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第一部 第十二章 座談会の検討


 1942年に開催された座談会「近代の超克」では、13名の論者が議論を展開しています。
 翌1943年の同名タイトルの単行本では、文芸誌『文学界』に掲載された論文のうち、理由は明らかではりませんが鈴木の論文が外されています。
 各論者の意見については、各人の論文によってある程度明確になっています。ここの座談会の検討では、論文が外された鈴木成高および論文を書いていない小林秀雄の二人の発言について論じていきます。


【鈴木成高の発言の検討】
 鈴木は、近代について次のように述べています。


 ヨーロッパ的近代といふものは間違つて居るといふことを、この頃頻りに考へるやうになつて来て居りますが、さういふ間違つて居る近代といふものの出発点が何処にあるかといふことを考へれば、やはり大体誰でも考へることは、フランス革命が出発点なんです。仮りにさういふものから考へて、さういふ所から系譜を引いて来て居る「近代」、それは政治上ではデモクラシーとなりますし、思想上ではリベラリズム、経済上では資本主義、さういふものが十九世紀であると言つてよいわけだらうと思ひます。


 ここには、非常に重要な論点が示されています。
 まず、近代がフランス革命から始まったということです。次に、近代とは、政治におけるデモクラシー(民主主義、民衆政治)・思想におけるリベラリズム(自由主義)・経済におけるキャピタリズム(資本主義)として理解されていることです。ここの問題設定は、非常に重要だと思われます。
 鈴木は〈近代的なものがヨーロッパ的なものである〉と見なし、それは〈世界的なものといふ意味のヨーロッパ〉だと指摘しています。そのため、〈ヨーロッパの世界支配といふものを超克するために現在大東亜戦争が戦はれて居ります。さういふのもやはり一つの近代の超克といふことであるといつて宜しいと思ふ〉という考えが示されています。
 さらに鈴木は、〈そのよつて来る根源をもつと深く遡つて行かなければならないといふ問題〉にまで考察を進めています。そこでは、〈やはりルネサンスと宗教改革、さういふ問題に行当つて来る〉わけです。
 具体的には、〈ルネサンスは、根本においては人間の自己更新といふこと、人間を新たにするといふところに根本がある〉と語られ、〈ルネサンスは根本は中世から生れてきたものでありながら、自らは中世に対する叛逆を意図してゐる。そこに一つの根本問題があると思ふのです〉と述べられています。つまり、〈客観的には近代はその出発点を中世に負うてゐるにかゝはらず、主観的には近代人は中世の否定から出発したと考へ、そこに正しいものがあると考へてゐる。それが近代の矛盾だと思ふんです〉というわけです。
 そのため、〈中世に負ふところのものを顧みるといふこと〉が、〈近代の超克といふことの一つの道〉だと考えられているのです。
 鈴木は、〈私は明治時代の日本人のヨーロッパに対する理解が非常に部分的で皮相的であつた、根柢にまで徹しないところがあつたと思ふ。それが非常に悪かつた。それだから私はさういふ文明開化を克服する為に、日本的なものを打立てるのも宜しいが、やはりもつとヨーロッパに徹した理解をもつといふことも必要ではないかと思ふ〉と述べています。〈西洋史を専門にやつて居つて特に感ずることは、ヨーロッパに対して本当の根源的な理解を持つことが必要ではないか、さういふことを考へさせられますね〉というわけです。
 鈴木が「近代の超克」の座談会で述べていることは、傾聴に値します。特に、近代の意味するところが民主主義・自由主義・資本主義という形で明確化されているところは重要です。近代の超克の取り組み方にしても、ヨーロッパの前近代(中世)を理解することに活路を求めているのです。ヨーロッパを深く理解することで、ヨーロッパ的近代に向き合うということです。「人間の自己更新」や「人間を新たにする」という考え方を覆すことによって、近代の超克の可能性が示されているのです。


【小林秀雄の発言の検討】
 小林は、〈僕らは近代にゐて近代の超克といふことを言ふのだけれど、どういふ時代でも時代の一流の人物は皆なその時代を超克しようとする処に、生き甲斐を発見してゐる事は、確かな事と思へる〉と述べています。さらに、〈何時も同じものがあつて、何時も人間は同じものと戦つてゐる――さういふ同じもの――といふものを貫いた人がつまり永遠なのです。さういふ立場で以て僕は日本の歴史、古典といふものも考へるやうになつて来たのです〉と語られています。
 小林は、〈ほんたうに創造的立場といふものは新しいものは要らん立場ではないだらうか。古人は達するものに達しちやつたんです、古典はね。僕達現代人は現代にゐるから、創造に要する材料が違ふからまた違つたものが出来るのに過ぎないので、古人の達したより以上のものは絶対にできんといふ謙遜な気持ですよ。さういふ謙遜な気持が現代人に欠けてゐるのを僕は感ずるのです、唯々現代に生れたといふことに非常に無意味な優越感を持つてゐる〉と考えているのです。
 その上で、〈要するに近代性の克服とは西洋近代性の克服が問題だ。日本の近代性の克服なんぞわけはない〉と小林は言うのです。〈近代の超克といふことを僕等の立場で考へると、近代が悪いから何か他に持つて来ようといふやうなものではないので、近代人が近代に勝つのは近代によつてである。僕等に与へられて居る材料は今日ある材料の他にはない。その材料の中に打ち勝つ鍵を見付けなければならんといふことを僕は信じて居ます〉というわけです。
 小林は、〈僕としては、古典に通ずる途は近代性の涯と信ずる処まで歩いて拓けた様に思ふのです〉と述べています。
 つまり、近代とは西洋近代性のことであり、近代という時代によって与えられている材料をもって、西洋の近代性に打ち勝つべきことが語られているのです。近代という時代には、古典を含めた永遠があります。それぞれの時代において人間は、それぞれの時代という制約条件の中で生きるしかないのです。このことは当たり前と言えば当たりませですが、そのことを自覚することは、自身の人生にとって少なくない意義があると私には思われます。



 

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