないですか?」

 彼女は、微妙な表情で言う。

一葉「メンバーは? 私と智樹くんだけですか?」

 うっ、痛いところをつかれた。でも、ここで引き下がるのはもったいない。

智樹「実は、こういう話が好きな仲間がいるんですよ。そいつらも、一葉さんの話とか聞かせてもらえると喜ぶと思うんですよね。それなら、いっそのことサークルにしちゃえばどうかなって。」

一葉「それなら、特にテーマを限定せずに、何でも議論し合えるようなサークルが良いと思います。」

 僕は嬉しくなった。

智樹「それでは、サークル名は何にしましょうか?」

一葉「そうですね。特に凝(こ)る必要はないと思います。何でも良いと思いますよ。」



 正直なところ、僕はかなり困ってしまった。何せ、大学に入ったばかりで友達もそんなにいないのだ。新しく作ったサークルに入ってくれそうな人なんて、すぐに集められるわけがない。

 でも、いつも噴水のところで、彼女が座っているときをみはからって押しかけるという方法には、さすがに限界を感じてもいたのだ。噂にもなってしまうだろうし。それは、まずい。

 だから、サークル仲間とか、ちゃんとした関係性を作っておくことは大事なことというか、必要なことなのだ。ここで、新しいサークルを作れるかどうかは、けっこう重要な分岐点だ。

 大学に入学し、ともに新大学生となった仲間たちの顔を覚えだしたころ、僕も気の合うやつができた。その中に、峰琢磨がいた。まず、こいつを無理矢理に勧誘し、仲間にしてしまおう。

 最初に誘ったときは断られてしまったが、そんなことで諦めるほど潔くはない。琢磨の肩に手を回し、ホールドして食堂で飯をおごりながら頼み込む。はじめは乗り気ではなかった琢磨だが、なんと大学の連合会へサークルの作り方を聞きにいってくれたりして、思った以上に動いてくれた。ありがたい。琢磨が持ってきてくれた情報によると、新しいサークルを結成するのには、最低でも5人必要ということらしい。琢磨を入れたとして、あと2人か。さて、どうしたものか...。




第二項

 僕は、水沢をサークルに誘ってみることにした。そもそも、誘えるレベルの知り合いが、琢磨と水沢くらいしかまだいない。これから友達を増やしていかないと...。

 水沢の帰り際を狙って、一緒に帰ることにする。その帰り道に、水沢にサークル勧誘してみる。

祈「...ちょっと、考えさせて。」

 水沢の返答はそんな感じだった。う~む、どうしよう...。

 琢磨は、たぶんいけると思っていたけど、水沢は微妙だよなぁ。考えるって言ってもらえただけでも、想像以上に良い結果だとは思うけど。まあ、考えてくれるってことで、また頼み込んでみるかなぁ。でも水沢って、押しだけじゃ、どうしようもないんだよなぁ。何か、決め手がないとダメかなぁ。

智樹「ええと、今のところ、2人くらいはいけそうです。ですから、僕と一葉さんを合わせると4人ってことで、あと1人なんですね。」

 今後どうしようかベンチに座って悩んでいると、偶然にも一葉さんが通りかかり、声をかけてくれた。メンバー集めに四苦八苦している今は、微妙に顔をあわせづらい。

一葉「そうですか。では、どうにかなりそうなのでしょうか?」

 僕は、どう応えたらよいか悩んだ。

智樹「ええとですね、もう1人心当たりあったんですけど、他のサークルに入っちゃいまして、ちょっと困っているところです。申し訳ないのですが、一葉さんの方は、誰か入ってくれる人に心当たりはないでしょうか?」

 一葉さんは、感情の読めない表情で黙って僕を見ている。ううっ、何か、いたたまれない...。僕も黙って、お互いに見つめ合う形になる。何か、言い知れぬ圧迫感がある...。僕が緊張に耐えかねて、とりあえず何か言おうとすると、先に一葉さんの方から口を開いた。

一葉「1人なら、心当たりがあります。ちょっと聞いてみますね。」

智樹「本当ですか? それは...、ありがたいです。」

 僕は一葉さんと連絡先を交換した。

 これで、あとは何が何でも水沢を説得しなければいけなくなった。水沢を説得し、サークルを設立して、大学生活を楽しむのだ。

 探してはいるんだけど、水沢と会えない日が続いた。どうやら、講義なども休んだりしているようだ。代筆は頼んでいたりするので、そこらへんはさすがというべきなのだが...。

 そんなある日、やっと学内で水沢を見つけて、僕は駆け寄った。

智樹「よお、水沢。あのさあ...。」

祈「智樹くん。私、サークルに入るよ。」

 しまった。遅かったか。ここ数日は、そのための用事で会えなかったのだろう...。

智樹「えっ、そうなの? それは残念...。」

 水沢は、あきれた顔をした。

祈「そうじゃないよ。"思想遊戯同好会"に入るって言ってるの。」

智樹「本当? えっ? マジ?」

 僕は、かなりバカっぽい返し方しかできなかった。水沢はやれやれといった感じで、僕に言うのだ。

祈「だから、これからもよろしくね。」

智樹「あ、ああ、よろしく。」

祈「じゃあ、日程とか、細かい予定とか決まったら教えてね。」




第三項

 一葉さんから連絡が来て、残りの1人が決まったことを告げられた。これで、無事に5人のメンバーがそろったことになる。

 琢磨と書類を整理して、連合会へ提出。仮登録が認められた。幹事長は僕で、副幹事長は一葉さんにお願いした。琢磨には無理を言って会計になってもらった。いろいろと申し訳ない。

 まずはメンバー5人の顔合わせだ。教室を予約し、各人に連絡し、いよいよサークル"思想遊戯同好会"の始動だ。

 その日、僕は最後の講義を受けた後、琢磨と一緒に借りた教室へと向かった。教室でしばらく待っていると、水沢がやってきた。琢磨と水沢の自己紹介をすませると、次に一葉さんと高木さんがやってきた。高木さんとは、僕も初対面だ。

 一葉さんは、いきなり高木さんのことを「ちーちゃん」と紹介したので、僕はかなり驚いた。高木さんも一葉さんに文句を言っていた。何やら、一葉さんの新しい一面を垣間見た気がする。僕は高木さんに自己紹介し、他のメンバー同士の自己紹介もすませる。高木さんは、一葉さんとはまた違ったタイプの美人だ。眼鏡が知的な印象を醸し出している。

智樹「まあ、今日はサークル発足の顔合わせということで。幹事長は僕、佳山智樹が、そして副幹事長は上条一葉さんにお願いします。会計は峰琢磨が担当です。水沢と高木さんは、無理にお願いして参加してもらっているので、役職とか気にせず、気が向いたときに参加していただけると助かります。」

 僕は幹事長として、サークル発足を皆に告げる。ここから、僕の新しいサークル活動がはじまる。ここから大学生活を、より充実したものにしていきたいなぁ。




第四項

 サークル発足の第一弾として、まずはテーマ"パンドラの匣"で議論することになった。一葉さんのパンドラの匣の説明から、議論が開始となった。

 話が続いていき、水沢がパンドラの匣の話に詳しいことに僕は驚いていた。

祈「......そこではなぜか匣の隅に小さい光る石が残っていることになっていて、しかもその石に希望という文字が書かれていたという設定になっているのです。変な脚色が付け加えられているわけです。先ほど高木先輩がおっしゃったように、その時代でイメージしやすいように題材が加工されているような気がします。」

 水沢が太宰治の『パンドラの匣』の話をしている。

千里「何で石に希望って文字が書かれていたのかしらね?」

 高木先輩が水沢の話に応えている。

 石...。希望...。

 僕に、あの日の出来事が襲い掛かる。



 「この石は"虚無"です。」


 そう、彼女は言ったのだ。

 石は、虚無と希望をあらわす?

 石、石、石。

 石は虚無にもなり、希望にもなる?

 石、物、具体的な物体。

 具体的なものが抽象的なものに。

 それは比喩?

 比喩表現が意図すること。

 意図は伝達を前提。

 そこには、彼女の意図が...。



祈「どうしたの? 智樹くん?」

 水沢の声で、ハッと我に返る。僕は、何を考えていた?

智樹「いや、ごめん。何でもない。」

祈「本当?」

 誤魔化すために、思いついたことをそのままに話す。

智樹「なあ、パンドラって、その後どうなったのかな?」

祈「えっ?」

智樹「だから、パンドラ。匣を開けた後に、どうしたのかなぁって...。」

琢磨「ああ、確かに気になるよな。どうしたんだろうな?」

 乗ってくれたのは、琢磨。サンキュ。

祈「ヘシオドスは、パンドラのその後は記述していなかったと思うけど。」

 水沢も話に乗ってくれる。

智樹「まあ、そうなんだろうけどね。それでも、どうなったのかなぁって気になるわけよ。」

祈「どうもなってないんじゃないかなぁ。そのまま、普通に暮らしたんじゃないかなぁ?」

智樹「そうかもしれないけどね。」

 僕は、日本神話のイワナガ姫のことを思い出していた。神話において、ある種の不幸を担う女性は、その役割を演じて不幸を演出する。そこで、その女性の役割は終わるのだ。しかし、その女性にだって、その後の人生があるはずだ。

 いや、パンドラもイワナガ姫も架空の登場人物でしかない。僕は、何を考えているのだろう? 少し混乱しているのかもしれない。

 パンドラについて各人の意見がいくつか出たところで、一葉さんが発言した。

一葉「アメリカの作家のブルフィンチが、パンドラの匣を紹介するときに面白いことを言っています。」

智樹「どんなことですか?」

 僕は続きをうながす。

一葉「まずブルフィンチは、通常の解釈、つまり蓋をあけると肉体的および精神的な禍(わざわい)が飛び出し、最後に底の方に希望が残った話をします。その次に、別の説を提示します。それは、箱の中には神々から贈られた祝いものがつまっていて、箱を開けると祝いものが逃げ去って希望だけが残ったという話です。ブルフィンチ自身は、後者の方がもっともらしいと言っています。前者では、禍の中に希望があるのは変だから、というわけです。」

琢磨「なるほど。」

 琢磨がうなずく。こいつも、なんだかんだ言って理解が早くて助かる。

一葉「歴史的に見ても、パンドラの甕なり匣なりの容器には、あらゆる悪が入っていたとする説と、あらゆる善が入っていたという説に分かれています。善悪が混在して入っていたというのは、歴史的には見当たりません。ですから、容器の中には善が詰まっていたのか悪が詰まっていたのかの二択になります。ここで、重要なポイントは最後に希望が残ったという点です。」

千里「それだったら、ブルフィンチがいうように、善が詰まっていたってことにしかならないんじゃないかな? 悪いものが詰まっていて、それが飛び出していって、最後に希望が残ったっていうのは確かに変だもの。」

 高木先輩が、僕と同じ考えを表明した。僕も横でうなずく。

一葉「そうかもしれないけど、違う可能性も考えることができるよ。」

千里「例えば?」。

一葉「例えば、ニーチェが面白いことを言っているの。希望は本当は禍(わざわい)の中でも最悪のものである、と。」

 僕は少しゾクッとした。

智樹「ニーチェは、もしかして、希望が悪に分類されると考えていたということですか?」

一葉「はい。そうですね。少なくとも、ニーチェはそう考えていたみたいです。つまりゼウスが、人間がどれだけ禍によって苦しめられても、自殺をせずにさらに苦しみ続けるように望んだという説です。そのために、ゼウスは人間に希望を与えたというのです。希望は、人間の苦しみを長引かせる効果があるからです。」

 彼女の透き通った声が、少なくとも一つの真実を語る。その彼女の声の響きと相まって、僕は怖くなる。僕は、何が怖いのだろう? 僕は、何を怖れているのだろう? その対象の不明確さが、僕の恐怖を倍加させる。

祈「つまり、パンドラの匣には、悪が詰まっていて、最後に残った悪が希望だったというわけですね?」

 水沢が冷静に言葉を返す。

一葉「はい。そうですね。少なくとも、ニーチェにとっては。」

祈「ゼウスの意図が正しく機能するためには、人間自身が、その希望を悪ではなく善だと思っていなければなりませんよね? 様々な悪が飛び出し、最後に残ったのが悪の一つではなく、善である希望だと。そのように人間が思っていないといけない...。」

一葉「お見事です。水沢さん。」

 そう言って、一葉さんは水沢に賛辞をおくる。これには、高木先輩も驚いているみたいだ。僕と琢磨は、めっちゃ驚いているわけですが。

一葉「実はですね、水沢さん。もう一つ面白い解釈があるのです。聞いていただけますか?」

祈「...どうぞ?」

 一葉さんは、手帳を見ながら話し出す。

一葉「『ランダムハウス英和大辞典』の第二版には、パンドラの匣についての新しい解釈が示されています。それは、匣にとどまった希望とは未来の予知能力であるという定義です。」

祈「.........。」

一葉「これが、どういう意味か分かりますか? 水沢さん。」

 水沢は、大きく深呼吸している。それから、ゆっくりと視線を一葉さんと合わせ、話し出す。

祈「それはおそらく、希望そのものが、未来を知らないことに基づいているからでしょう。」

一葉「お見事です...。」

 二人は、黙って見つめ合っている。

 ここで空気を読まず、というより、空気を読んでおずおずと琢磨が口をはさむ。

琢磨「...すいません。よく分からないのですけど...。」

 それを受けて、一葉さんが解説を行う。

一葉「希望というのは、未来への期待にかかっているということです。未来は良くなるかもしれないし、悪くなるかもしれない。それが分からないから、人間は未来が良くなるように努力します。ですが、完全な未来予知ができてしまうと、未来はすでに決まったことになってしまい、改善の余地がなくなってしまいます。未来は、こうあってほしいものから、そうならざるを得ないものに変化してしまうのです。未来が固定され、変更できないものになってしまっては、人間は希望を抱くことができない、ということです。」

 琢磨はコクコクとうなずいている。

琢磨「なるほど~。」

智樹「では、希望が未来予知だとしたら、匣に入っていたのは善悪のどちらになるのですか?」

 浮かんだ疑問を投げかける。

一葉「智樹くんは、どちらだと思いますか?」

智樹「僕は...、正直分かりません。」

一葉「そうですか・・・。」

智樹「ただ、敢えて言えば、やっぱり禍のような気がしますけど。」

一葉「そうですか。智樹くんは、未来予知を悪に分類しているわけですね。では、水沢さんはどうですか? 智樹くんの意見に賛成ですか?」

 僕は水沢を見た。水沢は僕の方を見ずに、一葉さんを見つめたまま言った。

祈「確かに、そのように考えることもできます。未来予知は悪に属するものだと。けれども、...。」

一葉「けれども?」

 一葉さんが、可愛らしく首をかしげて聞く。

祈「...けれども、未来予知は善だと考えることもできると思います。パンドラの匣に最後に残された希望が未来予知の場合、箱の中身は善でも悪でも成り立ってしまうからです。つまり、未来予知は善でも悪でもありうる、ということです。」

一葉「...水沢さん、素晴らしいですね。」

祈「...ありがとうございます。」

一葉「では、その善悪を分かつ基準は、何だと思いますか?」

祈「それは...、いや、それこそ、上条先輩の方は、どう考えているのですか?」

 水沢は、質問を質問で返した。あれ、わざとだな。

一葉「私ですか? そうですねぇ。未来予知を善と判断するか悪と判断するか、それは、その人の心持ち次第なのでしょう。智樹くんは、未来予知を悪だと判断しました。私は、水沢さんがどのように判断したのか、とても気になります。」

 そう言って、一葉先輩は満面の笑みを浮かべるのだ。水沢は、静かに一葉先輩を見据えている。

祈「私の判断は、すでに言いました。未来予知は、善悪の両方で成り立つ、と。それは、その人の心持ちというよりも、未来予知の種類や精度によると思います。完全な未来予測は悪であり、未来を予測しようとする能力は、当たり前ですが、善になるからです。」

 見事な回答だった。確かに、人間が未来を予測しようとすることは善いことだが、その予測が完全になってしまえば、それは悪しきものになってしまうだろう。複雑で不確かな世の中で、確かなものをつかもうとすること、それはきっと善いことだ。パンドラの匣が開かれ、人間は神によって定められた命令を超えて、未来を予測しようとすることになったのだから。だから、それはきっと善いことのはずだ。

 それが、あらがいようもない決定論に堕ちこんでしまわないかぎりは。

 この水沢の答えを聞くと、一葉先輩は本当に嬉しそうに微笑んだ。

一葉「素晴らしい解答です。」

祈「そうですか?」

一葉「はい。」

 そう言って、一葉先輩はやっぱり静かに微笑むのだ。空気を読んだのか、高木先輩が口をはさむ。

千里「一葉。あんたのそのノリ、いきなり炸裂させるのはどうかと思うよ。もうちょっと、時間をかけてから見せていこうよ。」

一葉「え~、ちーちゃん。ひどいこと言うな~。」

 とたんに一葉さんの雰囲気が違うものになり、場の空気がドッと和む。

千里「まあ、一葉もまだまだ語りたそうだけど、初日だし、もう結構話し込んで遅くなったし、今日のところはこんな感じでお開きにしよう。」

 そう言って、高木先輩が場をまとめようとする。

一葉「え~。」

 一葉さんが抗議の声をあげる。僕としては、もっと一葉さんの話を聞いていたいところだけど、今日のところは高木先輩の言う通りにしておいた方がよいな。一応、僕、幹事長だし。

智樹「では、議論が白熱しているところではありますが、今日のところはこれで終わりましょう。」

一葉「む~。」

 一葉さんが、可愛らしい声を出す。高木先輩と絡むと、一葉さんのイメージが一気に可愛らしい感じになるなぁ。

智樹「まあまあ。サークル"思想遊戯同好会"は今後も続いていくわけですし。あっ、今後は、水曜の放課後に、ここの教室を借りられることになっています。一応、強制ではないです。来られる人だけで集まって、テーマを決めて何かを論じ合うっていうスタンスで行こうと思っています。何かご要望などありましたら、僕まで連絡ください。」

 そうして、初日は予想以上に議論が白熱して終わったのであった。一葉さんの発言のレベルの高さはもちろん、水沢がすごかった。僕は、この先の活動も楽しくなりそうで嬉しくなった。高木先輩も、大人だし常識人だし好感が持てた。琢磨も発言はまだ少な目だけど、理解は早いし、自分なりに発言しようとしているところが良い感じだ。

 今後の活動を頑張っていこう。




第五項

 サークル始動の次の日、僕はたまたま学内で会った一葉さんと話していた。

智樹「昨日は、予想以上に議論が盛り上がりましたね。」

一葉「そうですね。特に水沢さん。彼女は素敵ですね。」

智樹「そうですよね。僕も驚きました。水沢って、やっぱり議論に向いていると思うんですよ。あんなにできるやつなら、もっと前から話しておけばよかったです。」

一葉「今までは、そんなに親しくなかったのですか? 同じ高校だったと聞いていますけど。」

智樹「どうですかね? 同じ高校でしたが、たまに話すくらいでしたね。実際のところ、水沢は可愛くて人気があったので、僕なんか相手にされていなかったってのもありますし。」

一葉「そうですか。ところで、智樹くん。」

智樹「何ですか?」

一葉「このあいだのパンドラの匣の話、智樹くんは、正解はどれだと思いますか?」

智樹「僕がどう思うかですか? そうですねぇ。やっぱり、箱の中には善が詰まっていたんじゃないかなって思いますね。それで、最後に希望が残っていたってのがストーリーとしてすんなりしていると思うんですよね。未来予知は、さすがに歴史的にも解釈として唐突すぎるような気がしますし。」

一葉「つまり、匣には悪が詰まっていたわけではないと?」

智樹「そうですね。僕はやっぱり、ニーチェの解釈は間違っていると思うんですよ。」

一葉「なぜでしょうか?」

智樹「確かに希望は、苦しみを続けさせるために利用することだってできると思います。でも、それなら他の感情にも適用可能だと思うんですよ。」

 僕がそう言うと、一葉さんは薄く微笑んだ。

一葉「そうですね。」

 その微笑みを見て、僕は嬉しくなる。

智樹「そうです。喜びを続けるためにも、希望は必要です。それどころか、苦しみから抜け出すためにも、希望は必要なのです。ニーチェの言っていることは、数ある可能性の中の一つを大げさに言っているに過ぎません。」

一葉「素敵な解釈だと思います。」

 そう言う一葉さんの態度に、僕は何かを感じとった。

智樹「でも、それは僕の考えであって、一葉さんは違うことを考えているのではないですか?」

 一葉さんは、僕をじっと見つめながら言った。

一葉「その通りです。よく分かりましたね。」

智樹「なんとなく、です。」

 そうして、彼女は透き通った声で彼女の物語を語るのだ。

一葉「私の考えでは、匣の中身には、実際には何も入っていなかったのです。」

 そう言って、彼女は一旦話を区切る。それは、僕の質問を待っているかのようだ。僕は、操られるように彼女に質問をする。

智樹「それは、匣には善が詰まっていたわけでもなく、悪が詰まっていたわけでもない、ということですか?」

一葉「その通りです。そこが重要です。ですから、本当は、匣に希望など入ってはいなかった。善も悪も、何も入っていなかった。これが、私の物語の真相です。」

智樹「匣は、からっぽだったということですか?」

 彼女はゆっくりとうなずいた。

一葉「はい。パンドラの匣はからっぽだったのです。パンドラは空の匣を持たされ、空の匣を開け、そして空の匣を閉じた。これが、私の物語の真相です。」

 そうして、彼女は静かに微笑むのだ。














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