『夢幻典』[玖式] 蛍光論
誰かが言った。
一を僭称する神がいないのならば、すべてが許されていると。
そのとき、ある意味が問われている。
許すとか、許さないとか、そういった判断の根拠が問われているに過ぎない。
だから、一を僭称する神の不在は、究極的にその答えには成り得ない。
その答えが、本当に答えに成り得るのは、影響下にある者たちだけであるから。
一を僭称する神の影響下にある者たちだけであるから。
すべては、為されうる。
より正確に言うなら、成されうるすべては、為されうる。
だから、そこに意味が問われる。
許すとか、許さないといった意味も、そこで働くのだ。
だから、求められるところが、そのところが問われる。
本物は凡人を離れたところに求められ、後に凡人の内に求められる。
浄土は穢土をはなれたところに求められ、後に穢土の内に求められる。
時間において、ただ今の刹那に、歴史を超えた永遠が求められる。
理想論が現実をむしばみつくす。
そのとき、その論理の頂点は堕落と崩壊を招くことになるだろう。
だからこそ、ここでの生活が問われることになる。
何かを絶対的に主張する。
しかし、それを相対的に主張することができてしまうだろう。
だから、絶対と相対は絡み合う。
その絡み合いの仕方で、いくつもの思考様式が考えられるであろう。
それらについて、互いの様式間の関係図を想定することができるであろう。
その関係性の強度を図ることが、できるかもしれない。
少なくとも、図ることができるという仮説を立ててみることはできるであろう。
運命論において、必然と偶然が絡み合う。
必然性そのものにおける偶然。
偶然性そのものにおける必然。
意志の設定が拒絶される。
意志の仮定が要請される。
意志が想定される。
自我は心身とは異なる。
それゆえ、自我と心身とは友である。
身体は自己の友であり、心も自己の友である。
それゆえ、身体は自己の敵であり、心も自己の敵である。
その関係性において、自己は心身とつながる。
つながることで、自己に打ち克つ。
打ち克つという営為が可能となる。
そして、もっとも素晴らしいものが、ここで見出される。
なぜなら、それはそうでしかないのだから。
そうでしかないものにおいて、そうではないことがありえるのだから。
幻想を視る。
あらゆるすべては幻想に還元されるがゆえに。
それゆえに、幻想を視るのだ。
数多の飛躍が為されている。
それゆえ、飛躍による論理が成されている。
それがなければ、何もできないのだから。
言葉を交わすことすら、できないのだから。
言葉によって、我は汝と向き合う。
汝のために、何ができるのだろう。
そこでは、何が起きているのだろう。
ここで、何ができるだろう。
梵我一如の有と無の思想が展開された。
我と世界の関係が示された。
我は世界であり、我は世界の外に有り、我は世界の内に居る。
それゆえ、その構造のゆえに、我は無いのだ。
我が無いことによって、我は有るのだ。
その上で、この世界において問いが問われる。
無の意味が変わる。
無の意味のすり替えが巧妙に行われる。
それによって、言葉が成り立ち、言葉が語られる。
その構造のゆえに、このすり替えが見過ごされる
見過ごされざるを得ない。
なぜなら、その糾弾行為そのものが、
言葉によって為されざるを得ないのだから。
微笑を浮かべよう。
微笑む価値があるのだから。
あるのだから、微笑みを浮かべよう。
微笑を浮かべよう。
微笑む価値がないのだから。
ないのだから、あえて微笑みを浮かべよう。
ないのだとしたら、あえて微笑みを浮かべよう。
南無阿弥陀仏。
極限において、たとえば簡単な言葉を唱えよう。
その言葉には意味がある。
意味があるということにしたのだから。
やりきれない生への自覚は、飛躍を伴う言葉を必要とする。
それが嘘だとして、それを悪だと言うことはできない。
できてはならない、という視点が成り立ちえるだろう。
だから、それゆえに、その糾弾は可能でもあるだろう。
そうして、思想は複数性を要請することになるだろう。
そうして、複数の思想の関係性が問われることになるだろう。
そうして、状況と状態が問われる。
この世界が問われる。
この世界の状況と状態が問われる。
修身斉家治国平天下。
それぞれは単純にはつながらない。
それぞれは、互いに関係し、あるいは反発し、世の中を廻している。
それらの共同体において、無は、
その共同体にとって価値を持つ無として、その意味を持つことになるだろう。
そこに飛躍があり、
飛躍が思想体系を形作る。
その思想の恣意性をもって、我と汝は、我々として生きることになるだろう。
そこで、生きることそのものが問われるだろう。
互いに生きることそのものが問われるだろう。
例えば、怨みの連鎖を断ち切ることは、程度により要請されるであろう。
例えば、共同体の存続に反して、すべてを捨て去る方法が必要とされるであろう。
その先で、思想が行き着かざるを得ない何かがあるのだろう。
根拠の底がどうあれ、何かを為さざるを得ないだろう。
なぜなら、何もしないことすら、それを選んだことになるのだから。
選択の根拠の強弱はあるだろう。
だが、それ以前に何かを選ばざるを得ないだろう。
なぜなら、時間が流れているのだから。
世界がそうなっているのだから。
潔さ。
命の選択が為される。
生を愛するがゆえに、死を恐れない。
美しさがある。
それ故に去りがたく、それ故に去るに足るのだ。
日々の生活において。
自然の恵みを受け、家族や知人と仲良く過ごす。
そんな素朴な喜びがありえるだろう。
他に何がいるのだろうか。
そのような言葉が呟かれる。
その何かとは、何か?
それはありふれたもの。
それでも、かけがえのないもの。
この世界において、
かけがえのないもの。
そう、見なしえるもの。
【解説】
ドストエフスキーの『悪霊』で、登場人物の一人であるキリーロフは次のようなセリフを吐いています。
「いいことです。赤ん坊の頭をかち割っても、いいことなんです。かち割らなくてもいいことなんです。なにもかもがいいことなんです。なにもかも。なにもかもがいいとわかっている人にとっては、それだけでもう、すべていいことずくめなんです。みんなが、これでいいとわかるようになれば、みんなにとって何もかもよくなるんです、でも、これでいいってことがわからないうちは、みんなにとってよくないんですよ。思想といっても、それだけのこと、それだけのことで、それよりほかに、何も、どんな思想もないんですよ!」
この種の問題は、『罪と罰』のラスコーリニコフや『カラマーゾフの兄弟』のイワンにも感じることができます。イワンは「すべては許されている」ことを公式だと見なしています。
この『蛍光論』で展開されている思想は、それが公式であってはならないという思想ではなく、これを公式とした上での思想になります。この世界の根源的なあり方の故に、確かに、すべては許されているからです。もう少し正確に言うと、善悪に関わらず、可能な出来事は実行し得るということです。それを認めた上で、何を為すかが、その根拠の底が抜けているにも関わらず、論じられているのです。
なぜなら、その根拠の底がどうあれ、何かを為さざるを得ないからです。「何もしない」ということすら、「何もしない」ことを選んだということになってしまうからです。選んだことの根拠の強弱は重要ですが、それ以前に、我々は何かを選ばなければならないのです。なぜか、世界がそうなっているのですから。
その上で、ある特殊な考え方が示されています。この『蛍光論』では、小泉八雲の作品の情景などが下地になって展開されています。例えば、『出雲再訪』には次のような文章があります。
日々の暮らしにこと欠かず、自然が万人に与えてくれる素朴な喜びに満ち足りて、私欲をすて家族知人と仲良くやってゆければ、それで十分、もう望むことはないという心構えだ。
これは素晴らしい文章です。そうは思いませんか?
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