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『日本式 正道論:第一章 道の場所』

【目次】
第一節 和歌
 第一項 万葉集
 第二項 古今和歌集
 第三項 新古今和歌集
第二節 随筆
 第一項 方丈記
 第二項 徒然草
第三節 物語
 第一項 源氏物語
 第二項 平家物語
 第三項 太平記


『第一章 道の場所』
 日本史には、無常観が流れています。
 『古事記』の天孫降臨において、邇邇芸能命(ニニギノミコト)は美しい木花之佐久夜毘売(コノハナノサクヤビメ)と結婚し、醜い石長比売(イワナガヒメ)とは結婚しませんでした。そのときのことが、〈天つ神の御子の御寿(みいのち)は、木の花のあまひのみ坐さむ〉と記述されています。そのことが、〈今に至るまで天皇命等(すめらみことたち)の御命(みいのち)長からざるなり〉とあるように、天皇の寿命がそれほど長くない理由とされています。命が長くないことが、岩の強固さに対する花の儚さとして示されているのです。
 日本では、儚さが心に届いて無常観が現れます。日本人は、厳しい無常を見据えた上で、優しく美しく無常を記します。人生や世の中(世間・世界)をはかないものとみる無常観は、日本人の意識に深く染み込んでいます。人生は常ならず、世の中は常ならず、すべてのものは常ならず。栄えるものも、驕れるものも、義に殉じるものも、すべては滅び行くのです。この世はまるで夢幻(ゆめまぼろし)・・・・・・・・・。
 大事な点ですが、日本人にとって無常は落胆のみをもたらすものではありません。なぜなら、人生や世の中は常では無いけれども、それを見据えて諦観し、その上で無常を無常ながらに生きる覚悟を決めているからです。儚い世の中の儚い命だからこそ、懸命に潔く生きるのです。人生を無常と思うこと、世の中を無常と思うこと、このことは、日本人の生き方や死に方に深く関わっています。
 無常な世の中で、無常な人生は、どこへ向かうのでしょうか。無常において、日本人は道に出会いました。無常の上で道を歩むという営為、無常において道を行く、このことを私たちは日本史の中に見ることができます。日本における道の場所は、「無常」です。
 本章では、日本史の中における、無常という場所において道を行くという営為を見ていきます。和歌と随筆と物語の中から、これぞ日本の代表作と言えるものを選んで見ていきます。


第一節 和歌
 日本人は、歌が大好きです。感情を歌にあらわすことは、日本の歴史において「和歌」として結実しました。和歌は、日本の心だと言えるでしょう。
 和歌には、様々な主題が詠われています。四季の歌や恋の歌など、実に彩り鮮やかです。その中には当然、「無常の歌」と「道の歌」もあります。本節では、和歌の三大歌風である『万葉集』、『古今和歌集』、『新古今和歌集』の中から、無常と道の関係を見ていきます。


 第一項 万葉集
 『万葉集』は、二十巻におよぶ日本最古の和歌集です。数度におよぶ編集を経て、現在の形になったのは奈良時代末頃と言われています。歌数は約4500首、形式も多様であり、作者も天皇・皇族・農民・遊女など多岐にわたります。
 万葉集の特徴は、「ますらをぶり」と言われます。「ますらをぶり」とは、賀茂真淵(1697~1769)の『にひまなび』に、〈万葉集の歌はすべて丈夫(ますらを)のてぶり也〉とあるように、古代の素朴で力強い男性的な歌風を意味しています。
 万葉集の歌の中には、はかなさや無常観を詠ったものがたくさんあります。特に、四一六0首~四一六二首は、題名が「世間の無常を悲しびたる歌」と云い、注目に値します。四一六0首は、〈天地の 遠き始めよ 世の中は 常なきものと 語り継ぎながらへ来れ〉という言葉で始まります。天地の遠い昔から、世の中は無常だと語り継がれて来たというのです。
 万葉人の無常観には、命のはかなさに関する場合と、世の中のはかなさに即していう場合があります。次に、いくつか挙げてみます。

 

 うつせみの世は常なしと知るものを秋風寒み思ひつるかも〔巻第三・四六五〕
 世の中は空しきものと知る時しいよよますますかなしかりけり〔巻第五・七九三〕
 世間を常無きものと今そ知る平城の京師の移ろふ見れば〔巻第六・一0四五〕
 隠口の泊瀬の山に照る月は盈昃しけり人の常無き〔巻第七・一二七0〕
 世間も常にしあらねば屋戸にある桜の花の散れる頃かも〔巻第八・一四五九〕
 言問はぬ木すら春咲き秋づけば黄葉散らくは常を無みこそ〔巻第十九・四一六一〕
 うつせみの常無き見れば世の中に情つけずて思ふ日そ多き〔巻第十九・四一六二〕
 世の中は常無きことは知るらむを情尽すな大夫にして〔巻第十九・四二一六〕

 

 このように『万葉集』では、世の中のはかなさ、人の命のはかなさをうたった無常の歌がたくさんあります。そして、無常を詠った歌がある一方で、道に関する歌もたくさんあります。謡われる道も、様々な「道」があります。
 例えば、〔巻第五・八00〕では〈道理〉が語られています。〈父母を 見れば尊し 妻子見れば めぐし愛し 世の中は かくぞ道理〉とあります。両親は尊く思われ、妻子は愛しく感じられるというのが、この世の道理だというわけです。〔巻第六・九七四〕では、雄々しい男子のための〈丈夫の行くといふ道〉が語られています。〔巻第十一・二三七五〕では〈恋する道〉、〔巻第十七・四00九〕では、路傍の神である道祖神が〈玉桙の道の神たち〉と示されています。道についての歌で特に注目すべきは、〔巻第二十・四四六八〕と〔巻第二十・四四六九〕でしょう。この二首では、無常において道を行くという構成を示しています。

 

 うつせみは数なき身なり山川の清けき見つつ道を尋ねな〔巻第二十・四四六八〕
 渡る日の影に競ひて尋ねてな清きその道またも遇はむため〔巻第二十・四四六九〕

 

 〔巻第二十・四四六八〕では、この世は儚いという認識の上で、自然の清らかさを眺めながら道を尋ねることが述べられています。〔巻第二十・四四六九〕は、来世もまた清らかな道に巡り逢うために、太陽と共に道を尋ねることが述べられています。〈渡る日の影に競ひて〉とは太陽の光と時を争うことで、無常な時の移ろいに遅れないようにということが意図されています。ちなみに、この時代での「影」は現代でいう「光」を意味しています。
 以上のように、『万葉集』には、命や世の中を無常と観る歌や、道を求める歌が詠われているのが分かります。


 第二項 古今和歌集
 『古今和歌集』は、醍醐天皇の命による二十巻におよぶ勅撰和歌集です。成立は905年(延喜5年)のほか諸説あり未詳です。国風文化の興隆を象徴する成果であり、平安王朝の貴族の美意識が反映されています。歌数は約1100首、作者は127人以上で時代は100年以上にわたっています。
 古今和歌集の特徴は、「たをやめぶり」と言われます。「たをやめぶり」とは、賀茂真淵の『にひまなび』に、〈古今和歌集の歌はもっぱら手弱女(たをやめ)のすがた也〉とあるように、繊細優美で女性的な歌風を意味しています。万葉集の「ますらおぶり」と対比される概念です。
 古今和歌集にも、無常観を基にした歌がいくつもあります。

 

 空蝉の世にもにたるか花ざくらさくと見しまにかつちりにけり〔巻第二・七三〕
 ねても見ゆねでも見えけりおほかたは空蝉の世ぞ夢には有りける〔巻第十六・八三三〕
 夢とこそいふべかりけれ世の中にうつつある物と思ひけるかな〔巻第十六・八三四〕
 もみぢばを風にまかせて見るよりもはかなき物はいのちなりけり〔巻第十六・八五九〕
 世の中はなにかつねなるあすかがはきのふのふちぞけふはせになる〔巻第十八・九三三〕
 世の中は夢かうつつかうつつとも夢ともしらず有りてなければ〔巻第十八・九四二〕

 

 このように、古今和歌集には無常をうたった歌がたくさんあります。無常を詠うことが和歌の特質だとすら思えてきます。
 『古今和歌集』の〔真名序(撰集論)〕では、〈仁、秋津洲の外まで流れ、恵、筑波山の陰より茂し〉と語られています。天皇の仁徳は国外まで及び、その恩恵は筑波山の木陰の茂りよりも深いというのです。文章からは平穏な太平の雰囲気が感じられます。それに続いて、〈淵変りて瀬と為るの声、寂々として口を閇し、砂長けて巌と為るの頌、洋々として耳に満つ〉と語られています。深い淵が浅瀬に変わってしまうような無常を感じさせる声は、ひっそりと静まりかえり、小さな砂が成長して大きな岩石となるようなめでたいことを祝う声ばかりが、いたる所で絶えず耳に聞こえて来るという状況です。安らかな気持ちになれる描写です。この状況において、〈既に絶えたるの風を継がむと思ひ、久しく廃れたるの道を興さむと欲ふ〉と続くのです。陛下は、すでに絶えてしまった和歌撰集の風習を継承しようと思われ、久しく廃れていた歌の道を再興なさろうとされたわけです。そして歌集が編纂され、その中には無常の歌も数多く詠われているのです。和歌の道とは、無常を詠うということでもあるのです。
 このことには注目すべきです。世の中が混乱し、栄えしものが滅びる中で無常を詠うというのは分かります。実際に日本史の中では、窮まった状況で無常を詠って心を慰めるという実例がたくさんあります。ですが、日本人は太平の世でも無常を感じ、無常を詠うのです。桜が散る情景を見ては、無常を感じるのです。あたかも、終わりを想うことなく、美しさがありえないかのように。
 例えば『北条重時家訓』には、〈たのしきを見ても、わびしきを見ても、無常の心を観ずべし。それについて、因果の理を思ふべし。生死無常を観ずべし〉とあります。日本人は、楽しいときも、侘しいときも、無常を観ずるのです。
 そして、この無常観は、潔さに繋がります。美しさとは、究極的には、死や滅びの間際の潔さにあるのです。日本においては、無常を詠うことが和歌の道を求めることに連なり、美しさに繋がるのです。


 第三項 新古今和歌集
 『新古今和歌集』は、後鳥羽院の命による、二十巻におよぶ第八番目の勅撰和歌集です。1205年(元久2年)に成立後、院の意向により改訂が続けられました。『古今和歌集』を継承しようとの自負が伺えます。歌数はすべて短歌で1978首、武士の支配が強まった時代の王朝貴族の危機感が背景にあると言われています。
 〔仮名序〕には、〈大和歌は、昔天地開けはじめて、人のしわざいまだ定まらざりし時、葦原中国の言の葉として、稲田姫素鵝の里よりぞ伝はれりける〉とあります。和歌は、天と地が始まり、まだ人間の営みが定まらないくらいの時期から、日本の言葉として、神々の住む里から伝わったものと語られています。続いて、〈しかありしよりこの方、その道盛りに興り、その流れ今に絶ゆることなくして、色に耽り心を述ぶるなかだちとし、世を治め民を和らぐる道とせり〉と語られています。言葉が神々より伝わって以来、歌の道は盛んになり、その伝統は現在に至るまで絶えることなく、個人的には恋愛において心情を表現する形となり、社会的には世の中を治め国民を安心させる道となったと記されています。
 このことから、日本という国は、歌を謡うことによって安定・繁栄する国だということがわかります。特に、和歌の道が〈世を治め民を和らぐる道〉だという点は重要です。この〈世を治め民を和らぐる道〉において、新古今和歌集でも無常が詠われるのです。〔巻第八・八三一〕や〔巻第八・八三九〕などは、「無常の心を」という題名です。〈世を治め民を和らぐる道〉ならば、無常の歌など詠わない方が良いと思われるかもしれませんが、それは浅はかな考えだと思われます。〈世を治め民を和らぐる道〉ならばこそ、無常の歌が詠われる必要があるのです。無常ゆえの諦観、無常ゆえの覚悟、それこそが必要なのです。次に示す無常の歌を詠んでみてください。

 

 はかなさをほかにもいはじ桜花咲きては散りぬあはれ世の中〔巻第二・一四一〕
 世の中は見しも聞きしもはなかなくてむなしき空のけぶりなりけり〔巻第八・八三〇〕
 いつ歎きいつ思ふべきことなればのちの世知らで人の過ぐらむ〔巻第八・八三一〕
 つくづくと思へばかなしいつまでか人のあはれをよそに聞くべき〔巻第八・八三九〕
 暮れぬまの身をば思はで人の世のあはれを知るぞかつははかなき〔巻第八・八五六〕
 思へども定めなき世のはかなさにいつを待てともえこそ頼めね〔巻第九・八七九〕
 夕暮れに命かけたるかげろふのありやあらずや問ふもはかなし〔巻第十三・一一九五〕
 過ぎにける世々の契りも忘られていとふ憂き身のはてぞはかなき〔巻第十五・一三九三〕
 心にもまかせざりける命もて頼めもおかじ常ならぬ世を〔巻第十五・一四二三〕
 世の中を思へばなげて散る花のわが身をさてもいづちかもせむ〔巻第十六・一四七一〕

 

 ここには、圧倒的な美しさがあります。『新古今和歌集』においても、このように美しい無常の歌があり、道を求める歌があります。詠われる「道」も様々です。〔巻第七・七三九〕では〈わが道〉として、わたしの奉ずる歌の道が、〔巻第七・七五三〕では正しい政道として〈道ある御代〉が、〔巻第十・九八五〕では悟りの境地に達する〈まことの道〉が、〔巻第十六・一五七八〕では畏れ慎むべき臣下の道である〈君に仕ふる道〉が、〔巻第十八・一七六三〕では家芸である蹴鞠と歌の〈君が代に逢へるばかりの道〉が、〔巻第十八・一八一四〕では我が子への恩愛を詠う〈子を思ふ道〉があります。

 

 わが道を守らば君を守るらむよはひはゆづれ住吉の松〔巻第七・七三九〕
 近江のや坂田の稲を掛け積みて道ある御代の初めにぞ春く〔巻第七・七五三〕
 悟りゆくまことの道に入りぬれば恋しかるべき古里もなし〔巻第十・九八五〕
 朝ごとに汀の氷踏みわけて君に仕ふる道ぞかしこき〔巻第十六・一五七八〕
 君が代に逢へるばかりの道はあれど身をば頼まず行末の空〔巻第十八・一七六三〕
 位山跡を尋ねて登れども子を思ふ道になほまよひぬる〔巻第十八・一八一四〕

 

 以上のように和歌における道を見てきましたが、最後に次の歌を挙げて締めとしたいと思います。

  奥山のおどろが下も踏み分けて道ある世ぞと人に知らせむ〔巻第十七・一六三五〕


第二節 随筆
 随筆とは、自己の見聞・体験・感想などを筆の任すままに書いた文章のことです。
 日本三大随筆の中から『方丈記』と『徒然草』を選んで、無常と道の関わりを見ていきましょう。


 第一項 方丈記
 『方丈記』は、鴨長明(1155~1216)による鎌倉時代初期の随筆です。
 鴨長明は、賀茂神社の社家生まれの歌人です。遁世し、その生活と心情を記した随筆である『方丈記』は、世と人の無常を説きます。多くの古典を踏まえ、和漢混淆文で書かれています。日本人の人生観・世界観に多大な影響を与えました。無常観を表現した文章の代表的な古典とされています。
 その無常観は、圧倒的な美しさをたたえています。『方丈記』は〈行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし。世の中にある人と栖(すみか)と、またかくの如し〉という流麗な文章から始まります。うたかた(泡沫)とは、水面に浮かぶ泡のことです。世の中の人や住処は、泡沫のようにすぐ消えてしまうというのです。
 人間そのものに対しては、〈朝に死に、夕に生るる習ひ、(ただ)、水の泡にぞ似たりける〉と語られています。朝に死ぬ人もいれば、夕べに生まれる人もいます。まさに人間は水の泡ごとくです。それに続いて、〈知らず、生れ・死ぬる人、何方より来りて、何方へか去る〉と問われます。この問いは実に重要です。生まれるということと、死ぬということは、究極的には知り得ないものなのでしょう。どこから来て、どこへと去って行くのか。問いは発せられども答えはなく、〈また知らず、仮の宿り、唯が為にか、心を悩まし、何によりてか、目を悦ばしむる。その主と栖と無常を争ふさま、言はば、朝顔の露に異らず〉と続きます。無常の世における仮の住処は、誰のために心を悩ませ、何によって楽しみ得るのでしょうか。その主人と住処が争うように変遷するさまは、あたかも朝顔とその露との関係と同じだと語られています。
 無常の修辞の末、最後には〈自ら、心に問ひて曰く、世を遁れて、山林に交はるは、心を修めて、道を行はむとなり。しかるを、汝、姿は聖人にて、心は濁りに染めり〉とあります。自らの心に問いかけてみると、世を逃れて山林に入るのは、仏道を修めるためだといいます。しかし、風采は聖人のようでも、その心は煩悩にまみれているではないか、と。そして自問は続き、終わりをむかえたとき、〈その時、心、さらに、答ふる事なし〉と、幕が閉じられています。


 第二項 徒然草
 『徒然草』は、吉田兼好(1283頃~1352頃)による鎌倉時代末期の随筆です。
 吉田兼好は、歌人であり、随筆家でもあり、遁世者でもありました。随筆『徒然草』の内容は多岐にわたり、世と人の無常を論じ、仏道修行の重要性を説いています。中世の知識人の思索の跡が、多彩な文体で表現されています。
 〔第七段〕では、〈あだし野の露消ゆる時なく、鳥部山の烟立ち去らでのみ住み果つる習ひならば、いかに、もののあはれもなからん。世はさだめなきこそ、いみじけれ〉と語られています。無常だからこそ、この世は素晴らしいのです。それゆえ、〈飽住み果てぬ世に、みにくき姿を待ちえて何かはせん〉と語られています。〔第四十九段〕では、〈人はただ、無常の身に迫りぬる事を心にひしとかけて、つかの間も忘るまじきなり。さらば、などか、この世の濁りも薄く、仏道を勤むる心もまめやかならざらん〉とあります。人はただ、死が身に迫っていることを意識し、つかの間もそれを忘れてはならないとされています。そうすれば、この世への未練も薄れ、仏道へ専心する心も強くすることができるのだと語られています。
 仏の道に関して〔第五十八段〕では、〈心は縁にひかれて移るものなれば、閑かならでは道は行じがたし〉とあります。心は縁というものに導かれて移るものなので、閑かさの中でなければ道を修めるのは難しいとされています。そこで〔第七十五段〕では、〈いまだまことの道を知らずとも、縁を離れて身を閑かにし、事にあづからずして心をやすくせんこそ、しばらく楽しぶとも言ひつべけれ〉と語られています。まだ道を悟っていなくとも、俗縁を離れて閑静に身を置き、世事にかかわらず心の安定を得るとすれば、一時的にせよ、心が満たされるというのです。さらに〔第九十二段〕では、〈道を学する人、夕には朝あらん事を思ひ、朝には夕あらんことを思ひて、かさねてねんごろに修せんことを期す〉とあります。仏道を学ぶ人は、夕には翌朝を思い、朝になると夕方を思って、その時にあらためてじっくり修行しようと心に期す必要があるというのです。
 武の道についても言及されています。〔第八十段〕では、〈兵尽き、矢きはまりて、つひに敵に降らず、死をやすくして後、始めて名をあらはすべき道なり〉とあります。兵力は尽き果て、矢を射尽くし、最後まで敵に降らず、平然と死を迎えてから、はじめて名声が得られるのがこの道なのだというわけです。
 道全般についても〔第百五十段〕で、〈天下の物の上手といへども、始めは不堪の聞えもあり、むげの瑕瑾もありき。されども、その人、道の掟正しく、これを重くして放埒せざれば、世の博士にて、万人の師となる事、諸道かはるべからず〉と述べられています。名人もはじめは下手と噂されて欠点もあるものです。ですが、道の掟に正しく重んじて勝手なことをしなければ、皆の師となれると語られています。これはどの道でも同じことだというのです。


第三節 物語
 物語は、「ものがたる」ことです。つまり、はじめは口承文芸でした。語るという形式を取って口から口へと伝承していくものでしたが、文字の発達とともに文章として綴られて行きました。日本の物語は、口承文芸から文字文芸へと続いています。
 日本において、人生の雅を叙述する物語の系譜は、『竹取物語』、『宇津保物語』、『落窪物語』、『源氏物語』という作品に見られます。特に、その頂点に立つのが『源氏物語』です。
 また、武士の合戦を通して、勇ましさを叙述する物語は軍記物語と呼ばれます。その系譜は『保元物語』、『平治物語』、『平家物語』、『太平記』、『源平盛衰記』といった作品に見ることができます。この中でも、『平家物語』と『太平記』は特に有名で秀逸です。


 第一項 源氏物語
 『源氏物語』は紫式部(973頃~1014頃)の作品です。『紫式部日記』によれば1008年(寛弘5)には途中まで成立し、1021年(治安1)には流布していたことが分かっています。
 本居宣長(1730~1801)は「もののあはれ」を表現したものと言い、折口信夫(1887~1953)は「いろごのみ」と述べました。思想的には、神仏習合を含めた仏教信仰との関わりも重要です。
 『源氏物語』における無常は、例えば〔葵〕に〈とまる身も消えしもおなじ露の世に心おくらむほどぞはかなき〉とあります。生き残っている身にも死んだ者にも、同じく露のように儚い世なのに執着の心を持つとは儚いことだという意味です。〔総角〕では〈桜こそ思ひ知らすれ咲きにほふ花ももみぢも常ならぬ世を〉とあります。桜が悟らせてくれるというのです。咲き誇る花も紅葉も、世は無常だということを。
 また、道については、〔絵合〕で〈道々に物の師あり、まねび所あらむは、事の深さ浅さは知らねど、おのづから移さむにあとありぬべし〉とあります。諸道にはそれぞれの師匠が居ます。学ぶところがあるのは、深さ浅さは別として、自然と伝承された中で残ったものがあるからだというのです。
 このように、『源氏物語』の中でも無常や道について語られています。その中でも特筆すべきは、〔御法〕における、光源氏が無常と道の関係について述べた箇所です。

 

 臥しても起きても涙のひる世なく、霧りふたがりて明かし暮らし給ふ。いにしへより御身のありさま思し続くるに、「鏡に見ゆる影をはじめて、人には異なりける身ながら、いはけなきほどより、悲しく常なき世を思ひ知るべく、仏などのすゝめ給ひける身を、心強く過ぐして、つひに来し方行く先もためしあらじと覚ゆる悲しさを見つるかな。今はこの世にうしろめたきこと残らずなりぬ。ひたみちにおこなひに趣きなむに、さはり所あるばじきを、いとかくをさめむ方なき心惑ひにては、願はむ道にも入り難くや」とやゝましきを、「この思ひ少しなのめに、忘れさせ給へ」と、阿弥陀仏を念じ奉り給ふ。

 <現代語訳(玉上琢弥 訳)>
 寝てもさめても涙はとめどなく流れ、目も涙に霧りふさがって日を暮らしておいでになる。昔からの御自分の有様を考えつづけて御覧になると、「鏡にうつる顔だちを始めとして、皆とは違うわが身ながら、幼い時に母親に死に別れる不幸に会って、この世の無常を悟れよと、仏などが手引きしてくださっている身なのに、気強くも押し切って、とうとう最後に、過去にも未来にも例はあるまいと思われる悲しみに会ったことだ。もはやこの世には何の心残りもなくなってしまった。一筋に仏道を修行するのに邪魔はないはずだが、こんなにまでしずめようのない惑乱状態では、仏の道にも入れないであろう」と気がとがめるので、「この悲しみの心を少しはやわらげて、忘れさせてください」と、阿弥陀仏をお念じになる。


 第二項 平家物語
 『平家物語』は、13世紀前半に成立したと推定されています。作者は未詳です。仏教の影響が強く、仏教的な因果論が語られています。日本人の無常観を代表するものとして、『平家物語』の冒頭〔祇園精舎〕の言葉はあまりにも有名です。

 

 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。
 沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
 おごれる人も久しからず、唯春の世の夢のごとし。
 たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。

 

 祇園精舎は、古代インドの舎衛城郊外にあった仏教の寺院のことです。沙羅双樹の花は、釈尊入滅のとき、いっせいに色を変えたと言われています。この文章は、日本人の無常観を表現したものの中でも最高峰でしょう。『平家物語』では、ここ以外にも素晴らしい無常の表現があります。
 例えば、有名な〔先帝身投〕の場面における無常があります。敗北が決定的であることをみてとった二位尼が、神器を身につけ、安徳帝を抱いて、悲壮な最期を迎えます。〈悲しき哉、無常の春の風、忽ちに花の御すがたをちらし、なさけなきかな、分断のあらき浪、玉体を沈め奉る〉と詠われています。春の風で花のようなお姿は散りゆき、荒波により天子のおからだは沈んでしまわれました。
 そしてまた、寂光院の寂寞さと、女院の転変を表現した〔大原入〕における無常があります。〈無常は春の花、風に随って散りやすく、有涯は秋の月、雲に伴って隠れやすし〉と詠われています。無常は風で散りゆく春の花に例えられ、限りある人生は雲に隠れてしまう秋の月に例えられています。
 このように『平家物語』には、栄えるもの、驕れるものの滅びがあります。それどころか、義に殉じるものの滅びも語られています。そこには、すべてのものの滅び行く悲哀感が流れ、滅びの倫理が浮かび上がります。この悲哀感には、仏教の影響が見られます。それゆえ、この無常の物語における「道」には、仏教と無常が強く作用しています。
 例えば〔祗王〕では〈かやうに穢土を厭ひ、浄土をねがはんと、ふかく思ふいれ給ふこそ、まことの大道心とはおぼえたれ〉とあり、現世を厭い、極楽浄土への往生を願うことが大いなる道心であると語られています。しかし、人の心は複雑なものです。〔物怪之沙汰〕では〈うき世を厭ひ実の道に入りぬれば、ひとへに後世菩提の外は、世のいとなみあるまじき事なれども、善政をきいては感じ、愁をきいてはなげく、これみな人間の習なり〉と語られ、出家しても、人の世の出来事に一喜一憂するのは人間として当然の習いだと述べられています。〔熊野参詣〕でも、〈うき世を厭ひ、まことの道に入り給へども、妄執はなほつきずと覚えて、哀れなりし事共なり〉とあり、出家しても妄執を断つことができない様が語られています。〔女院出家〕でも、〈浮世を厭ひ、まことの道にいらせ給へども、御歎はさらにつきせず〉とあり、出家したところで嘆きは尽きることがないというのです。
 〔僧都死去〕では〈人の親の心は闇にあらねども、子を思ふ道にまよふ程も知られける〉とあります。親の心は闇ではないけれども、子を思う道は迷うものだということが語られています。〔維盛入水〕にあるように、〈たかきも賤しきも、恩愛の道は力およばぬ事なり〉ということなのでしょう。身分の上下によらず、恩愛の道はどうにもならないとされています。〔六道之沙汰〕で〈ただ恩愛の道ほどかなしかりける事はなし〉とあるように、親子の情愛ほど悲しい物はないのかもしれません。〔一門大路渡〕にも〈あはれたかきもいやしきも、恩愛の道程かなしかりける事はなし。御袖を着せ奉りたらば、いく程のあるべきぞ。せめての御心ざしのふかさかな〉とあります。御袖をおかけしたからといって、どれほどのことがあるのでしょうか。まことに切実な親の愛情の深さだと語られています。この語りの後、〈たけきもののふどもも、みな涙をぞながしける〉と続きます。勇猛な武士も皆、涙を流すのです。
 また、〔宮御最期〕では、死に際において無常を詠うという和歌の道が美しく語られています。〈埋木のはな咲く事もなかりしに身のなるはてぞかなしかりける〉と、自身の生涯が埋もれ木に花が咲かないことに例え、我が身が埋もれたまま最期を迎えるのを悲しみます。そして、〈これを最後の詞にて、太刀のさきを腹につきたて、うつぶさまにつらぬか(ッ)てぞうせられける〉と、最後に和歌を詠い、太刀にて自害します。〈其時に歌よむべうはなかりしかども、わかうよりあながちにすいたる道なれば、最後の時も忘れ給はず〉と、このような時に歌を歌うことなどできなさそうなものですが、若いときから親しんだ道だったので最後のときにも忘れることはできないと記されています。
 〔願書〕では、〈運を天道にまかせて、身を国家に投ぐ。試に義兵をおこして、凶器を退けんとす〉と、天道という観念が出てきます。物事の趨勢は運に左右されます。運は天道に左右され、そこに無常による諦観が仄見えますが、同時に無常による覚悟も見られます。
 最後に、〔鏡〕の一説を取り上げます。〈道をうしなはじとおぼしめす御心ざし、感涙おさへ難し〉とあります。ここでは、芸道を絶やすまいとお思いになった天皇の御志に対し、感動の涙をおさえがたいことが語られています。


 第三項 太平記
 『太平記』は、応安・永和(1368~79)頃に成立したと推定されています。作者は諸説ありますが不明です。元弘・建武の内乱から南北朝内乱までの半世紀を描いた軍記物語で、全40巻で構成されています。『平家物語』の仏教的な因果論と比較し、『太平記』では儒教の影響が強いことが特徴です。物語の中で、儒教的な名分論が語られています。
 『太平記』の〔序〕には、「天の徳」と「地の道」という概念が出てきます。〈蒙窃かに古今の変化を採つて、安危の所由を察るに、覆つて外無きは、天の徳なり〉とあります。古から今にいたる世の移り変りのにおいて平和と乱世の由来を考えると、万物を覆うものが天の徳になります。天の徳は、〈明君これに体して国家を保つ〉と言われ、明君がこの徳を身に備えて国を治めるものとされています。一方、〈載せて棄つること無きは、地の道なり〉とあります。国家の運営を任せて疎んずることのないものが地の道になります。地の道は、〈良臣これに則つて、社稷を守る〉と言われ、臣下が道理に従って、国家の祭祀を守るものとされています。天の徳は〈もしその徳欠くる則は、位有りといへども、持たず〉と、それがなければ帝位を維持することはできないと語られています。地の道は、〈その道違ふ則は、威有りといへども、保たず〉と、それがなければ、権勢があっても保つことができないとされています。ゆえに、〈後昆顧みて、誡めを既往に取らざらんや〉とあり、後世の人たちは歴史を顧みて、過去から教訓を学ぶべきことが説かれています。
 徳性によって政治を行うという徳治の思想が見られるように、『太平記』は儒教色の強い作品です。仏教色の強い『平家物語』とは対照的ですが、『太平記』にも無常観があります。
 〔巻第三〕では、〈実を結んで陰をなし、花落ちて枝を辞す。窮達時を替へ、栄辱道を分つ〉と無常が詠われています。樹木が実を結んで葉陰をつくるようになると、花は散って枝から離れていきます。困窮と栄達は時とともに移り変り、栄光と恥辱は道を分かつものだとされています。〔巻第六〕では〈この世の中の有様、ただ夢とや謂はん、現とや謂はん〉とあり、〔巻第九〕では、〈栄枯地を易へたる世間は、夢幻とも分けかねたり〉と述べられています。栄枯の交わる世の中は、まるで夢まぼろしだと語られています。〔巻十五〕では〈うたたねの夢よりも尚あだなるは此比みつるうつつ也けり〉とあり、夢よりも現実の方がはかないと嘆いています。ここから分かるように、徳治を説きながらも無常観が下敷きにされているのが、『太平記』の面白いところです。
 最終巻である〔巻第四十〕では、〈治まれる代の音は安くして楽しみ、乱れたる世の音は恨んで忿ると云へり〉とあります。平和な時代の音楽は心安らかで楽しく、乱世の時代の音楽は心に背いて憤らせるというのです。その上で、〈日本の歌もかくの如くなるべし〉と述べられています。ですから、〈政を正しくし邪正を教へ、王道の興廃を知るはこの道なり〉と語られているのです。つまり、政治を正して、何が誤りで何が正しいかを教え、徳による王道の興廃を知るのは、日本の和歌の道なのだと説かれているのです。

 

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