『夢幻典』[拾式] 連環論
連環理が示された。
ここに示された。
しかし、これを鵜呑みにしてはならない。
究極の典拠は存在しない。
原理的に存在しない。
根拠の根拠は、底が抜けている。
だからこそ、根拠の根拠の前段階、つまり、ある根拠を選ぶしかない。
不十分なままで。
不完全なままで。
そのとき、常に別の可能性を考えておくべきだろう。
なぜなら、これは理を巡る言説であるが故に。
何ものも至上なものとしてはならない。
なぜなら、よく分からないのだから。
一なる神は、何者ぞ。
識らず。
言えず。
存在するとも識らず、存在しないとも識らず。
生とも言えず、死とも言えず。
その飛躍は許されない。
赦されるとも、許されない。
連環理が示されている。
今があり、前があり、後がある。
連環が巡り、循環する。
楔を打ち込むことは恣意的。
知り得ないことを語ることはない。
だから、この世界はそのまま終わる。
よく分からなかったということで終わる。
それは、おそらく確信に近く語られる結末の予感。
有の思想と無の思想、そして、空の思想。
世界そのものの根本である太極は、世界における無極でもあることが示された。
そして、それらが異なることで、言葉が可能となることも。
有我は無我であり、無我は有我である。
有我は無我ではなく、無我は有我ではない。
この空において、世界が、この世界として開かれている。
だから、無が別様に示されるだろう。
ここに無の意味が、言葉によって示されることによって、変わる。
有心と無心。
有心は無心ではなく、無心は有心ではない。
それゆえ、有心は無心であり、無心は有心である。
ここにおいて、言葉による自我の抹消が成され得る。
ゆえに、その抹消が、さらに深く抹消される。
その深い抹消も、二方向へと延びるだろう。
忘却と、沈黙と。
忘却は、忘却するが故の沈黙。
忘却のための忘却、それは、忘却による言葉。
沈黙は、沈黙することによる言葉。
沈黙のための沈黙、それは、沈黙による言葉。
言葉から離れているものを、言葉によって語る歪。
言葉から離れていることを、言葉によって示す歪。
すべては移り変わる。
諸行無常。
ゆえに、遊べ、遊べ、遊べ。
時の歌を奏でる。
すべては時であると語り得るだろう。
そして、語り得ぬところで、すべてはこの時であることを奏でる。
我と汝が時を奏でる。
我の時と、汝の時が、一つだと思われる。
その飛躍をもって、我々が生きて、死ぬことの意味が生まれる。
すべては巡り廻る。
時の歌が奏でられる。
今に収束する。
今が収束する。
連環理が示される。
その陥穽も仄めかされている。
その続きを紡ごう。
世界を続けよう。
それは、きっと、物語を紡ぐということ。
これは、きっと、世界の終わりのさらに先の物語。
【解説】
今回で『夢幻典』は最終回です。
ここにおいて、ここまで理論の根拠としてたびたび登場してきた「連環理」そのものに対する疑義が呈されています。この構造は、『臨済録』での仏すらも至上のものとしてはならない、という考え方を参考にしています。また、続く論理では、『碧巌録』の第1則や第55則などを参考にしています。その上で、物語の続きが促されることになります。
最後にもう一度繰り返しておきますが、この『夢幻典』は『聖魔書』の姉妹編に位置づけられています。『夢幻典』で示された構造において、一見すると『聖魔書』の構造が崩されているように思われるかもしれません。しかし、そう感じられるとしたら、それは『夢幻典』の前提に立っているからに過ぎません。『聖魔書』の前提に立てば、『夢幻典』の構造そのものが崩されることになるでしょう。
『聖魔書』の構造は、西洋哲学やユダヤ・キリスト教を参照し、それを恣意的に利用しています。一方、『夢幻典』の構造は、東洋哲学(特にインド哲学および仏教)を参照し、それを恣意的に利用しています。
『聖魔書』と『夢幻典』を示すことによって、単純に西洋哲学と東洋哲学を融合させることができたとは言えないでしょう。正確に言うなら、異なる前提の構造を示すことによって、それらの構造の関係性を、構造として示そうとしたのです。それがうまくできたかどうかの判断には、賢明な読者の指摘を必要とします。
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