『夢幻典』[弐式] 無我論



 無。


 無の叫び。

 無いことの叫び。

 無いことゆえの叫び。

 それは、有の沈黙。

 ゆえに、叫び無し。


 無が有る。ゆえに、無が無い。

 ある論理体系では矛盾と見なされる論理。

 この矛盾を包括した論理体系がここに想定される。


 或るものが無いこと。

 無という深淵に刃を突き立てる。

 無についての語りを語ろう。

 有と無の物語を紡ごう。


 有の思想は説く。

 一であった有から、複数の有が生まれる、と。

 一としての有は、言葉によって複数の有を生む、と。

 しかし、無の思想はこう説く。

 零から、無数の有が生まれる。

 零から、言葉の成立を待たずして一が生まれる。


 この眼からは世界が視え、あの眼からは世界が視えない。

 自分の眼からは世界が視え、他者の眼からは世界が視えない。

 違いを探索する。

 異なることを証明する。

 その試みは失敗を余儀なくされるだろう。

 同じであるという意見が支配するだろう。

 差が、無い。言葉がつむがれるだろう。

 だが、有る。体験が与えられている。

 無いことが、有る。

 ゆえに、無いことを、有ることとして語ることになるかもしれない。

 ここに、無が開かれている。


 一が二となり、自我と世界が分かれる。

 一が多となり、世界に自己と他者が生まれる。

 しかし、それ以前に働きが起こっている。

 一が一となる瞬間がある。

 それは、零が無において一となる刹那。


 永遠から今が分かれる。

 永遠の今が生まれる。

 これが、一が無において一となる刹那。

 自我と世界が分かれるために要請される出来事。

 これが、零が無において一となる刹那。


 現在。原初において。

 過去→現在→未来。一つの時間概念。

 過去←現在→未来。もう一つの時間概念。

 永遠と今が分かれ、時は流れ出す。

 なぜなら、過去と未来は有り得ないから。

 過去と未来は無いのだから、現在は無である。

 ゆえに、現在は無において有り、過去が把握され、未来が推測される。

 ゆえに、時は動き出し、無数の有が生まれる。


 ここで、無という混沌へ足を踏み入れる。

 在ることが無い。それは如何に語られるのか。

 生じる前に無い。端的に無い。滅した後に無い。

 無いことの時制。無の時間。

 時間において無い、ことによる無の時間論。


 無の混沌を手で掻き分ける。

 在るもので無い。

 有ると在るが結合せず、無い。

 在ることの異なりにより、無い。

 可能性により、無い。

 思考の外の想定により、無い。

 無いことの空間。無の空間。

 空間において無い、ことによる無の空間論。


 ここにおいて、無の時空が示される。

 無の時空において、一種の飛躍が為される。

 その飛躍が、すでに成ったものとして、世界が開かれる。

 一つの時空の捏造。有の時空の捏造。

 その捏造の故に、世界は人々の認識しているようにして、在る。


 それゆえ、その捏造は、捏造で無くなる。

 無くなるのでならなければならない。

 なぜなら、生活のための環境が成り立たないから。

 逆に言えば、生活のための環境を成り立たせるため、捏造は前提となる。

 ならざるをえない。

 だから、言葉が紡がれている。


 有と無の交錯において、矛盾した自我と自己が同一となる。

 同一と見なされる地点に到達する。

 だから、言葉が紡がれている。


 無我。

 我れ無し。

 すなわち、自我は存在せず。

 自我が存在しないことによって、自己が世界において在る。

 その有り方において、無が想定され、生命が意味において生まれる。


 そこにおいて、汝が生まれる。

 だからこそ、我が生まれる。

 我と汝は言葉を交わす。

 我の無において汝が有り、汝の無において我が有る。

 我は我の無において汝と、汝は汝の無において我と。

 ここに深淵が横たわる。無の深淵が。


 無の深淵において、答えが拒絶される。

 なぜなら、答えはありえないのだから、

 すなわち、答えは無いのだ。

 だからこそ、答えが無いからこそ、そこに意味が生まれる。

 意味が無いことによる、意味が生まれる。








【解説】

 ここでは有の思想に次いで、無の思想が語られています。有の思想は、"有ること"を根拠とした思想ですので、無の思想は、"無いこと"を根拠にした思想になります。そのため無の思想では、"無いこと"の様々なあり方によって、思想の深みが示されることになります。

 無の中身については、宮元啓一『インド哲学の七つの難問』が参考になります。そこでは、実在論学派における関係無(~がない)や交互無(~でない)が紹介されています。関係無は、さらに先行無([生ずる以前に結果は]まだない)・破壊無([消滅したあとにものは]もはやない)・絶対無(絶対にありえない)に分類されています。また、独特な意味を持った『勝宗十句義論』における五種類の無も紹介されています。それぞれ、先行無(未生無)・破壊無(已滅無)・交互無(更互無)・関係無(不会無)・絶対無(畢竟無)の五つです。

 それらの無を加味した上で、やはり主となるのは西田幾多郎の無の場所の論理です。有の思想で示された「有」が、西田哲学では「無」の場所として示されることになります。西田の『場所』から、参考になる箇所を引用してみましょう。




 一般概念の外に出るというのは、一般概念がなくなることではない、却(かえ)って深くその底に徹底することである、限定せられた有の場所から、その根柢たる真の無の場所に到ることである、有の場所其者を無の場所と見るのである、有其者を直に無と見るのである。斯くして我々はこれまで有であった場所の内に無の内容を盛ることができる。




 この文章は、曖昧な表現で人を煙に巻いているように感じられるかもしれません。しかし、この文章は極めて厳密に厳格にこの世界のあり方を記述しています。この世界の現実がこうであるということを、冷徹に淡々と論じているのです。



 それでは、本編の記述と重複しますが、無の思想をできるだけ分かりやすく説明してみましょう。

 前回の有の思想では、この眼(私の目)とあの眼(他人の目)が異なることが語られていました。では、それが異なることを証明してみることにしましょう。ここで説明のために、"科学的"という言葉を導入してみます。あなたは言うのです。私のこの目は、あなたの目とは違います。私の目からは実際に見えていますが、あなたの目からは見えていません。だから、この眼とあの眼は違います。その違いを、科学的に証明したいのです。

 ・・・さて、この科学的探求は成功するでしょうか? 私には、成功しないように思われます。この眼とあの眼は、(どちらかの目が病気など特殊な条件がない限り)科学的には同じだという結果が出ると推測されるからです。しかし、科学的には差が"無い"目ですが、片方からは実際に見ますし、片方からは実際に見えないのです。つまり、科学的には"無い"ことを"有る"こととして語ることになるのです。それゆえ、その"無いこと"をどうにかして語る必要が出てきます。ここに、無の思想が展開されざるを得ない理由があるのです。






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