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第一部 第十章 中村光夫『「近代」への疑惑』の検討


 中村は、〈近代とはそれが外国からの慌しい移植であるといふ点ですでにヨーロッパのそれとは性格を異にする筈である。いはば近代とはヨーロッパにおいては少くも国産品であつたに対し、我国ではまづ何より輸入品であつた。そしてこの輸入品としての性格が我国の「近代」のもつとも大きな特色をなして来たのではなからうか〉と述べています。さらに、〈すでに我国においては「近代」そのものが輸入品である以上、この問題は一般に輸入文化の問題を離れてあり得ない〉と語られています。
 このような考え方は参考に値すると思われます。近代的な文化現象が西洋からの輸入品・移入品であったことに加え、中村は〈僕等が「西洋」のうちにただ「近代」をしか見なかつたといふこと〉を問題点として挙げています。つまり、〈云ふまでもなく近代性は現代ヨーロッパ文化の著るしい特色であるにしろ、それは結局文化の一様相であつて、そのすべてではない。日本が長い歴史を持つやうに、ヨーロッパの諸国はいづれも古い国である〉という視点です。〈遠い過去において西欧の形成に役立つた諸要素はいづれも現代におけるヨーロッパ人の精神を形造る生きた思想である〉というわけです。
 ここでは、〈「西欧」を「近代」の同義語と見る稀薄な謬見〉が問題視されているのです。そして、〈この原因を究めるためには、僕等は明治以来所謂西洋文明をいかなる形で受入れて来たかについて振り返つて見る必要があらう〉と語られているのです。
 このような考え方に基づいて、中村は自身の見解を述べています。


 古典復活を説き、歴史と伝統を説く人々の間にもかういふ精神の不具者は数多く見出されるのである。いはゞ彼等はかつて西洋を担いだと同じやうな調子で我国の古典を担いでゐる。少くも一国民の文化的自覚といふやうな真剣な事業がかうしたお手軽な精神の作業によつて成しとげられるとは僕には信じられないのである。おそらくあらゆる点で現在社会の母胎であつた明治の文明開化政策は、今その楯の反面で僕等の身に報いて来てゐるのである。
 そしてここに僕等の実際に生きてゐる「近代」の悲しい正体があるとすれば、この精神の危機を僕等のまづ闘ふべき身内の敵として判つきりと意識することに、その超克の着実な第一歩があらう。
 西洋の特殊な影響によつてかうした混乱に陥つたことが、まさしく僕等の責任であるとすれば、今更西洋文化を排斥して見たところでこの病弊の根本は救はれまい。
 反対に明治以来の我国の経て来た文化的混乱が、主として西欧と日本との間に存した力の不均衡とそれに歪められた不充分な西洋理解に基くとすれば、この不均衡が見事に恢復され、僕等がその「気ぜはしい」圧迫をもはや感じない現代こそ、本当に西洋を理解する好機なのではなからうか。
 僕等がある物や人に対する徒らな心酔や畏怖から完全に逃れるのはただその対象の本当の姿を判つきり見極めたときである。これは個人の成熟の論理であるとともに、一国の文化の成熟の辿るべき現実の過程でもあらう。


 明治の文明開化政策に日本近代の悲しい正体があり、それによる精神の危機こそが闘うべき身内の敵であるということ、この自覚がまずは必要だというのです。そのためには、西欧を西欧の長い歴史に基づいて理解することが必要になると考えられているのです。
 これは確かに傾聴に値します。具体的には、「自由主義」や「民主主義」などの西欧近代が生み出したイデオロギーに対抗するためには、近代以前の西欧の知的遺産が大いに役立つと思うからです。
 西欧の歴史に基づいて西欧を理解し、その理解によって「近代の超克」という問題に取り組むこと。これは確かに、日本が文化の成熟を目指すときに取りうる一つの方法だと思います。




 

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