『思想遊戯』第二章 第七節 上条一葉の視点



 それはもう大昔からきまっているのだ。人間には絶望という事はあり得ない。人間は、しばしば希望にあざむかれるが、しかし、また「絶望」という観念にも同様にあざむかれる事がある。正直に言う事にしよう。人間は不幸のどん底につき落され、ころげ廻りながらも、いつかしら一縷の希望の糸を手さぐりで捜し当てているものだ。それはもうパンドラの匣以来、オリムポスの神々に依っても規定せられている事実だ。楽観論やら悲観論やら、肩をそびやかして何やら演説して、ことさらに気勢を示している人たちを岸に残して、僕たちの新時代の船は、一足おさきにするすると進んで行く。何の渋滞も無いのだ。それはまるで植物の蔓が延びるみたいに、意識を超越した天然の向日性に似ている。


 太宰治『パンドラの匣』より



第一項

祈「パンドラの匣ですよね?」

 水沢さんが、そう言いました。

 智樹くんが驚いて水沢さんを見ています。水沢さんは、私を見据えています。私は、水沢さんを見て静かに微笑みました。

一葉「そうですね。パンドラの匣をテーマにして、ちょっと論じてみましょうか。」

 私は、教室の黒板側にある前方の台に上りました。

一葉「ふうっ。」

 私は、一息入れてから、パンドラの匣について語り出します。



「一つの神話があります。

 例えば、それは"パンドラの匣"。

 その物語では、神様がすべての悪を封じ込めた匣を、地上における最初の女性であるパンドラに渡します。それは、決して開けてはいけない匣なのです。開けてはいけないのなら、渡さなければ良いのにと思います。

 話の結末は予想通り。開けてはいけない匣は、パンドラの好奇心によって開けられてしまいます。匣からは、ありとあらゆる災厄が飛び出します。パンドラはあわてて匣の蓋を閉めたため、最後に匣の底には希望だけが残ったという、そんな話です。

 だから、人間はどんなに悲惨な目にあっても、希望だけは失わずに済むという...。この神話が基になって、開けてはいけないものをパンドラの匣と言うことがあります。」



 私はそう言って、みんなをゆっくりと見回すのです。

 それから心の中で、そっと付け加えるのです。


 私は、私の中に、パンドラの匣が眠っていることを知っています。

 それが開くとき、きっと、愚かでろくでもないことがもたらされます。

 その瞬間を、きっと私は待ち望んでいるのです。



 さあ、"思想遊戯同好会"にて、テーマ"パンドラの匣"で議論を始めましょう。

 空っぽには、空っぽなりの"意味"があるのですから。



第二項

 新しいサークルの初日は、予想以上に議論が活発に行われてとても楽しいものでした。その次の日、私は、智樹くんとさらにパンドラの匣の解釈について語り合いました。そして、その次の日、私は水島さんに会いに行ったのです。

一葉「こんにちは。」

祈「...こんにちは。」

 水島さんは、ぎこちなく挨拶を返してくれました。

一葉「少し水島さんとお話したくて、迷惑かもと思ったのですが待っていました。」

 そう言って、私は微笑みます。そんな私を見て、彼女は無表情に応えます。

祈「分かりました。どこかに行きますか?」

一葉「それではカフェででも、お話しましょう。」

 私たちは、カフェで飲み物を注文し席に座ります。カフェは適度に空いており、周りに話が聞かれることもありません。別に聞かれたとしても、私としてはどうでもよいのですけど、彼女は気にするかもしれないですし。

 まずは、私からお礼を言います。

一葉「一昨日はありがとうございました。」

祈「...特に、お礼を言われる覚えはありませんが。」

一葉「一応、私は副幹事長ということになっていますので。」

祈「...そうですか。」

一葉「はい。それに、私、まだ話足りなくて、ぜひとも水沢さんともっとお話したいと思っていたのです。」

祈「...それは、どうも。智樹くんより先に私のところに来てもらえるとは光栄です。」

一葉「いえ、智樹くんとは昨日少しお話しました。パンドラの匣の私の解釈を、智樹くんにはすでに話しています。」

祈「そうですか。」

 心なしか、彼女はカチンとしたみたいです。いや、心なしというか、実際にそうなのだと思います。

一葉「それでですね、私の解釈を水沢さんにも聞いてもらいたいのですが、その前に、水沢さんの解釈も聞いておきたいと思いまして。」

祈「それは、随分と強引ですね。」

一葉「そうですね。自覚しています。」

 私は静かに微笑みを浮かべます。

祈「.........。」

 彼女が黙っているので、私は言葉を続けます。

一葉「それでですね、水沢さんにとって、パンドラの匣の正解はどのような物語になりますか?」

 そう言って、彼女の瞳をのぞき込むのです。

祈「私は、ニーチェの解釈は間違っていると思います。」

 そう、彼女は言いました。

一葉「なぜでしょうか?」

祈「だって、ニーチェが言っていることは、苦しみの延命のために利用するから、希望が悪しきものとされているということに過ぎません。」

一葉「それが、なぜ間違っているのでしょうか?」

祈「ニーチェの解釈では、希望が悪しきものであるのは、単に手段として悪しきものであるに過ぎません。私は、それは違うと考えています。」

一葉「興味深いですね。」

 私はうなずいて先をうながします。

祈「希望が悪しきものであるというなら、それは、目的としての希望そのものでなければなりません。」

一葉「素敵な考えです。希望そのものが、そもそも悪しきものである、と。」

 私たちは見つめ合います。

祈「...そうです。希望そのものが悪である、と。それが私の解釈です。では、上条先輩の解釈の方をお聞かせください。」

 そうして、彼女は私を見るのです。いや、見るというより、それは睨むといった方が適切かもしれません。

一葉「分かりました。私のパンドラの匣の解釈をお話します。まず、私の考えでは、箱の中身は悪が詰まっていました。そして、本当は、箱に希望など入っていなかった。これが、私の物語の真相です。」

 そうして私は、私の物語を語るのです。彼に語った真相とはまた別の、もう一つの私の物語を。

 空っぽに、悪を詰め込んだ物語を。




第三項

一葉「パンドラの匣の中には、最初から希望なんて入っていなかったのです。入っていたのは、あらゆる禍(わざわい)だけ。そして、パンドラは、それを振りまいただけなのです。」

祈「どういうことですか?」

一葉「このパンドラの匣は、ゼウスによる人間への復讐劇です。神々によって平穏が保たれた世界を、禍(わざわい)に満ちた世界にするための禍々(まがまが)しき神々たちの謀略。パンドラは、そのためのトリガーです。」

 私がゆっくりと語る物語を、水沢さんは静かに、だけれど真剣に聞いてくれています。

一葉「神々によって平穏が保たれた世界では、絶望が存在しません。それゆえ、原理的に、希望もまた存在することができません。」

祈「...つまり、希望を生むためには禍(わざわい)が必要、ということですか?」

 彼女の言葉に、私はゆっくりとうなずきます。

一葉「そうです。希望も絶望も存在しない世界において、希望を生み出すためにはどうすればよいのでしょうか? その答えは、絶望を振りまく、ということになります。」

祈「絶望によって、希望は、ただ、自動的に生まれることになる...。」

一葉「はい。そのとおりです。だからこそ、パンドラは自分自身のために、その匣を開けなければならなかったのです。」

祈「なぜですか?」

 彼女は、唇をなめます。その仕草はセクシーですが、唇が渇いているということで、緊張していることが分かります。

一葉「パンドラは、その匣を開ける役割を担わされていたのですから。神々の意思という超越概念が物語において設定されているため、パンドラは自らの意思とは無関係に、いつかはその匣を開けなくてはなりません。開けることにならざるをえないのです。パンドラは、その役割を遂行せざるをえないのです。」

祈「パンドラは、操り人形だってことですか?」

一葉「はい。そうです。パンドラは役割を与えられており、その役割を遂行しなければならない以上、そこにパンドラの希望が存在しない・・・。」

 彼女の口から言葉が漏れます。

祈「だから、パンドラが匣を開けたことによって・・・。」

 私は、ゆっくりとうなずきます。

一葉「そうです。パンドラがその匣を開けたことによって、その役割が終わります。それゆえ、パンドラその人自身の希望のために、匣は開かれなければならないのです。そのため、パンドラが匣を閉じる行為が間に合うか間に合わないか、それは、どうでもよい問題です。いえ、それは端的に無意味な行為なのです。そこには人類のための希望の実体など無かったのですから。そして、それゆえに、パンドラ自身の希望のために、パンドラが匣を閉じることによって、そこに人類のための希望が残ったことにならなければならない、ということです。」

祈「パンドラの希望...。」

 私は微笑みます。

一葉「そうです。パンドラその人の希望のために、パンドラの匣は開かれねばならないのです。パンドラが匣を開くことによって、絶望が世界に振りまかれ、世界に希望が生まれます。その行為は、パンドラがあわてて匣を閉じたことによって、匣の底に希望が残ったという形を取ります。それは、そういう形を取るべきだったから、そうなったのです。そうすることによって、パンドラは、パンドラ自身にとっての希望を得ることが可能になったのです。」

 私が話し終えると、彼女はしばらく黙って私を見ていました。

祈「上条先輩、一つだけ聞いてもいいですか?」

一葉「いいですよ。」

祈「先輩が、このサークルを設立した目的は何ですか?」

 私は静かに答えます。

一葉「会話、です。」

祈「会話?」

一葉「そう、会話、です。今、私と水沢さんがしているような会話です。私は、このような会話をしたいのです。」

 そう言って、私は彼女の瞳をじっと見つめるのです。












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