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第二部 第四章 第二節 ヴェーバー検討



 マックス・ヴェーバー(Max Weber, 1864~1920)は、ドイツの社会学者・経済学者です。社会学の黎明期の主要人物の一人です。


第一項 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の資本主義
 ヴェーバーが1904年から1905年にかけて著した『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神(Die protestantische Ethik und der 'Geist' des Kapitalismus)』は、プロテスタントのカルヴァン派の世俗内禁欲が、近代資本主義の精神的な基盤を準備したと論じたものです。
 ヴェーバーは、古代にも中世にも資本主義は存在しましたが、近代資本主義のような〈独自のエートスが欠けていた〉と考えています。その欠けていたものとは、〈職業義務(Berufspflicht)という独自な思想〉であり、それは〈資本主義文化の「社会倫理」に特徴的なもの〉だというのです。それは、〈あたかも労働が絶対的な自己目的であるかのように励むという心情〉という〈天職(Beruf)〉観念なのです。
 つまりヴェーバーは、〈正当な利潤を「天職(Beruf)」として組織的かつ合理的に追求するという心情〉を、〈(近代)資本主義の精神〉と考えているのです。〈近代資本主義の拡大の原動力〉とは、〈資本主義精神の展開〉だというのです。


 決定的な転換を生み出したのは、通常、経済至上どの時代にも見られる命知らずの厚顔な投機家や冒険者たち、あるいは端的に「大富豪」などではなくて、むしろ厳格な生活のしつけのもとで成長し、厳密に市民的な物の見方と「原則」を身につけて熟慮と断行を兼ねそなえ、とりわけ醒めた目でまたたゆみなく綿密に、また徹底的に物事に打ち込んでいくような人々だったのだ。


 ヴェーバーは、〈資本主義的経済秩序はこうした貨幣獲得が「天職」としておこなわれることを必要としている〉と述べています。
 この資本主義精神について、〈この「天職」という概念の中にはプロテスタントのあらゆる教派の中心的教義が表出されている〉とヴェーバーは考えています。
 プロテスタントのカルヴァン派には、救われるか否かは神の意志で予め定められているという「予定説」があります。予定説のゆえに、信仰心のある者は救済の確証を得ようとして禁欲的な生活を送り、結果として経済的な成功を遂げます。〈後期のピュウリタンたちは自分の行動ばかりでなく、神の行動をさえも審査して、生涯のあらゆる出来事のうちに神の指をみた〉というわけです。それゆえに、経済的な成功は救済の確証になるというのです。〈禁欲はもはや(義務以上の善き行為)ではなくて、救いの確信をえようとする者すべてに要求される行為だった〉というのです。すなわち、〈来世を目指しつつ世俗の内部で行われる生活態度の合理化、これこそが禁欲的プロテスタンティズムの天職観念が作り出したものだった〉というわけです。


 職業の有益さの程度を、つまり神によろこばれる程度を決定するものが、もちろん第一には道徳的基準、つぎには、生産する財の「全体」に対する重要度という規準で、すぐに、第三の観点として私経済的「収益性」がつづき、しかも、実践的にはこれがもちろんいちばん重要なものだった、ということなのだ。


 この逆説的な論理によって、富の獲得は悪いことではなく、正しいことになるのです。〈財産が大きければ大きいほど――もし禁欲的な生活態度がこの試練に堪えるならば――神の栄光のためにそれをどこまでも維持し、不断の労働によって増加しなければならぬという責任感もますます重きを加える〉というわけです。〈営利を「天職」と見なすことが近代の企業家の特徴となったのと同様に、労働を「天職」と見なすことが近代の労働者の特徴となった〉とヴェーバーは考えているのです。


 近代資本主義の精神の、いやそれのみでなく、近代文化の本質的構成要素の一つというべき、天職理念を土台とした合理的生活態度は――この論稿はこのことを証明しようとしてきたのだが――キリスト教的禁欲の精神から生まれ出たのだった。


 このようにヴェーバーは、近代資本主義の精神が生まれ出た理由を提示しているのです。
 さらにヴェーバーは、近代資本主義が生まれ出た後についても言及しています。〈この秩序は現在、圧倒的な力をもって、その機構の中に入りこんでくる一切の諸個人――直接経済的営利にたずさわる人々だけではなく――の生活のスタイルを決定しているし、おそらく将来も、化石化した燃料の最後の一片が燃えつきるまで決定しつづけるだろう〉とあります。生み出した精神から切り離され、資本主義はそれ自体で動いていくかのようです。そのとき、近代資本主義が生まれるために必要とされた天職という観念はどうなるのでしょうか。


 今日では、禁欲の精神は――最終的には否か、誰が知ろう――この鉄の檻から抜け出してしまった。ともかく勝利をとげた資本主義は、機械の基礎の上に立って以来、この支柱をもう必要としない。禁欲をはからずも後継した啓蒙主義の薔薇色の雰囲気でさえ、今日ではまったく失せ果てたらしく、「天職義務」の思想はかつての宗教的信仰の亡霊として、われわれの生活の中を徘徊している。


 将来この鉄の檻の中に住むものは誰なのか、そして、この巨大な発展が終わるとき、まったく新しい預言者たちが現われるのか、あるいはかつての思想や理想の力強い復活が起こるのか、それとも――そのどちらでもなくて―― 一種の異常な尊大さで粉飾された機械的化石と化することになるのか、まだ誰にも分からない。それはそうとして、こうした文化発展の最後に現れる「末人たち」≫letzte Menschen≪にとっては、次の言葉が真理となるのではなかろうか。「精神のない専門人、心情のない享楽人。この無のもの(Nichts)は、人間性のかつて達したことのない段階にまですでに登りつめた、と自惚れるだろう」と。


 本書の最後には、ヴェーバーはまるで予言者のように不吉な言葉を残しています。ヴェーバー自身が述べているように、〈ただし、ここまでくると、われわれは価値判断や信仰判断の領域に入りこむことになる〉のです。


第二項 講演『社会主義』の社会主義
 ウェーバーは1918年の講演『社会主義』で、〈社会主義の対立物は、私経済的秩序にほかなりません〉と述べています。ヴェーバーは社会主義について、〈第一に、利潤というものがない経済、したがいまして、私的企業家が自己の責任で生産を指導する状態がない経済のこと〉だと述べ、〈第二に、いわゆる生産の無政府状態、いいかえますと、企業家相互間の競争は存在しません〉と語っています。


第三項 『新約聖書』のイエスの言葉
 ヴェーバーのアイディアを考える上で、『新約聖書』におけるイエスの言葉ほど参考になるものはないでしょう。


[マタイによる福音書]

「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」


[マルコによる福音書]

「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」


「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」


[ルカによる福音書]

「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」


「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」


第四項 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』考
 プロテスタンティズムが歴史の中で、意図せずに資本主義文化の発達を促進する役割を果たしたというのがヴェーバーのアイディアです。その上で、資本主義社会の機構が確立すると、禁欲的プロテスタンティズム自身も歴史の背景に退くことになったとヴェーバーは考えています。
 しかし、『新約聖書』におけるイエスの言葉などを参照すると、ヴェーバーのアイディアは、どうとでも言えてしまえるものの一つにしか思えなくなります。多くの貨幣を獲得した金持ちに対するイエスの見解と、貨幣獲得を天職だと見なすプロテスタンティズムの見解には、無視できない奈落が横たわっています。
 はてして、〈天職理念を土台とした合理的生活態度〉が、〈キリスト教的禁欲の精神から生まれ出た〉と言えるのでしょうか? 言えるとしたら、それは一体何によってなのでしょうか?
 その何か、は、いったい、どのような呪いなのでしょうか?


第五項 ヴェーバーの外に立つ
 資本主義とは、18世紀末イギリスに起こった産業革命の後、19世紀中ごろからイギリスで使われるようになった言葉です。
 ニュートン力学などの科学技術は、人類に異常なまでの恩恵をもたらすことになりました。その科学技術と、それにブレーキを掛ける道徳の不在によって、資本主義と呼ばれるような資本の利益と蓄積をひたすらに追い求める異常な状態が現れることになったのです。
 それは、おそらく、人類史のどこで発生してもおかしくない事態だったのです。しかし、歴史を巻き戻すことはできませんから、それは、どこか特定の地点で発生することになります。そして、その地点は、その理由を作り出すことになるかもしれないのです。
 それは、たまたま偶然にもそこで生まれたのではなく、そこで生まれる理由があった、ということになったのです。なぜなら、その方が、そこにとって都合が良いからです。
 これが、資本主義の精神の発生メカニズムを生み出した、その、呪いのメカニズムです。




 

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