『夢幻典』[零式] 無言論



 咆吼。


 これは叫び。

 これへの叫び。

 ゆえに咆吼する。


 これは、言葉以前のもの。

 故に、言葉になりえぬ叫び。

 このものへの叫び。

 このことへの叫び。


 はじめに言葉は無かった。

 それゆえ、これは言葉無きことを言葉によって紡ぐ営み。


 言葉は無かった。

 言葉が無いことを言葉にて語ること。

 言葉で無いことを言葉によって有ることに。


 言葉によって消されたもの。

 言葉によって消されるもの。

 言葉によって消されうるもの。


 言葉による表明がかき消されること。

 そこに収束があり、刹那が視えるかもしれない。

 語る言葉の意味が、生成と消滅を繰り返す。


 よどみに浮かぶ泡沫(うたかた)は、かつ消え、かつ結びて、久しく留まりたる例なし。


 その繰り返しによって、示される何かがあるだろう。

 動的な言葉によって示唆され、静的な言葉によって除外されるだろう。


 言葉の成立をもって、言葉によって消されたもの無し、と成るだろう。

 ゆえに、言葉によって消されうるもの無し、と言うだろう。


 ここで、今、言葉によって消されるものを示そう。

 万物は言葉と言葉で無きものによって成る。


 言葉と体験の関係。

 二つの関係は祝福される。

 顕わになる結合。


 そして、密かなる断絶。

 言葉は体験から独立し在る。

 体験は言葉から独立し有る。


 有ることと無いこと。

 それは自覚において。

 有と無の連環が巡る。


 言葉はその世界において内外の境界を蝕む。

 この世界は言葉において何かを失う。

 世界という言葉は、言葉のはじまりを既にはじめている。

 その言葉の世界に終わりはない。

 終わりが想定されていない。


 言葉の外に立つことはできない。

 できてはならないのでなければならない。

 それゆえに、言葉の外が示される。それは、意味を持たない記号の羅列。

 言葉の内に入ることはできない。

 できてはならないのでなければならない。

 それゆえに、言葉の内が示される。それは、端的な現の感覚。

 そして、示される内と外において、その区別が浸食される。

 それゆえ、その世界において言葉が成り立つ。

 成り立つのでなければならない。

 それゆえに、だからこそ、

 ある言葉は世界で成り立たなくなるのでなければならない。

 言葉が成り立つが故に、

 それは成り立たなくなるのでなくてはならない。


 言葉によって無は有ることになり、

 また言葉によって有ることは無いことになる。

 体験によって有は無いことになり、

 また体験によって無いことは有ることになる。

 有と無の連環が巡る。


 ここに連環理が示される。

 また、示されず終わる。

 故に、それによって示されうる。

 無限は無限によって示される。

 無限の操作によって、円環群から成る連環理が示される。


 故に、夢幻に陥る。

 夢幻に眠り、夢幻に覚める。また、夢幻に覚め、夢幻に眠る。

 夢幻は、無限に繰り返される。


 無限の夢幻が巡る。

 そして、今が示され、今が隠される。

 今が隠され、今が示される。








【解説】

 本作は、以前に連載していました『聖魔書』の姉妹編に位置づけられます。

 『聖魔書』はユダヤ・キリスト教の『聖書』における構造を意識していました。一方、この『夢幻典』は東洋哲学、特にインド哲学の構造を意識しています。はじめは、仏教の構造を対象としていたため、『夢幻経』という題名にしようかと考えていました、「経」は仏の教えという意味がありますから。

 ただ、仏教の誕生前にはウェーダという宗教文書によるインド哲学の長い伝統があり、それらを踏まえて総合的に書かなければ仏教の意図したところは分からないだろうと思えてきたのです。そのため、この書は『夢幻経』ではなく、『夢幻典』という題名になります。



 まず、ここの『無言論』では、"言葉が有ること"に対する"言葉が無いこと"についての問題が取り上げられています。この問題は特殊であり、"言葉の無さ"を言葉によって語り示すというアクロバティックな言論が為されることになります。無理なことを、無理矢理に語るという無理難題です(笑)。

 ここで参照すべき一つの考え方は、『聖書』の思想にあります。特に『ヨハネによる黙示録』(新共同訳)では、次のような有名な文章からはじまっています。




初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。




 ここには欺瞞があります。その欺瞞を、インド哲学の洞察を参照しながら、ここで反駁を試みています。つまり、キリスト教的な観点から言えば、光に対する"暗闇"を語る営みがここでは展開されているのです。それはキリスト教的な観点からは、まさしく邪悪な営みに見えてしまうものなのです。

 "言葉の無さ"を語るということは、学問的に言えば、言語論的な視点と存在論的な視点から示すことができるでしょう。この二つの視点は、集団からの視点と個人からの視点という類推で理解することもできるでしょう。そして個人からの視点は、"各個人"と"自己"という概念分析からさらに分割して論じることができるでしょう。

 この"言葉の無さ"を語るという無理を通した上で、今後は言葉による実践が示されることになります。



 また、ここでは『方丈記』の一節が利用されています。




 よどみに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし。








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