『夢幻典』[漆式] 心身論



 自我は心身とは異なる。

 心身は、自我ではない。


 心身は、五蘊として示される。

 それは、色・受・想・行・識の五つである。


 色蘊とは、身体および物質のことである。

 受蘊とは、感受作用のことである。

 想蘊とは、想像作用のことである。

 行蘊とは、意志作用のことである。

 識蘊とは、認識作用のことである。


 唯識。

 外界は表象として在る。

 心は表象を生み出す。


 三界唯心。

 世界はすべて心が生み出したと考えることができる。

 それゆえに、表象は実在として措定される。


 ここで八識が示される。

 すなわち、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那識・阿頼耶識である。

 眼識・耳識・鼻識・舌識・身識の五識は感覚であり、それぞれ固有に働く。

 意識は、言葉を用いた思考として働く。

 末那識は、深層において働く。

 阿頼耶識は、万有を生み出す諸法として働く。


 世界を認識する。

 心は世界を総体的に把握し、心の所で分析的に把握する。

 認識において心的作用の二つの区別が成り立つ。

 客観としての所取、すなわち認識されるもの。

 主観としての能取、すなわち認識するもの。

 その狭間において、思考が成り立つだろう。

 そこにおいて、いくつかの思考形態が成り立つだろう。


 その所取と能取の一致により、世界は唯心であり、心は唯世界となる。

 ここに自証という三つ目の心的要素が導かれる。

 所取と能取から成る認識を確認することで、

 自らが自らを証するからである。

 それがなければ、世界に認識を確認する者は居ないのだから。


 さらに、自証の働きをさらに証する働きが必要となる。

 すなわち、証自である。

 なぜなら、世界には多くの自己が存在しているのだから。

 そして、その多くの自己の中で、どれが本物かという問いが成り立つから。

 しかし、それはもはや言葉では語れない。

 言葉では語れないことを、あえて言葉で語る営みがここにある。

 自我と心の問題がここにあり、自分の心という言い方が為され得るのだろう。


 だから、心は世界を貫いている。

 貫いていく。

 そこから、ある種の悟りが導かれるであろう。


 悟り。

 我は世界なり。そこに、汝は居ない。

 世界に居る我。そこで、我と汝は同じ。

 我は世界なり。そこに、我は居ない。


 我は世界なり。そこに、我は居るが汝は居ない。

 我は世界なり。そこには、我も汝も居ない。

 我は世界なり。そこには、我は居ないが汝は居る。


 我は世界なり。そこには、我も汝も居る。

 だから、それぞれが、悟りと呼ばれるにふさわしいであろう。


 それは、いくつもの思考法。

 思考法の複数性。

 複数の思考の展開。

 思考法において、処理単位の分化。


 分化した処理単位の制御。

 自分を分化した単位の制御。

 超自我による制御。


 我も汝も居る世界。

 ここに、慈悲が生まれる。


 慈悲とは、慈と悲とから成る。

 慈では、同胞への利益と安楽をもたらすことを望む。

 悲では、同胞から不利益と苦を除去することを望む。

 加えることと、減らすこと。

 加えるべきものを加えること。

 減らすべきものを減らすこと。


 ここに慈悲が示された。








【解説】

 ここでの心身論は、古くはゴータマ・ブッダにまで起源を遡れる五蘊非我説を参考にしています。

 唯識思想については、批判的に検討した上で、かなり恣意的に利用しています。部派仏教の時点ですでに、事象を認識されるもの「所取」と認識するもの「能取」とに分けて観察する方法が編み出されていました。これは客観と主観の区別として考えることもできます。

 唯識派の陳那(ディグナーガ)は、それを深めた「三分説」として、認識は所取分と能取分と自証分という三つの心的要素から成立するという説を立てています。主観と客観という視点によって、ある一つの認識が可能となるわけですが、その結果そのものを確証する作業が必要なことから、自証分というもう一つ別の心的要素が考えられたわけです。自証とは、自らが自らを証するという意味です。所取と能取の認識作用を確認するのが、自証分の働きになります。

 さらに後に、護法(ダルマパーラ)は「四分説」を唱えました。自証分の働きを、さらに証する働きが必要だと考えたからです。すなわち、証自分です。これは哲学的に、ものすごい業績だと思われます。この証自分は、あえて言う必要のないものを、あえて語った言葉なのかもしれません。自明すぎて、ことさらに言う必要がない概念を、言葉によって表現して論じるという、極めて高度な活動がここにはあるように思えるのです。

 さて、最後は「慈悲」について。中村元氏によると、南方アジアの上座部仏教では、「慈(mettā)」は「(同朋に)利益と安楽とをもたらそうと望むこと」を意味し、「悲(karunnā)」は「(同朋から)不利益と苦とを除去しようと欲すること」を意味すると註解しています。そうだとするならば、慈悲とはプラス概念を延ばし、マイナス概念を埋める作用だと考えることもできそうです。







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