第一部 第四章 吉満義彦『近代超克の神学的根拠』の検討

 
 吉満は、〈たゞ近代ヨーロッパの精神問題が、深き眼に取つては、単なる社会思想的範疇のものでなく、形而上学的神学的性格のものであることが指摘されねばならないと先づ考へる。その意味で、私は近代的精神の問題を近代的無神論の問題として検討しようと思ふのである〉と述べています。
 義満の意見は、かなり特殊でありキリスト教的世界観に基づいています。〈我々は西欧的近代の悔恨と共に東亜の新しき精神の文明が、健康なる形而上的ロゴス的知性によつて再建されねばならないと信じ、再建されるであらうと信ずる〉などと語られています。「我々は」とありますが、厳密には「義満が」そう考えているということだと思われます。西谷啓治の『「近代の超克」私論』の意見と比べてみると面白いと思います。
 ここで注意しておくべきことは、「健康なる形而上的ロゴス的知性」という言葉についてです。形而上の健全性とは、どのように判定したら良いのでしょうか。
 その具体例は、本論文で明確化されてはいないようです。何とかヒントとなる文章を探すなら、〈近代的精神の超克は、先づ我々自らにおける近代的自我からの解放を意味せねばならない。魂の悔恨が近代の超克の第一条件であること既述の如くであるならば、問題は個々人間の霊魂から始められねばならない〉という箇所でしょうか。「近代的自我からの解放」には「魂の悔恨」が必要であり、そのためには「個々人間の霊魂から始め」なければならないということなのでしょう。私には、単に良さそうに聞こえる言葉を並べただけにしか思えませんでしたが...。
 義満は、〈近代超克の問題が所詮「如何にして近代人は神を見出すか」の問題に帰すことは、期せずしてこの度の会合の凡ての人々に夫々の意味で認められた如くに思へたのは本懐であつた〉と述べています。そうかもしれませんが、そうだとするなら、その「神」の中身が問われなければなりません。
 西欧近代における無神論を問題視するなら、西欧中世以前の神学を取り戻すのも一つの手ではあります。ただし、それはもはや、日本人の問題には成り得ないと思うのです。

 

 

 

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