『思想遊戯』第三章 第二節 釈迦について
【釈迦(しゃか)】
前463~383年、もしくは前560~480年など諸説。
仏教の開祖。
紀元前5世紀ごろ、中部ネパールの釈迦族の王子として誕生。
姓はゴータマ(Gotama)、名はシッダールタ(Siddhattha)。
29歳で出家し、35歳で成道し、80歳で入滅。
教説は四諦・八正道・十二縁起などにまとめられている。
釈迦牟尼、釈尊、釈迦如来とも呼ばれる。
第一項
智樹「では、まずは釈迦から論じていきましょうか。」
琢磨「釈迦って、いわゆる仏様のことですよね?」
一葉「そうですね。釈迦は仏教の開祖です。紀元前5世紀ごろ、中部ネパールの王子として誕生しました。29歳のとき、老人や病人や死人を目撃して落ち込んで、妻と息子を置いて出家してしまいます。その後、35歳のときに悟りを開き、教えを説いてまわり80歳で死亡しています。」
琢磨「妻と息子をおいてって、ひどくないですか?」
一葉「ひどいですよね。」
そう言って、一葉さんは静かに苦笑する。
千里「まったくだね。」
祈「一応ですが、釈迦は王族の義務として、後継ぎを用意してから出家したという解釈もありますよね。最低限の社会的義務を果たしのだと。それでも、やっぱり酷いとは思いますけど。」
一葉「そうですね。」
琢磨「それで、釈迦はどんな教えを説いたのですか?」
一葉「釈迦の教えは、中道、縁起、四諦、八正道などにまとめられていますが、ほとんどは後世の人たちが体系化したものですね。」
琢磨「難しくなると分からなくなるので、ざっくりと教えてほしいのですが、それらは何を意味しているのですか?」
一葉「中道は、両極端はいけないので程ほどにということです。出家した釈迦は、その当時の修行者にならって苦行をしまくるわけですが、その結果、苦行も快楽もどっちもよくないと悟ったというわけです。」
琢磨「なんか、そう言われるとあまりに当たり前の話ですね。」
智樹「確かに。」
一葉「次に縁起ですが、『悪魔との対話(サンユッタ・ニカーヤⅡ)』に、〈これを条件としてかれがあるということ〉という記述があります。つまりは因果関係のことです。」
一葉さんは、いつもの革製の手帳を片手に眺めながら話を進めている。
智樹「縁起が良いとか悪いとか言う、あの縁起のことですね。」
一葉「そうですね。次の四諦は、四つの尊い真理のことです。まとめて言うと、苦しみと、苦しみの成り立ちと、苦しみの超克と、苦しみの終滅の四つです。苦しみの終滅には、八つの方法があるとされています。それを詳しく説いたのが、八つの正しい道である八正道です。八正道によって、煩悩をなくして苦しみを克服しようとしているわけです。簡単に言ってしまうと、正しい見解・意向・ことば・行動・生活・努力・落ち着き・精神統一の八つになります。」
琢磨「つまり、煩悩をなくして苦しまないようになろうってことですか?」
一葉「そうですね。釈迦に関する本といえば、まずは『スッタニパータ』を挙げることができます。第1章から5章までで構成されていますが、この内の4章と5章は特に古いと言われています。『スッタニパータ』の翻訳本には、中村元さん訳の岩波文庫『ブッダのことば』があります。」
琢磨「釈迦については、『ブッダのことば』を読めば良いってことですか?」
一葉「はい。まずは『ブッダのことば』から読むのがよいと思います。ただ、釈迦の言行は数多くの経典に記載されていますが、かなり荒唐無稽なものもあります。釈迦という人物の実像に迫るには、経典の古いものを選んで読むことが重要だと考えられています。そうした観点から、『サンユッタ・ニカーヤ』の第一篇も重要です。部分的には、『スッタニパータ』よりも古いものが含まれているそうです。これも中村元さん訳で『神々との対話』および『悪魔との対話』が出ています。」
琢磨「なるほど。」
一葉「他にも古いものとして『ダンマパダ』があります。中村元さん訳では、『ブッダの真理のことば』が出ています。後世への影響力という点では、『スッタニパータ』や『サンユッタ・ニカーヤ』より上だと言われていたりします。」
智樹「まずは、今挙げられた本を読んでみてからですね。」
一葉「はい。本を読んでみて、気になったところと気に入ったところを探してみてください。」
琢磨「気になったところと、気に入ったところ、ですか?」
一葉「はい。そうです。気になったところは、相手が釈迦の言葉だとしても、自分はおかしいと思ったところなどを指摘してくれると嬉しいです。気に入ったところは、釈迦の言葉で参考にしても良いかなと思えるところですね。」
智樹「なるほど。つまり、相手が釈迦みたいな偉大な人だとしても、その人の言葉をきちんと検証して、間違っているところは間違っている、正しいところは正しいと確かめていこうってことですね?」
一葉「はい。やっぱり、せっかく読むのですから、自分の身にならないと意味がないと思うのです。そのためには、単にその意見に盲従するのではなく、一つ一つゆっくりと考えていくことが大切なのです。単に本を読むのではなく、本と対話するとでも言えばよいでしょうか・・・。」
第二項
琢磨「『ブッダのことば』を読んでみたのですが、なんか今までもっていたイメージと違うっていうか...。」
千里「どういうこと?」
琢磨「え~とですね。仏教って、困っている人を助けるようなイメージがあったんですが、なんか単純にそういう話でもないのかなって。」
祈「例えば、どこら辺がかな?」
琢磨は、本を片手にしながら話す。
琢磨「『ブッダのことば(スッタニパータ)』の最初の方ですでに、自分が自分がって感じがするんですよね。例えば、〈仲間の中におれば、休むにも、立つにも、行くにも、旅するにも、つねにひとに呼びかけられる。他人に従属しない独立自由をめざして、犀の角のようにただ独り歩め〉とか、〈妻子も、父母も、財宝も穀物も、親族やそのほかあらゆる欲望までも、すべて捨てて、犀の角のようにただ独り歩め〉とか。犀の角のようにっていう例えがまた、いまいちな気がしますが・・・。」
僕も『真理のことば(ダンマパダ)』を片手に、付箋を貼ってあるページをめくりながら言う。
智樹「こっちの本のここなんか、本当にすごいよ。」
琢磨「どこ?」
智樹「ええと、〈たとい他人にとっていかに大事であろうとも、(自分ではない)他人の目的のために自分のつとめをすて去ってはならぬ。自分の目的を熟知して、自分のつとめに専念せよ〉だって。」
千里「それは、確かにすごいね・・・。自分勝手な感じがしないかな?」
智樹「そうなんですよ。自分勝手というか、自分本位というか・・・。他にも、〈愛するものから憂いが生じ、愛するものから恐れが生ずる、愛するものを離れたならば、憂いは存在しない〉とか書かれています。愛を否定しているんですよ。」
祈「愛があるから苦しむ。それなら、愛なんていらないってことになるのかな?」
千里「なるんじゃないの? そう読めるし。」
一葉「そこのところはですね、日本の仏教と、釈迦が説いた教えには隔たりがあるからです。」
祈「日本の仏教は、釈迦が説いたものから変化しているということですね?」
一葉「はい。仏教の変遷を説明しだすとキリがないのですが、大まかに言うと、釈迦の死後に仏教は二大流派に分かれています。それが、上座部仏教と大乗仏教です。上座部仏教は、小乗仏教と呼ばれることもありますが、これは大乗仏教の側から見たときの言い方になります。つまり、大乗仏教の大乗とはすぐれた乗り物を意味し、小乗は劣った乗り物を意味しているわけです。」
そう言って一葉さんは、ボートに説明を書きこんでいきます。うん。分かりやすい。
琢磨「上座部仏教の方から言えば、我々は小乗ではない。上に座っている仏教なんだってことなんですか?」
琢磨がボードの漢字を見ながら質問する。
一葉「はい。そうです。釈迦の教えは大乗仏教よりも上座部仏教に近いわけですから、上座部から見れば、自分たちの方が正統派だと言えるわけです。」
智樹「へぇ~。じゃあ、日本の仏教の分布はどうなっているのですか?」
一葉「日本の仏教は、ほとんどが大乗仏教ですね。大乗仏教では、自己の解脱だけではなく他者の救済も重視していることに特色があります。上座部仏教では、自己の悟りを重視することに特色があります。東南アジア諸国の仏教は、上座部仏教の流れをくんでいます。」
祈「釈迦の仏教は、まずは自分の苦しみを何とかしようという考え方ですよね?」
一葉「はい。そうですね。」
第三項
僕はみんなに提案する。
智樹「話の取っ掛かりとして、釈迦に関係する本の中で、各自が気に入ったところを挙げていきましょうか。」
琢磨「じゃあ、言いだしっぺからだな。」
智樹「まあ、いいけどね。では、僕は『ブッダのことば』から。」
僕はそう言って、気に入った言葉をみんなに向かって述べた。
賢者は、両極端に対する欲望を制し、(感覚と対象との)接触を知りつくして、貪ることなく、自責の念にかられるような悪い行いをしないで、見聞することがらに汚されない。
[スッタニパータ 第四 八つの詩句の章]
一葉「中道の思想の起源ですね。」
智樹「その通りです。やっぱり、中道っていう考え方は重要だと思うんです。」
琢磨「苦行しまくるのも、快楽に溺れるのも駄目ってやつだっけ?」
智樹「うん。そう。まあ、当たり前と言えば当たり前の話だよね。」
祈「その当たり前が大事だってことじゃないかな?」
智樹「そうだよね。じゃあ、次は琢磨。よろしく。」
琢磨「俺? じゃあ、俺はこれかな。」
生れを問うことなかれ。行いを問え。火は実にあらゆる薪から生ずる。賤しい家に生まれた人でも、聖者として道心堅固であり、恥を知って慎しむならば、高貴の人となる。
[スッタニパータ 第三 大いなる章]
祈「ああ、いいね。」
琢磨「やっぱり?」
千里「ええ、本当に。良いところ選んだね、峰くん。」
琢磨「ありがとうございます。」
智樹「生まれがどうこうではなくて、行いによって貴賤を判断すべきって考え方は恰好良いよな。」
一葉「峰くん。やるね。」
琢磨「なんか、あんまり褒められると照れますね。」
智樹「じゃあ、琢磨が調子に乗っているところで、次の人に...。」
千里「じゃあ、次は私で。一葉や水沢さんの後はハードルが高いので。」
祈「そんなことないですよ。」
一葉「気にしすぎだよ。」
千里「いいんです。みんなレベルが高いので、私は気楽に真ん中あたりで発表します。」
修養と、清らかな行いと、聖なる真理を見ること、安らぎ(ニルヴァーナ)を体得すること、――これがこよなき幸せである。
[スッタニパータ 第二 小なる章]
智樹「幸せになるための教えですね。」
千里「そうだね。」
一葉「さすが、ちーちゃん。」
千里「まあ、ありがと。」
祈「高木先輩の感性が出ている気がします。」
琢磨「なるほど、そんな気がするなぁ。」
千里「ええ、ありがと。やっぱり、これって照れくさいよ。次は、水沢さん?」
祈「はい。私は『神々の対話』からです。これは、神との対話において釈迦が述べたことです。」
名は一切のものに打ち勝つ。名よりもさらに多くのものは存在しない。
名という唯だ一つのものに、一切のものが従属した。
[サンユッタ・ニカーヤ 第Ⅰ篇 第七章 第一節]
一葉「興味深いですね。」
智樹「へえ...、釈迦って、やっぱりすごいですね。」
琢磨「ごめん。俺、よく分からないのだけど。名よりも多くは存在しないって、変じゃないかな?」
千里「どうして?」
琢磨「えっと、だって、まだ名付けられていないものってたくさんあるじゃないですか? だから、名を付けられたものと、名を付けられていないものがあるから、名よりも多くのものが存在しているのではないかと...。」
祈「峰くん、良い意見ですね。確かに、峰くんの言う通りです。ですから、ここで釈迦が言っていることは端的に間違っているか、もしくは、違う視点から成り立つことを言っている、ということになります。」
琢磨「ええと、別の見方をすれば、釈迦の言っていることも成り立つということ?」
祈「そうです。例えば、人間は言葉を操ります。今の私たちも、言葉で会話することで意思の疎通をしているわけです。私たちは、言葉で、つまり何かに名を付けることで、意味を生み出しているわけです。何かが違うというためには、それに別の名前を付けることが必要になるのです。逆に言えば、名を付けなければ、我々はそれを理解することが出来ない...。それゆえ、名よりもさらに多くのものは、存在しない...。」
琢磨「なんか、狐につままれたような気がするけど...。」
一葉「峰くんのその感覚も、それはそれで大事だと思います。その感覚は、ある見方において正しいからです。ですが、祈さんの言っていることも、ある見方において成り立ちます。ここで大事なことは、世界にはいくつもの見方があるということです。複数の見方で世界を観るということは、素敵なことだと思いませんか?」
智樹「確かに。僕もそう思います。」
琢磨「何となくは...。」
一葉「今は、それで十分だと思います。では、最後は私ですね。では、誰も触れなかったところで、『真理のことば』から一つ。」
実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息(や)むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。
[ダンマパダ 第一章]
千里「永遠の真理ときましたか。」
一葉「有名どころですね。」
千里「それで、これは一葉から見ても永遠の真理なのかな?」
一葉「真理の一つではあるよね。ただし、絶対の真理というわけでもないし、全面的な真理というわけでもない...。数ある真理の内の、一つの真理だと思うよ。」
智樹「なるほど...。」
一葉「だからね、自分の判断を左右する複数の見方の一つとして、心の中に抱えていても良いと思う・・・。」
智樹「確かに、そうだと思います。」
一葉「ただね、数ある真実の一つにしか過ぎない、とも思っておくべきだとも思うのです。」
そう言って、一葉さんは静かに微笑むのだ。その台詞と憂いの表情は、絵になるなぁ・・・。
第四項
また別の日にみんなで集まって、釈迦の話をする。今日は、仏教の用語にまつわる話だ。
琢磨「仏教っていうと、やっぱり地獄とかのイメージが浮かんだりしますよね。」
千里「ええ。仏教って言うと、地獄絵図とかのイメージがあるよね。」
琢磨「釈迦の本を読んでみても、地獄の描写がたまに出て来ますよね。あと、輪廻転生の考え方も出て来ますし。」
千里「いわゆる、地獄に落ちるぞってやつね。」
智樹「『ブッダのことば』のこことか?」
僕は、地獄について書かれたところを琢磨に見せてみる。
琢磨「そうそう。こことかすごいよな。五千兆年とか(笑)」
千里「何々? 智樹くん、読んでみてよ。」
智樹「分かりました。ええと、〈罪を犯した人が身に受けるこの地獄の生存は、実に悲惨である〉と書かれています。その地獄での寿命については、〈五千兆年とさらに一千万の千二百倍の年〉だと書かれています。」
千里「すごい数字が出てきたね。」
智樹「そうですね。五千兆年と一千万の千二百倍の年とか書いてありますからね。計算すると、五千兆百二十億年ですね。」
千里「計算したの? やるねぇ、智樹くん(笑)。」
祈「変なところで頑張るね。」
智樹「褒められている気がしない(笑)」
琢磨「褒めてないからな(笑)」
一葉「まあ、それはともかく(笑)。釈迦の教えを考える上で、輪廻転生という考え方がその当時にあったということには注意しておくべきだと思います。」
千里「輪廻転生って、死んでも生まれ変わるってことだっけ?」
一葉「そうだね。何度も生死を繰り返すことであり、業によって善悪の報いを受けるという仕組みのことだね。悪い行いをした人々は地獄に堕ち、善いことはした人々は善いところに生まれるという設定になっています。」
祈「釈迦について読んでいて思ったのですが、苦しみからの解放が大きなテーマですけど、輪廻転生からの解放もテーマですよね? 善行を積んで地獄へ行かないようにすることを超えて、再び繰り返し生まれないようにしようとしていますよね?」
一葉「はい。生きていることは苦しみですから、死んでもまた生まれ変わって苦しむわけです。ですから、その輪廻転生の輪からの解放こそが、本当の意味での苦しみからの解放になるわけです。」
智樹「ああ、そういうことだったんですね。本を読んでいて、微妙に引っかかっていたんですよ。例えば、〈すっかり愛欲を断ってしまった修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る〉とか書かれていますもん。愛欲を断ったらこの世を捨て去るというのは分かったんですが、かの世も捨て去るという意味が分からなかったんですよ。確かに、輪廻転生の輪からの解放ということを考えると、この世とかの世をともに捨て去ることになりますね。」
琢磨「細かいところまでチェックしてるなぁ。」
智樹「なんかね、気になったんだよね。」
祈「まとめると、まずは生きることが苦しみで、愛欲を断つことで苦しみから解放されるってことだよね。そうすると、なぜか輪廻転生の輪からも解放されるってこと? そこの理論がよく分からないのだけれど。」
智樹「確かに。愛欲を断てば苦しみから解放されるっていうのは、まあ、分からないでもないよね? でも、それで何で輪廻転生の輪から解放されるのかは意味不明だよな。」
一葉「そこの論理には、確かに飛躍があります。ただ、生きることが苦しみだと考えた場合、輪廻転生という仕組みは苦しみの永続になるわけです。ですから、解脱は苦しみからの解放であると同時に、輪廻転生からの解放でもあらざるをえないことになる、ということだと思われます。」
祈「そこに論理の飛躍がありますけど、その飛躍を導入することで、苦しみからの解放を完成させたわけですね。一つの思想として。」
一葉「そのように考えることもできます。輪廻転生を信じない場合、釈迦から学ぶべきは、現世での苦しみからの解放になります。また、輪廻転生を信じる場合でも、現世での苦しみからの解放が、輪廻転生からの解放にもなるという理屈になります。」
琢磨「なるほど。」
智樹「そういう考え方ということか・・・。」
一葉「釈迦は、欲望や貪りを除き去った境地をニルヴァーナと呼んでいます。ニルヴァーナは、涅槃とか安らぎと訳されています。」
第五項
水沢が、釈迦について率直な意見を語った。
祈「釈迦っていうと、聖人ですごく立派なことを説いた人っていうイメージがありますが、実際は相当に過激なことを言っていますよね? 私が特に気になったのは、『神々との対話(サンユッタ・ニカーヤⅠ)』の中の釈迦と神様との会話と、釈迦と王様と王妃様との会話のところになります。」
智樹「どんな会話だっけ?」
祈「では、釈迦と神様との応答から。まず、神様の方から釈迦に言うわけです。〈子ほど可愛いいものは存在しない〉と。それに対し、釈迦は何と答えたでしょうか?」
琢磨「そりゃそうだ、とか?」
智樹「いや、もしかして・・・。」
祈「そう。その、もしかしてなのです。釈迦は、〈自己ほど可愛いいものは存在しない〉って答えるのです。」
千里「それは、・・・過激だね。自分の子供より、自分自身の方が大事だって言っているってことでしょう?」
祈「ええ。すごいですよね。これって、普通は逆じゃないかなって思うんですよ。これでは、釈迦ってむしろ悪魔側ですよね。悪魔は自分が一番だってささやいて、神様はわが子の方が可愛いって言うのが、しっくりくる感じですよね。その見方に立ちますと、ここではまともなことを言う神様と、悪魔のようなことを言う釈迦という対比になるわけです。」
智樹「釈迦と王様たちとの会話については?」
祈「国王と王妃が会話していて、王様が王妃様にたずねるわけです。自分より愛しい人がいるのかと。それを受けて王妃は、自分より愛しい人はいないと言い、王様はどうなのかたずねるのです。」
千里「すごい王妃様よね。そこは嘘でも、自分のことよりも王様が愛しいですとか言うものじゃないの?」
祈「そうですよね(笑)。正直な王妃様ですね。それでですね、王様も自分より愛しい他の人は存在しないと言うわけです。正直な王様と王妃様ですよね(笑)。」
智樹「確かに(笑)。何か、ギャグのような話だよね。」
祈「そこから続きがあって、王様と王妃様は釈迦を訪ねるのです。王様も王妃様も、自分が一番愛しいと考えていることを釈迦に話します。そこで釈迦は、次のような詩を唱えるのです。」
そう言って、水沢は詩を静かに読み上げる。
どの方向に心でさがし求めてみても、自分よりもさらに愛しいものをどこにも見出さなかった。そのように、他の人々にとっても、それぞれの自己が愛しいのである。それ故に、自己を愛する人は、他人を害してはならない。
水沢はそう言って、静かにみんなを見つめた。
琢磨「なるほど。」
祈「何がなるほどよ(笑)。」
千里「そうだよ。軽いよ、峰くん♪」
琢磨「いや、軽くないですって。」
智樹「いや、軽いな。」
琢磨「というか、智樹。お前は誰の味方だよ。」
智樹「美女の味方に決まっている。」
琢磨「...それもそうか...。」
智樹「ここで重要なのは、今、水沢が言ったように、釈迦は他人を害してはいけないとも言っているわけですよ。だから、単に自分が愛しい、自分が一番っていうこと以外のことも言っているわけです。」
一葉「はい。そこは、重要なところですね。」
智樹「そうなんです。自己が愛しいというところから、他人に害を及ぼしてはいけないっていう論理を展開しているわけです。」
祈「ここに釈迦の思想のポイントがありそうだよね。だって、自己が愛しいから、他人を害してでも自分のためになることをしようっていうこともできるはずだよね?」
一葉「さすが祈さん。素晴らしい着眼点ですね。」
祈「あまり褒められている気がしませんけどね(笑)」
一葉「褒めていますよ。とても。」
智樹「水沢。多分、他の人が言ったら皮肉なのかもしれないけど、一葉さんがこう言っているっていうのは、本当に褒め言葉で感心しているから言っているんだと思うよ。」
一葉「そうですよ。」
祈「まあ、そうなんでしょうけどね・・・。」
千里「智樹くん。一葉のこと、意外に分かっているじゃない?」
智樹「一葉さんって、変わっていますからね。」
一葉「ひどいなぁ。それを言ったら、智樹くんだって変わっていますよ?」
智樹「まあ、否定はしませんというか、否定できませんけどね。」
祈「話がズレてきていますよ。私が言いたいことは、自分が愛しいという前提に立ったとしても、そこから、だから他人を害してでも自分の有利な展開にもっていくという論理がありえるということです。しかし、釈迦は、自分が愛しいという前提から、だから他人を害してはならないという論理を展開しているわけです。」
一葉「その通りです。素晴らしいです。」
智樹「ええと、まとめると、自分が大事だから、他人を害してでも自分が良いおもいをしようと考えることもできるし、自分が大事だから、他人を害してはならないと考えることもできるわけだね。」
祈「そう。つまり、前者と後者の場合で、"自分"という言葉の意味内容が違っていると思うの。」
千里「どういうこと?」
祈「前者の"自分"では、他人とはまったく違う意味での自分が想定されています。自分と他人は、まったく違うのですから、違う原理が適用されることになります。一方、後者の"自分"は他人も自分であるという意味での自分なのであって、だから自分と他人は同じものだと考えられているのです。ですから、当然ながら同じ原理が適用されることになります。」
琢磨「うん? もっと分かりやすく。」
一葉「つまり、自分がそう思うから、他人なんか知ったことかと考えているか、自分がそう思うのだから、他人もそうなのだろうと考えているか、という二つの場合があるということです。」
琢磨「...なるほど。でも、それじゃあ、両方の場合があるってことじゃないですか?」
一葉「そうなります。だから、実際に、両方の人が現に居るのです。いつの時代も、どこの国にも。」
千里「え~と、その両方の人が居て、それで釈迦は、他人も自分と同じだと考えて、他人の害になることは止めようって言ったわけ?」
祈「そうなのだと思います。」
一葉「そうだとは思うのですが、また別の見方もできると思います。」
智樹「えっ、どういう見方ですか?」
僕はワクワクした。
一葉「釈迦は、他人に教えを説くことを選びました。もっと言えば、他人と話すことにしたのです。ですから、両方の考え方の内、後者を話さざるをえなかった、ということになります。」
智樹「えっと、それは、つまり、どういうことになるのでしょうか?」
一葉「今、祈さんは自分が愛しい場合の二つの考え方を語ってくれました。これは、何度も言っていますが、素晴らしいことです。ここでは、人間が考えられうる可能性を端的に提示するという、一見して簡単なようで、実は極めて難しいことが為されていたのです。」
祈「そんな大層なことはしていませんよ(笑)。」
智樹「いやいや、すごいことだと思うよ。」
一葉「そうですよ。それでですね、祈さんは、可能性を提示するという形でしたので、両方の考え方をある程度簡単に言えてしまえたわけです。ですが、教えを説くという場合は、自分がそう思っているから、その意見を言うわけです。」
琢磨「...まあ、そりゃそうですよね。」
千里「そうかしら? 自分はぜんぜん信じていなくても、相手にはそうだと信じてもらうことにはメリットがあると思うけど?」
祈「さすが、高木先輩は鋭いですね。」
琢磨「えっ? えっ? どういうこと?」
智樹「分かりやすく言うと、エセ宗教家が、自分はぜんぜん信じていない壺を売りつける場合があるってこと。」
琢磨「ああ、なるほど。」
千里「智樹くん。分かりやすい解説ありがとう。実践経験済みかな?」
智樹「からかわないでくださいよ(笑)。」
一葉「確かにそういった場合もあるのですけれど、その場合でも、そのエセ宗教家は、壺を売りつける相手に、自分はこの壺の効果を信じていると信じ込ませることが必要になりますよね?」
智樹「確かに、そうですね。」
千里「まあ、そうかもね。」
一葉「そうだとすると、何かを言うということは、その言ったことを考えていると見なされる可能性があるわけです。」
琢磨「...それは、そうだと思いますけど。」
祈「峰くん、分かってないでしょう?」
琢磨「多分...。」
祈「一葉さんが言っていることは、自分がそう思っていると見なされるというリスクを抱えた上で、果たしてそれを言う価値があるのかという問題なのよ。」
一葉「補足説明ありがとうございます。」
琢磨「えっと...。」
祈「例えばで言うと、峰くんが女性をくどくとするでしょう?」
琢磨「すごい例えを持ち出してきたね。」
祈「まあ、その方が分かりやすいと思って。それで、峰くんが女性をくどく場合、いろいろと考えたりすると思うけど、そのとき、考えたけど言わないことと、考えた上で言ってしまうことがあるでしょう?」
琢磨「ああ、なるほど。」
祈「この女の胸を揉みたいとか、思ってても言わないでしょう? でも、服装が雰囲気に合っていて素敵だなとかなら言うでしょう?」
琢磨「あの、分かったんで、その辺りで。何か、ごめんなささい。」
智樹「つまり、本当にそう思っていて、言わない方が良い場合と、言った方が良い場合があるってことだね。」
琢磨「まあ、そうだな。というか、なぜに俺の羞恥プレイに...。」
高木先輩が、笑いをこらえている...。
千里「...まあまあ、いいじゃない。面白かったし(笑)」
琢磨「ここに一人の貴い犠牲が...。」
智樹「琢磨、お前の犠牲は無駄にしないぞ。」
そう言って、僕は琢磨の肩に手を乗せる。
祈「さて、バカな男性陣は放っておいて、話を進めましょう。」
智樹・琢磨「「ひどいや。」」
祈「自分が愛しいという考え方から、他人に対する二つの態度がありえるということでしたね。」
智樹・琢磨「「無視かよ!」」
祈「自分が愛しいから、他人を利用しようとすると考えたとしても、それを言ってしまうことは、自分の目的のために不利益になるということです。」
智樹・琢磨「「.........。」」
話がマジメモードに入ったので、突っ込みは諦めて素直に聞くことにする。
祈「一方、自分が愛しいから、他人を害しないようにしようというのは、自分の目的のために有利になる、ということです。」
一葉「素晴らしいです。」
千里「なるほど。そういった考え方もありだね。」
祈「ですから、前者の考え方をしている人は、そのことを素直に言うわけがない。なぜなら、それは自分の不利になるから。でも、後者の考え方をしている人は、それが得になるからそれをそのままに言う。そういうことではないですか? 上条先輩。」
一葉「......そうですね。だいたいその通りだと思います。ですから、釈迦はかなり自分勝手な人だとは思いますが、少なくとも、自己を救うことを万人に説いていると言うことはできます。そういうことですね。」
祈「だいたいってのが、気になるのですけど。」
一葉「細かい部分にまで言及すると、話が長くなりますし。」
智樹「確かに。すでにかなり話していますしね。」
琢磨「話を続けたい人は、また今度でいいんじゃないかな。」
千里「それもそうね。」
智樹「遅くまで話し込んでしまいましたし、今日のところはこれで一旦締めましょうか。」
第六項
サークルが終わり、僕は一葉さんと話しながら帰った。
一葉「でもね、智樹くん。」
智樹「なんでしょうか?」
一葉「祈さんが話さなかった可能性があることに、気づいていましたか?」
僕は今日の話を思い出してみた。
智樹「すいません。分かりません。」
一葉「それはですね、自分が愛しいから、他人を害することも含めて考えている場合の話です。」
智樹「はい。そのときは、それを素直に言うと自分の利益にならないから、言わないという話でしたね。」
一葉「そうですね。でもそれ以外の可能性もあると思いませんか?」
智樹「.........ええと、どういったことでしょうか?」
一葉「それはですね、他人を害することも考慮して自分の利益を考えた場合、他人には、みんな自分が大事なのだから、他人を害さないようにしましょう。そう話しておくという可能性です。」
そう言って、彼女は目を細めて、静かに微笑むのだ。僕は、少し恐ろしくなった。確かに、その通りだ。
智樹「それじゃあ、釈迦も?」
一葉「それは、情報が不十分で不確定です。でも、重要な問題は、それが分からない、つまり、それが確定できないというところにあるのです。」
智樹「量子力学の考え方みたいですね。」
一葉「そうですね。」
そう言って、彼女は少しおかしそうに微笑む。その顔を僕は、ボーっと見つめている。
一葉「釈迦は、〈自己を愛する人は、他人を害してはならない〉と言います。でも、この場合、その人の本意は、一意に確定することができません。その人は、本当にそう思っているのかもしれませんし、もしくは、他人にはその考えを強調するけれど、自分だけはその考えの例外においているのかもしれません。」
智樹「自分だけは、例外...。」
一葉「そうです。自分だけは例外にしている可能性です。つまり、他人は自分を害してはいけないけれど、自分は他人を害しても構わない。そのように考えている人は、誰もが他人を害してはならないと、口ではそう言うのです。そういうことです、智樹くん。」
彼女は、僕の反応を楽しむかのように、僕の瞳をのぞき込む。僕はあわてて目をそらす。
智樹「一葉さんは、なぜ、それをあの時、みんなの前で言わなかったのですか?」
一葉「なぜだと思いますか?」
そう問う彼女は、いたずら好きの猫のようだと、僕は思った。
智樹「分かりません。もしかしたらですけど、それを言うレベルではなかったから、でしょうか?」
一葉「正解です。」
そう言って、彼女は嬉しそうに微笑むのだ。
ああ、僕は、狂ってしまいそうだ。
でも、それがまったく不快ではないのだ。そのことが、少しばかり不安だけれども。
第七項
また別の日、僕は一葉さんと二人で、釈迦について話をする。
一葉「智樹くん、私が釈迦について最も気になるのは、釈迦が"われ"について述べているところです。」
智樹「"われ"って、自分についてってことですか?」
一様「はい。」
智樹「それは、どこですか?」
一葉「まず、次の文章に注目してみてください。」
そう言って、一葉さんは釈迦の言葉を話す。
「われは知る。われは見る。これはそのとおりである」という見解によって清浄になることができる、と或る人々は理解している。たといかれが見たとしても、それがそなたにとって、何の用があるだろう。かれらは、正しい道を踏みはずして、他人によって清浄となると説く。
[スッタニパータ 第四 八つの詩句の章]
智樹「自分と他人をはっきりと分けて考えているのだと思いますが・・・。」
一葉「そうですね。自分は自分、他人は他人といった感じを受けますね。」
智樹「そういえば釈迦の教えは、大乗仏教ではなく上座部仏教の教えに近いのでしたね。」
一葉「はい。そのため、自分が見たり知ったりすることそのものを、他人の救いに関連づけようとするような思考に警戒していると見なすことができます。」
智樹「確かに、そうかもしれませんね。」
一葉「それでですね、それを踏まえた上で、次の釈迦の言葉が問題になります。」
<われは考えて、有る>という<迷わせる不当な思惟>の根本をすべて制止せよ。内に存するいかなる妄執をもよく導くために、常に心して学べ。
[スッタニパータ 第四 八つの詩句の章]
智樹「これって、アレですよね。デカルトの・・・。」
一葉「そうです。デカルトの<われ思う、故に我あり(cogito ergo sum)>に類似した問題が意識されているのです。もちろん、釈迦はデカルトよりはるか昔の人なので、こちらがこういった問題の先駆になります。」
智樹「われ思う、故に・・・。」
一葉「訳者の中村元によると、<われは考えて、有る>という言葉は、<わたしは考えるものとして有る>という訳と、<わたしは考えるから有る>という訳が成立するそうです。中村は、後者のように解するほうが良いと述べています。」
智樹「後者だと、デカルトの意図と、ほとんど同じですよね?」
一葉「はい。そうですね。思うということから、存在を導き出しているわけです。」
智樹「思うということから、自己の存在を・・・。」
一葉「智樹くん。」
智樹「はい?」
一葉「私は、今、思うということから、存在を導き出していると言いました。それを智樹くんは、自己の存在と言い、<存在>を<自己の存在>と言い換えました。」
智樹「それは・・・。何かおかしいですか?」
一葉「おかしいと言えばおかしいですし、おかしくないと言えばおかしくありません。」
智樹「ええと、つまり、異なる二つの視点があるということですか?」
一葉「素晴らしいです、智樹くん。<存在>と<自己の存在>を異なるものとして考える思考については、非常に面白いのですが、また別の機会にしましょう。ここでは、<存在>は<自己の存在>であると見なすことで、とりあえず話を進めていきましょう。」
智樹「存在は自分という視点からしか捉えられないから、存在は自己の存在でしかない、という考えですね?」
一葉「はい。そうです。素晴らしいです。」
智樹「ありがとうございます。でも、釈迦の言葉から、同じ認識から、異なる結論に至っているように思えます。」
一葉「私も、そう思います。デカルトにおいては、それは肯定すべきものへと向かいます。一方、釈迦にとっては?」
智樹「釈迦は、デカルトとは異なった方向へと進むわけですね?」
一葉「はい。デカルトは『方法序説』において、疑えるものはすべて疑い、それでも疑いえぬものを探します。その上で、次のように述べています。」
一葉さんは、革製の手帳を広げて読み上げる。
私がこのように、すべては偽である、と考えている間も、そう考えている私は、必然的に何ものかでなければならぬ、と。そして「私は考える、ゆえに私はある」Je pense, donc je suis. というこの真理は、懐疑論者のどのような法外な想定によってもゆり動かしえぬほど、堅固な確実なものであることを、私は認めたから私はこの真理を、私の求めていた哲学の第一原理として、もはや安心して受け入れることができる、と判断した。
[デカルト『方法序説』]
智樹「哲学の第一原理ですか・・・。すごいですね。」
一葉「はい。そうですね。その上で、デカルトは次のように言うのです。」
そして、「私は考える、ゆえに私はある」という命題において、私が真理を言明していることを私に確信させるものは、考えるためには存在せねばならぬということをきわめて明晰に私が見るということより以外に、まったく何もない、ということを認めたから、私は、「われわれがきわめて明晰に判明に理解するところのものはすべて真である」ということを、一般的規則として認めてよいと考えた。
[デカルト『方法序説』]
智樹「ええっと、何を言っているのか分かりません。」
一葉「はい。私も分かりません。」
そう言って、一葉さんは面白そうに静かに微笑むのだ。
智樹「正直なところ、最初の言葉の方は、面白いと思います。でも、次の言葉は、メチャクチャだとしか思えません。」
一葉「私もそう思います。デカルトの理論はおかしいので置いておきましょう。ここで考えたいのは、釈迦とデカルトの対比から、何が分かるかです。」
智樹「どういうことでしょうか?」
一葉「<わたしは考えるから有る>ということから、何か別の価値を作り出すことについてです。」
智樹「・・・・・・。」
一葉「<わたしは考えるから有る>ということを、ひとまず認めましょう。それを認めたとして、それはただ、それだけの話です。」
智樹「そうかもしれません。」
一葉「でも、そこから、思想の方向性を産み出すことができてしまうのです。釈迦とデカルトは、それぞれに異なる方向へと向かっているのです。」
智樹「どういう方向でしょうか?」
一葉「デカルトは、その認められることから、思考の確実性を捏造しました。では、釈迦は?」
智樹「釈迦は、そうか。それは、おそらく、生の肯定の否定ではないでしょうか?」
一葉「素晴らしいです。智樹くん。私も、そうだと思います。<わたしは考えるから有る>ということそのものから、生の肯定の思想が生まれることを、釈迦は分かっていたのだと思います。」
智樹「釈迦は、苦しみからの解放を説いた。その上で、輪廻からの解脱も説いた。だから、生の肯定へと向かう思想は、釈迦にとって都合が悪かった・・・。」
一葉「その通りです。ですから釈迦は、<われは考えて、有る>という考えの正当性も、その威力も、おそらくは正確に知っていたのだと思います。その上で、それを<迷わせる不当な思惟>として戒めたのです。釈迦の教えのために。」
智樹「釈迦は、本当にそこまで考えていたのでしょうか?」
一葉「私は、考えていたと思います。例えば、釈迦が凄まじい人物であることは、次のような釈迦の言葉にも現れています。」
そう言って、彼女は釈迦の言葉を読み上げる。
立派な人々は説いた――[ⅰ]最上の善いことばを語れ。(これが第一である。)[ⅱ]正しい理を語れ、道理に反することを語るな。これが第二である。[ⅲ]好ましいことばを語れ。好ましからぬことばを語るな。これが第三である。[ⅳ]真実を語れ。偽りを語るな。これが第四である。
[サンユッタ・ニカーヤ 第Ⅷ篇 第五節]
智樹「善いことを語れってことですか?」
一葉「そうなのですが、ここにはとてつもない洞察があります。そこを、注意深く、見逃さないようにしてほしいのです。」
智樹「ええと、四段階に分かれているところですか?」
一葉「はい。その通りです。その四段階の分かれ方についても、注意して考えてみてください。」
智樹「最上の善いことば、正しい理、好ましいことば、真実・・・。」
一葉「これらの順序と、その場合分けは、あまりにも素晴らしいと、私には思われるのです。」
智樹「真実が四番目ということは、そこに批判できる可能性があると思うのですが・・・。」
一葉「もちろん、ある立場においては、その通りです。しかし、その立場は、思想的にはレベルが低いものでしかありません。」
智樹「どうしてでしょうか?」
一葉「人は、真実の価値を説きます。そのとき、なぜ真実に価値があるのかを問うことができるからです。それは通常の社会では、身も蓋もない言い方をしてしまうと、基本的に禁止されていることなのです。例えば、究極的には暴力などによって。しかし、それを問うことが許されているレベルがありえます。」
智樹「そのレベルは、思想とか哲学とか呼ばれる場所なのですね?」
一葉「はい。たいへん良くできました。」
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