『夢幻典』[肆式] 中空論
有と無の思想が示された。
ここに空の思想を示そう。
有と無の繰り返しを、空の思想によって示そう。
有と無は、互いを否定し、それによって互いを肯定する。
互いを拒絶することによって、互いを新たに甦らせる。
その繰り返しが、空の思想として語られる。
否定による否定。
否定の飽くなき繰り返し。
否定の否定、それは否定の肯定性。
視点を定めないという視点。
有の否定と無の否定。
否定が繰り返される。
本質の否定によって、空が示される。
語りたいことは、完全には語り得ない。
語り尽くすことができない。
それは空虚であり、そこには空白がある。
いかに精緻であろうとも、いかに整合的であろうとも。
言葉があり、論理がある。
しかし、そこには空がある。
空虚があり、空白がある。
そう想定しなければならない。
そう想定しないならば、それは妄想でしかないのだから。
ある論理体系の構築。
点の設置が行われる。
ある点では、在る。または、無い。
ある点では、在り、かつ、無い。
ある点では、在るとも無いとも言えない。
ある点では、存在の有無すら分からない。
何も、分からない。
だから、そこには空がある。
しかし、そこには空がある、と言った刹那に亀裂が走る。
空虚を語り、空白を埋める作業が要請されてしまう。
語り得ぬことの語りが求められる。
ここに、秘密と公然の区別が生まれる。
生まれざるを得ない。
なぜなら、世界は複雑だから。
幸か不幸か、この世界は豊穣であるのだから。
実在が否定され、実在が肯定される。
認識が否定され、認識が肯定される。
欲望が否定され、欲望が肯定される。
有と無が交わり、離れ、再び交わる。
形が表れ、何かが裏へと隠れる。
それは二つの現れ。
顕在と潜在。
二つの融和と排他。
空において中るための論理が示される。
言葉への疑いは底が抜けてしまう。
疑うということを疑うとき、疑うことを続行することすらできなくなる。
有と無の思想において、その混乱において、一つの方向が示される。
空の思想によって示される。
それは、空の思想が示されることによって、方向が示される。
色即是空、空即是色。
色あるものは、空ということである。
空しきこと、それは真実である。
空ということは、色あるものである。
真実であること、それは空しきことである。
ここで、さらに意味が二通りに深化する。
花はやがて散ってしまう。
だから、執着してはならない。
花はやがて散ってしまう。
だからこそ、美しい。
無常における美しさ。
現象そのものが空虚である。
現象そのものが空白である。
現象そのものが本物である。
空において、形が顕在し、何かが潜在する。
その繰り返しそのものの構造が問われる。
繰り返しを繰り返すことで、中空が示される。
すなわち、空が中る。
そう見なされうる視点が成り立つ。
しかし、空の思想により、その視点もまた・・・。
空の思想において、
現実における不在が語られる。
そのとき、有と無が共に否定される。
ここに言葉の問題が加わる。
言葉の恣意性により、現実が浸食される。
現実性は、言葉によって保証されないのだから。
それゆえに、有と無とは異なる空の思想の語りがありえることになる。
存在と非存在を超えた語りにより、空へと中る。
ゆえに、言葉により覆われる何かがあるだろう。
言葉はその虚構性により、何物かを隠す。
だからこそ、その隠しについての語りが語られるであろう。
空の思想において、三つの原理が示されるだろう。
曰く、維持・破壊・創造。
三つの原理の絡み合いによって、世界は続く。
あるときには、世界は終わることによって始まる。
世界の始まりと終わり。
世界の終わりと始まり。
世界は続いていく。
ここに時間軸の問題が問われる。
過去→現在→未来。
過去←現在←未来。
その一方的な流れが拒絶される。
刹那。
原因と結果の論理に亀裂が入る。
因果の道理に、解釈が導入される。
それは、ある一種の世界観の成立。
一系列の時間観の破綻。
刹那の瞬間。
すべてが、心も物も、生起し消滅する。
原因と結果は同一ではなく、それゆえに因果は破綻する。
同一律を保つものは時間の停止であり、刹那によって崩れる。
完全に自立した存在のありえなさ。
そのありえなさにより、他のものが要請される。
時間を考えるためには、他のものが必要となるのだから。
あるものが作用するとき、他のものを対象として作用するのだから。
無限遡及と相互依存性。
そこに固定端を打ち込むことはできない。
今による永遠の顕在。
今に至る歴史の潜在。
永遠の今、すなわち、悟り。
そして、その続きを語ろう。
永遠の今が、永遠の今から離れる。
今から今への移動。
前後の今の意味が、変わるだろう。
世界は続いていく。
それは、仮説である。
そして、その儚い仮説を受け入れるのならば。
そこにおいて、悟りを悟らず。
悟りを悟らずという、悟り。
そうして、それは繰り返しによって、永遠の今を暗示する。
時は、動き出す。
歴史が紡がれる。
【解説】
大雑把に言うと、仏教の空の思想は、いっさいの固定観の否定を意味しています。すべてのものに本質はないという知恵とも言えます。岩波文庫『法華経』の注釈では、「空」の教えが次のように説明されています。
「空」は梵語シューニヤターの訳。この世に存在するものはすべて因縁によって存在するようになったものであって、その実体とか本質とかいうものはもともと無いということ。大乗仏教の基本的な教説で、小乗仏教の縁起説を止揚するものである。
空の思想を参照するには、龍樹(ナーガールジュナ)の『中論』は外せません。龍樹を祖とする中観派では、空を無や断滅としてではなく、肯定と否定、有と無、常住と断滅といった二つのものの対立を離れたものとして捉えています。ですから、空とは、あらゆる事物の依存関係ということになります。龍樹は「有」を否定し、それと相関関係にある「無」もありえないと見なしています。その否定の力が、『空論』では展開されているのです。
こういった既存の空の思想を参照し、ここでは私なりの考えを追加しています。例えば、ここで示している「ある論理体系」とは、『ジャイナ教綱要』のサプタバンギー・ナヤという論理を修正して利用したものですが、それを空の思想と関連づけて論じています。また、「現象そのものが本物である」という表現は、天台宗における「空・仮・中」の論理を参考にしています。他にも、ヒンドゥー教の三柱の最高神の原理を、この空の思想に恣意的に結びつけています。ちなみに三柱とは、創造神ブラフマー・維持神ヴィシュヌ・破壊神シヴァになります。
その原理の利用により、ここでは時間論が空の思想において展開されることになります。空の思想における時間論のために、この『夢幻典』は空の思想を飛び越えて、その先の思想へと続くことになります。
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