『夢幻典』[壱式] 有我論



 或るものが有ること。


 有る叫び。

 有ることの叫び。

 有ることゆえの叫び。


 言葉という複雑な仕組みの成立。

 その成立の前後を無視して、ここに語られる。

 有ることを讃える叫びが叫ばれる。


 有から有が生じる。

 有るものは有ることからしか生ぜず、決して無からは生じない。

 無から有が生じるならば、その無は、無ではなく、有である。


 この根拠に無を置くのなら、その無は、有である。


 無い、無い、と否定していき、いったい何がしたいのか。

 無い、と言うことにより、有ることを証明しているではないか。

 無い、と繰り返すことにより、何かが有ることを証明しているではないか。


 たしかに、そこには有の繰り返しが繰り広げられる。

 だから、ただ有るのだ。

 そこを誤魔化してはならない。

 なぜなら、それは思考における虚偽であるから。

 (ことわり)から外れたことを語ることはできる。

 しかし、語ることができるということと、そうであるということは異なる。


 有る在り方が有り得る。

 これは、ただ有るということ。

 これ以外の可能性が考えられても、根本的にこれ以外は有り得ないということ。

 ただ、これだけが有るゆえに。

 これだけという限定を付けることが虚偽と見なされるほどに、

 ただこれが有るがゆえに。


 ただ、無慈悲に不条理に有る。

 無根拠に理不尽に、唯一無二の根源として根本が有るのだ。

 有が、有るのだ。


 眼を閉じて、見開く。

 そのとき暗闇から光あふれる世界が開けるだろう。

 このとき何かが有ると思えるだろう。

 それ以外は無いと感じられるだろう。

 この眼からは世界が視え、あの眼からは世界が視えない。

 自分の眼からは世界が視え、他者の眼からは世界が視えない。

 この眼が世界を視えさせている。

 ここに、有が開かれている。


 根本の有において、すべては一であり、一はすべてである。

 しかし、そこに亀裂が走る

 有ることから生じる有が、有ることを分ける。


 一であった有から、複数の有が生まれる。

 一としての有は、言葉によって複数の有を生む。


 一は二に分かれる。

 一の有は、自己と世界に分かれる。

 自己と世界の同一から、自己と世界が分かれる。

 自と界が未分だった状態から、自と界が有るとして分かれる。


 梵我一如。

 ここにおいて、この教義に到達する。

 大宇宙の本源である梵(ブラフマン)。これは世界そのもの。

 個人の本体としての我(アートマン)。これは自己そのもの。

 梵と我は同一と見なされることになる。

 それゆえ、梵と我は世界観における両面として認識される。


 そして、一は多に分かれる。

 自我と世界は、他者を含むようになる。

 自己と世界において、他者が生まれる。

 自と他が未分だった状態から、自と他が有るとして分かれる。

 主体と客体の区別が生まれる。


 ここに言葉の成立と、

 言葉の成立によって隠されたものが有る。

 言葉によって残り、言葉によって失われるもの有り。

 自己と他者もまたしかり。

 心という言葉もまたしかり。


 言葉によって心が生まれる。

 ゆえに、言葉無しで心が想定されるようになる。

 心を拠りどころとして、心に至る。


 そして、自我と他者の違いが問われる。

 自我は認識主体であり、認識対象ではない。

 他者は認識主体ではなく、認識対象である。


 自我とは、目に見えない視覚の主体であり、耳に聞こえない聴覚の主体である。

 思考されない思考の主体であり、認識されない認識の主体である。

 それ以外に見る者はおらず、それ以外に聞く者はいない。

 それ以外に思考する者はおらず、それ以外に認識する者はいない。

 認識の主体を、何によって認識することができようか。


 その特性上、自我は、非ず、非ず、として示される。

 これは否定によって語られ、否定を繰り返すことによって示される。

 不可測である対象を、肯定ではなく否定によって示す修辞である。

 なぜなら経験世界において、経験そのものの根拠を語ることは越権であるから。

 よって、経験世界として梵と我が措定され、その一如が説かれる。

 これが梵我一如である。


 連環理から外れた論理の飛躍を持ち出そう。

 そのとき、太初において梵が想定され、後に我が想定される。

 さらには、梵の前に一を僭称する神が想定され、別の宗教体系がひらかれる。

 その経路は、連環理によって拒絶される。


 一は二に、二における一は多を知る。

 そこに梵我一如の教義があらわれる。

 多は二における一へ、その二は一へと収束する。

 ここに奥義がある。


 一へと至り、欲望は滅す。

 一へ至る者は、万物の創造者であるから。

 汝はいっさいをつくり出すから。

 世界は汝のものであり、汝は世界そのものであるから。

 その一へ至る。汝はそれである。


 ここにおいて、言葉によって生活を送る。

 そこにおいて、言葉によって失われたもの有り。

 多様には有り得ないものを、複数性として語るゆえ。


 失われたものにより、心が生まれる。

 心の複数性が、生活のための環境を構築する。

 すなわち、意味が生まれる。

 異なるものを同じと見なすことによって、共通性をつくり出す力が生まれた。

 すなわち、言葉の意味が生まれた。


 そこにおいて、さらに梵我一如の教義が語られる。

 一へと至り、欲望は滅す。

 ここに奥義がある。


 そして、さらに、その先を語ろう。

 語ることあたわずとして語られなかった、奥義の裏側を語ろう。

 それは、そういった心理操作として在る。

 心の扱いの問題がここにはある。

 それは、語ることを禁じられた底の裏。







【解説】

 ここでは、ウパニシャッドの思想を参照しています。特に、二大哲人であるウッダーラカ・アールニとヤージュニャヴァルキヤの考え方を軸に論理を組み立てています。

 ウッダーラカ・アールニは、紀元前八~紀元前七世紀に活躍し、「有(う)の哲学」を展開しました。ヤージュニャヴァルキヤはその一世代後に登場し、自己(アートマン)についての深い哲学的洞察を残しています。仏教の無我をその構造レベルで把握するためには、仏教以前の彼らの有や自己についての思想を知っておくことが重要だと思われます。それを知らずに、はじめから仏教思想に入ってしまうと、仏教がそもそも何と格闘し、何を否定しようとし、何を肯定しようとしていたのかが分からなくなってしまうからです。

 彼らの哲学には、仏教が否定しなければならなかった何かがあり、その否定作業にも関わらず、否定しきれなかった何かがあるのです。



 さて、それでは本編の記述と重複しますが、有の思想をできるだけ分かりやすく説明してみましょう。

 まず一度、眼をつぶってみてください。それから、一気に眼を見開いてみてください。そのとき、暗闇から鮮明な映像が飛び込んでくるはずです。世界は、暗闇から光あふれる世界へと開かれたはずです。このとき、何かが有ると"思える"はずです。そして、それだけが有るのであり、それ以外は無いと"感じられる"はずです。

 そのとき、この眼(私の目)からは世界が見え、あの眼(他人の目)からは世界が見えないことに気づきます。同じ眼であるはずなのに、です。そこには、この眼とあの眼がまったく異なるという気づきがあるのです。世界は、あの眼からは見えないのです。この眼からしか、世界は見えないのです。この眼が有るということが、この世界を見えさせているのです。ここに、有の思想の片鱗があります。我が世界と同一視される思考形態があるのです。お分かりいただけるでしょうか?



 そして、『夢幻典』は、この思考形態を示した上で、次の『無我論』へと続くことになります。






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