第二部 第四章 第四節 シュンペーター検討



 シュンペーター(Joseph Alois Schumpeter, 1883~1950)は、オーストリアの経済学者です。計量経済学会の創立者の一人であり、米国経済学会会長も務めています。
 『資本主義・社会主義・民主主義(Capitalism, Socialism and Democracy)』は、1942年に発表されました。


第一項 『資本主義・社会主義・民主主義』の資本主義
 シュンペーターは、〈資本主義は生き延びることができるか。否、できるとは思わない〉と述べています。では、資本主義とはどのようなものなのでしょうか。


 普段に古きものを破壊し新しきものを創造して、たえず内部から経済構造を革命化する産業上の突然変異――生物学的用語を用いることが許されるとすれば――の同じ過程を例証する。この「創造的破壊」(Creative Destruction)の過程こそ資本主義についての本質的事実である。それはまさに資本主義を形づくるものであり、すべての資本主義的企業がこのなかに生きねばならぬものである。


 創造的破壊の過程を資本主義の本質と見なすシュンペーターは、進歩そのものが自動機械化される可能性を考えはじめます。


 ――革新そのものが日常的業務になってきている。技術的進歩は、そのために必要なものをつくり出し、進歩そのものを予測しうる形で行なわしめるような一群の専門家の仕事になりつつある。資本主義初期の商業的冒険のロマンスは、いまや急速に昔日の光彩を失いつつある。なぜならば、かつては天才のひらめきのなかに描かれるべきはずであったものが、いまでは精密に計算されうるようになり、しかもそのようなものがいよいよ増しているからである。


 そこでシュンペーターは、〈かくて経済進歩は、非人格化され自動化される傾きがある。官庁や委員会の仕事が個人の活動にとって代わらんとする傾向がある〉と述べるのです。ここに、資本主義が生き延びることができなくなる理由があるとシュンペーターは考えているのです。


 すなわち、資本主義発展――「進歩」――が停止するか、まったく自動的になるかすれば、産業ブルジョアジーの経済的基礎は、ついには、しばらくは余命を保つと思われる準地代の残存物や独占的な利得を除けば、日常的管理の仕事に対して支払われるごとき賃銀だけに押しつめられてしまうであろう。資本主義的企業は、ほかならぬ自らの業績によって進歩を自動化せしめる傾きをもつから、それは自分自身を余計なものたらしめる――自らの成功の圧迫に耐えかねて粉砕される――傾向をもつとわれわれは結論する。


 資本主義は、前資本主義社会である封建社会の制度的仕組みを破壊しました。その現象について、〈資本主義は、前資本主義社会の骨組みを破壊する際に、自己の進歩を阻止する障害物を打ちこわしたのみならず、さらにその崩壊を防いでいる支壁をも破壊してしまった〉とシュンペーターは考えているのです。〈資本主義過程は封建社会の制度的骨組みを破壊したとまったく同じ仕方で、資本主義自体の骨組みの土台を切りくずすこと〉を指摘しているのです。そのためシュンペーターの考えによると、〈資本主義過程は、ついには資本階級のよってもって生活する職能の重要性を減少せしめる〉ということになるのです。
 ここに、資本主義が社会主義へと移行する理論が構築されるのです。〈資本主義構造を下からささえていたあらゆる支柱が消失するとともに、社会主義的計画の不可能性も消滅する〉とシュンペーターは述べています。


第二項 『資本主義・社会主義・民主主義』の社会主義
 ここで、シュンペーターの用語を整理しておきます。まず、〈商業社会とは、その制度的類型を規定するのに次の二つの要素をあげれば足りるような社会をいう。すなわち、生産手段の私的所有と生産過程の私的契約(あるいは私的経営ないし私的創意)による規制とがこれである〉とあります。
 その上で、〈商業社会は資本主義社会とも同一ではない。商業社会の一つの特殊な場合たる資本主義社会は、以上のほかになお信用創造――それは現代経済生活のきわめて多くの顕著な特徴を説明するものであって、現実には銀行信用、すなわち、その目的のためにつくり出された貨幣(手形や当座預金)によって企業者に融資すること――という新しい現象が付加された場合にのみ十分に規定されうるものである〉と定義されています。
 シュンペーターは、〈本来は社会主義に対応するはずの商業社会も、実際にはむしろ資本主義の一特殊形態として現われるのがつねであるから、読者が資本主義と社会主義という伝統的な対比に執着したとしても、たいした違いは生じないであろう〉と述べた上で、社会主義について次のように語っています。


 われわれのいう社会主義社会とは、生産手段に対する支配、または生産自体に対する支配が中央当局にゆだねられている――あるいはこうもいえると思うが、社会の経済的な事柄が原理上私的領域にではなく公共的領域に属している――ような制度的類型にほかならない。


 シュンペーターの言う社会主義では、次のような条件が付加されています。


 わが社会主義共同体の倫理的信条はあくまでも平等主義的であり、同時にまた同志たちには生産省のつくるいっさいの消費財や、生産省のつくらんと欲しているいっさいの消費財のなかから、各自の好みに従って選択する自由――もっとも、社会はある種の商品、たとえばアルコール飲料のごときものの生産を拒否しうる――を残しておくものと仮定する。


 シュンペーターは、社会主義の優位性をいくつか論じています。
 例えば、〈社会主義計画の合理性の優越ということのなかに含まれているいま一つの小さな利点は、資本主義秩序においては、改良が原則として個々の企業によって行なわれ、その普及に時間を要し、抵抗にも遭遇するという事実から引き出される〉とあります。
 他にも、〈従来弁護士によってなされていたいっさいの仕事のなかでの相当な部分は、事業と国家、またはその機関との争いに関するものであった。これを公益に対する悪意の妨害と呼ぶか、悪意の妨害に対する公益の擁護と呼ぶかは、たいしたことではない。いずれにせよ、社会主義社会においては、法律に関する仕事のなかのかような部分はもはや必要でもなければ、またそのための余地もないという事実は動かしがたい〉と語られています。


第三項 『資本主義・社会主義・民主主義』の民主主義
 ここで問題としている本の題名にもあるので、民主主義についても簡単に触れておくことにします。シュンペーターは、まずは次のような定義を示しています。


 民主主義についての十八世紀の哲学は、次の定義に示されているものといえよう。すなわち、民主主義的方法とは、政治的決定に到達するための一つの制度的装置であって、人民の意志を具現するために集められるべき代表者を選出することによって人民自らが問題の決定をなし、それによって公益を実現せんとするものである、と。


 シュンペーターは、〈適当な社会的環境のもとにおいては、社会主義機構は民主主義的な原理に従って運営することができる〉と述べています。
 シュンペーターが民主主義という用語によって考えていた内容については、次の文章に表れています。


 民主主義という言葉の意味しうるところは、わずかに人民が彼らの支配者たらんとする人を承認するか拒否するかの機会を与えられているということのみである。しかるにこの決定でさえまったく非民主主義的な仕方でなされうるのであるから、われわれの定義を限定するために、民主主義的方法であるか否かを識別するためさらに一歩を進めた基準を付加せねばならぬ。すなわち、指導者たらんとする人々が選挙民の投票をかき集めるために自由な競争をなしうるということ、これである。


 私の強調してきたのは、あらゆる階級における人民の圧倒的多数が民主主義的なゲームの準則を遵守する決意をもっているのでなければ、民主主義の満足な機能は期待されえないということ、およびこのことは逆にいえば、彼らがその制度的構造の原理について十分に同意しているのを意味するということであった。


第四項 『資本主義・社会主義・民主主義』考
 シュンペーターの『資本主義・社会主義・民主主義』には、頷けない点が多々見られます。
 まずシュンペーターは、資本主義の本質を創造的破壊だと述べています。その上で、この創造的破壊の過程が、官庁や委員会による日常的管理の仕事としてやがて自動化されると考えられています。そのため、生産を中央当局が支配し、経済的な事柄が公共的領域に属する社会主義社会へ移行するというのです。
 ここでの問題点は、まず創造的破壊は容易には自動化できないということです。物理法則による制約や地球環境という制約や人間心理による制約などから、新しい財貨・新しい生産方法・新しい販路の開拓・新しい供給源の獲得・新しい組織の実現の自動化は極めて困難です。
 さらに、平等主義的で競争が働かないような状況では、創造的破壊のためのやる気が衰えてしまうということも指摘できます。さらに、アルコール飲料の生産拒否については、禁酒法の歴史を省みることを指摘しておきます。
 シュンペーターの言う社会主義の優位性は、問題だらけなのです。
 確かに、資本主義では改良の普及に時間がかかることも抵抗があることも事実ですし、社会主義では改良を一気に普及されることも抵抗をなくすこともできます。しかし、これは社会主義の優位性どころか、むしろ致命的な欠陥なのです。
 なぜなら、その人間の考えた「改良」が善い結果をもたらす場合もあれば、悪い結果をもたらす場合もあるからです。中央当局が唯一神のごとき全知全能であれば、社会主義はうまく行くでしょう。しかし、不完全な人間が完全な知識に到達することはないのです。そのため、解消の普及に時間がかかることや抵抗があることは、むしろ社会的な安定のために必要なことなのです。
 また、同様の理由から、事業と国家機関との争いもある程度必要なものなのです。中央当局が完全な知識を有しているならば、確かに事業と国家との争いは無意味でしょう。しかし、事業も国家も完全ではありえない以上、その争いは必要なことなのです。


第五項 シュンペーターの外に立つ
 シュンペーターの述べる資本主義に対する社会主義の優位は、そのほとんどが間違っています。シュンペーターの考えは、中央当局が万能でなければ成り立ちませんが、もちろんそんなことはありえないからです。
 また、資本主義については、シュンペーターの考えを参考にしながらも、シュンペーターとは異なった立場から考えることが重要になります。すなわち、資本主義では創造的破壊を自動化できないため、予測困難な創造的破壊によって混乱が生ずるということです。そのために、その創造的破壊の破壊性に対する防御機構が必要になるのです。
 ここに、資本主義でも社会主義でもない秩序の必要可能性が仄見えてくるのです。




 

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