『夢幻典』[虚式] 無神論



 神は存在しない。

 その神は、一なる神。

 一なる神は無かり。


 ここに無神論が語られる。

 世界から神を抹殺すべきことが語られる。


 一を僭称する神は、光あれと創世を行う。

 しかし、それは誰によって視られたのか。

 ここに視点の問題が成り立つ。


 それに対し、反論がなされる。

 それは誰によっても視られたのではない。

 それは、後から因果によって推測されたのだと。

 しかし、それは誰によって推測されたのか。

 そこに因果を超えた因果が想定される。

 時間軸を超越した時間軸において、一を僭称する神を視た越権が成り立つ。


 時間論において、二つの時間概念が並び立つ。

 一つにおいて、過去・現在・未来という流れが措定される。

 もう一つにおいて、今を起点とし前後が措定される。


 そのうち、どちらをより根源的と見なすかによって、

 二つの宗教体系が成り立つ。

 一つは、因果の理性により、一なる神を要請する。

 もう一つは、因果の道理により、一なる神を必要としない。

 因果の道理は、連環理を要請する。


 因果の理性は、さかしらなり。

 それは、そうなっていないことを、そうなりと言うがために。

 ゆえに、さかしらにて一なる神が想定される。

 ありのままに視れば、一なる神を語ることはない。

 なぜなら、それは、そうであるがゆえに。

 そうであることは、そうであるがままに。

 そうであることを、何故にそうでないように語るのか。

 それは、さかしら心というもの。


 連環理は、二つの飛躍を拒絶する。

 一つは、無限遡及における独断的な仮定。

 もう一つは、無限循環そのものの創造主の作成。

 これらは道理を超えた飛躍であるがゆえに、端的に却下される。

 一なる神はありえず、語り得ず。

 それは道理を無視した飛躍であるがゆえに。


 連環理は、ただ思惟によりそうあり。

 ゆえに、それはそうなり。

 あれはあれなり。

 これはこれなり。


 思惟を超え出た一なる神を、飛躍により生み出すことあたわず。

 飛躍を思考の一種として利用することは可なり。

 しかし、飛躍を飛躍ではなく、確固たる公式として設定する者たちあり。

 それは一つの宗教体系を構築する。

 そこでは、論理の一つではなく、信じるべき対象としてすり替えが行われる。

 その中身に、人間の醜悪さがねじ込まれ、膨れ上がる。

 連環理に基づき、その行為が糾弾される。


 一なる神の殺害が為される。

 一なる神の殺害が成される。

 ここに無神論が語られる。


 その殺害の後に、殺神の事実そのものが抹消されるだろう。

 一なる神の存在が、時間軸を超えて抹消される。

 それゆえ、一なる神についての語りが行われない。

 一なる神について語られることはない。

 ここにおいて、無神論すら語られない。

 それゆえ、より深い意味における無神論が完成する。


 色即是空、空即是色。

 現象としての(しき)は、固定的な実体無き因縁としての(くう)であり、

 実体無き因縁としての(くう)は、現象として表れる(しき)である。

 論理の底には矛盾があり、その矛盾が論理を支えている。


 一なる神の殺害は、一つの時間軸の殺害となる。

 それゆえ、それはもう一つの時間軸の救済となる。

 一なる神の存在は、一つの時間軸の救済となる。

 一なる神の殺害と救済は、時間概念の救済と殺害の関係と重なる。

 ここに双論理性が示される。


 一つの時間軸の殺害は、一なる神の三位を崩す。

 その三つの位とは、神・自・今である。

 神と自と今は、一つの体であり、開闢であると主張される。

 しかし、連環理により、それは開闢ではなく創世に過ぎないと指摘される。


 連環理により、真・三宝が開かれる。

 真なる三つの宝とは、界・今・自である。

 しかし、この開闢を唱えたとき、それはもはや開闢ではなくなってしまう。

 宝が三つに分かれたとき、それはもはやこれではない。

 その構造そのものによって、連環理が示される。


 世界が在ることが、世界が有ることによって。

 世界という在るものが、世界という有ることによって。

 それを排斥することによって、一を僭称する体系が成り立つ。

 故に、その排斥の排斥によって、一なる神の体系が示される。


 ここで、一なる神の体系が排斥される。

 なぜなら、在るものから有ることが導かれるためには、

 やはり、有ることから在るものへと繋がるのだから。

 有ることにおいてしか、神が在ると導くことはできないのだから。

 概念を超えた有り型を、神という概念の在り方によって導くことは誤謬なのだから。


 その明確な論理によって、一つの体系が語られる。

 その論理は、連環理と呼ばれる。

 なぜなら、すべては廻り巡るのだから。

 そこへ(くさび)を打ち込むことは、

 考えられたとしても、決してできはしないのだから。


 その道理において、無神論すら語られない。

 なぜなら、無神論を語ることによって、一なる神の底に至るから。

 その底において、それを掘り進めることができないから。

 ここにおいて、無神論を語ることによる、無神論の語りの不可能性が成り立つ。

 (ゆえに、その不可能性の成立によって、一なる神への信仰が成り立つ)

 ゆえに、無神論は自然数の式を持たず、虚式として示される。








【解説】

 ここでは、無神論が語られます。神が無きことを論じること。すなわち、神概念の否定です。

 ただし、ここでは二つの神概念が交わって否定されているので注意が必要です。一つは、ユダヤ・キリスト教的な一神教の神概念であり、もう一つは『聖魔書』における一なる神の神概念です。前者の神概念の否定には、『創世記』(新共同訳)の次のような記述を利用しています。




初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深遠の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。

「光あれ。」

こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。




 ここには欺瞞がありますから、まずはその構造が暴かれます。しかし、この欺瞞の暴露は一見して神の否定になっていながら、別の神を召喚してしまうものでもあるのです。そして、それは『聖魔書』で行われていたことでもあります。

 『聖魔書』では実は、一なる神の論理を突き詰めることで、ユダヤ・キリスト教的な神概念を徹底的に攻撃していたのです。その論理の一部はこの『夢幻典』でも重複していますが、『夢幻典』ではさらに進んで『聖魔書』の一なる神の概念にも攻撃の手が加わります。

 その上でインド哲学の知識を参照し、その論理の方向性を突き詰めていきます。すなわち、一なる神を必要としないあり方の問題です。

 この攻撃の論理のために、ジョン・マクタガート(John McTaggart、1866~1925)の時間論を参照し、恣意的に利用しています。端的に述べるならそれは、「過去→現在→未来」と「前←今→後」という二つの時間軸の利用です。





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