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『日本式 正道論:第十章 道の思想形』

【目次】
第一節 道という言葉
 第一項 日本語の道の定義
 第二項 漢字の道の成り立ち
第二節 日本の心と日本の道
 第一項 心と道
 第二項 私ではなく公へ
第三節 日本の道と思想
 第一項 思考と思想
 第二項 思想間
 第三項 思想としての道
  道の前提性
  道の方向性
  道の枠組性

 


『第十章 道の思想形(しそうけい)』
 日本史において、日本の道の伝統が展開されて来ました。
 日本の偉大な先人たちが、実に様々な仕方で、道について言及しています。各人の意見は、実に多様な面から述べられています。ですから問題は、道についての意見間の関係性を明らかにすることです。それぞれの道の関連をたぐり、道に対する包括的で統合的な思想を示すことが必要なのです。
 その道は、日本の歴史に根付いた、日本における道です。ですからその道は、日本の道の思想となります。日本では思想の「基」となるものが集まり、継続する様々な「型」が生まれます。型は互いに関係し合い、「形」となって表れます。
 そこで本書では、まずは道の思想形を論じます。次章で思想基を、次いで思想型について論じていきます。

 


第一節 道という言葉
 道とは、まずもって人間や獣が往来した後に出来るものです。人々が往来する場所の跡が、道路であり、道と呼ばれます。
 ですが日本においては、道という言葉にそれ以上の意味が込められています。往来する道に、思想としての意味が添えられているのです。

 


第一項 日本語の道の定義
 言葉の意味を調べるには、まずは辞書を引くのが一番です。
 『日本国語大辞典[第二版](小学館)』では、次のように、訓読みの道(みち)と、音読みの道(どう)が定義されています。

【道・路・途・径(みち)】
[一]人の行き来するところ。また、その往来にかかわる事柄をいう。
(1) 通行するための筋。通行の用に供せられる所で、地点をつないで長く通じているもの。道路。通路。
(2) 特に大路、大通りに対して、小路、路地などをいう。
(3) (1)によって至りつく土地。地方。国。さかい。また、六道をいう。
(4) (1)を進んで行く、その途中。途上。道中。
(5) (1)を進み行くこと。行き向かうこと。道行き。旅行。
(6) みちのり。道程。行程。また、長さの単位。
[二]人の進むあり方。人の行為・生き方について規範とすべき筋。
(1) そのものの分、または定めとして、よりしたがわねばならぬ筋。また、物事が必然的に成り行く筋、ことわり。道理。条理。
(2) 神仏、聖賢などが示した道。神仏、聖賢の教え。教義。教理。特に、仏道をいう場合が多い。
(3) 事をなすにあたってとるべきてだて。手段。方法。やり方。特に、正当な方法。
(4) (修飾語を受けて)特定の方面のこと。むき。すじ。かた。
(5) 特に、専門の方面。専門的な方法。学問、芸能、武術、技術などの専門の分野。中世以後、単なる技芸としてでなく、人間としての修行を目的として道という場合がある。
(6) 目的、結果などに至りつくべきみちすじ。到達、達成のためにふまねばならぬ過程。

【道(どう)】
(1) 通行するところ。通りみち。みちすじ。
(2) 人の守るべき正しいすじみち。修行のみち。さとり。
(3) 老荘の教え。
(4) 方法。やり方。手段。技芸。学問。
(5) 言う。語る。
(6) 仏教で、衆生の輪廻する世界。
(7) 行政上の区画。
(8) 北海道のこと。

 訓読みの道(みち)の[一]は、人が行き来きし、往来する道路です。この道路を、[二]では思想的な段階で論じています。実際に歩く道路の情景を、思想的な観念に投影しているのです。それが、日本の道という言葉なのです。

 


 第二項 漢字の道の成り立ち
 「道」という言葉は漢字なので、漢字の成り立ちによる意味を持ちます。白川静(1910~2006)の『字統』、『字訓』、『字通』を引いてみましょう。

1.『字統』の道
 首と辵とに従う。古文の字形は首と寸とに従い、首を手(寸)で携える形。金文には首と辵と又とに従う字があり、のちの導の字にあたる。辵は歩く、行く意。首を手(又)に携えて行く意で、おそらく異族の首を携えて、外に通ずる道を進むこと、すなわち除道(道を祓い清めること)の行為をいうものであろう。道を修祓しながら進むことを導といい、修祓したところを道といった。

2.『字訓』の道
 首+辵。古文は首と寸とに従い、首を携える形。異族の首を携えて除道を行う意で、導く意。祓除を終えたところを道という。

3.『字通』の道
 「み」は神聖のものにつけて用いる語。「ち」は「ちまた」「いづち」など道や方向をいう古語。道は霊の行き通うところでもあり、またそこをうしはく「みちの?」があると考えられていた。地域について「みちのく」「みちのしり」のようにいう。人の通行するところから、人の履践する方法や道理の意となり、その道理を教えるときには「みちびく」「みちびき」という。ミは甲類。

 


第二節 日本の心と日本の道
 日本の道は、人々の往来する場所を思想として語ることによって、重要なものとして受け継がれてきました。
 そこで道の思想としての働きを把握するためには、日本人の心の歴史を探ることが必要になります。『日本書紀』には〈子々孫々、清明心を用(も)て天闕(みかど)に事(つかえ)奉(まつ)らむ〉とあり、『続日本紀』には〈明き浄き直き誠の心〉が示されています。心に曇りがないことが、天皇や神に仕える心構えとして語られています。このような日本人の心が、日本の道を生み育てて来たのです。
 『太閤記』や『信長記』を著した小瀬甫庵(1564~1640)は、『童蒙先習』において、〈道より楽(たのしき)はなし〉と述べています。心が楽しいが故に、思想としての道が生まれるのです。つまり、道の思想は心にとって楽しいことなのです。

 

 第一項 心と道
 日本人の心は、道へと向かい合います。そこで、心と道とが結び付きます。

 
10_01.bmp[図10-1] 心と道

 

 

 日本における心と道の関係を、先人達の言葉の中に見ていきます。
 最澄(767~822)は、〈道心あるの人を名づけて国宝となす(『山家学生式』)〉と述べています。道心は菩提心で、悟りという真実の道を求める心です。その道心を持つ人を、崇敬すべき国家の宝として、国宝と述べています。
 空海(774~835)は『遍照發揮性靈集』において、〈物の荒癈は必ず人に由る。人の昇沈は定めて道に在り〉と言い、〈人を導くは教なり。教を通するものは道なり。道、人無ければ擁(ふさが)り、教、演ぶること無きときは癈(すた)る〉と述べています。人と道の相互関係が語られています。
 貞慶(1155~1213)は、〈出離の道、ただ心に在り(『興福寺奏状』)〉と述べ、仏の道が心にあることを述べています。
 鴨長明(1155~1216)は、〈道を尊ぶには、まづ心をうるはしく使ふにあるなり(『無名抄』)〉と述べています。
 証定(1194~?)は、〈道即ち心なり(『禅宗綱目』)〉と述べています。
 『御成敗式目(1232)』には、〈ただ道理の推すところ、心中の存知、傍輩を憚らず、権門を恐れず、詞を出すべきなり〉とあります。道理の推すところにより、心の中でよく理解していることを、仲間に遠慮することなく権力を恐れず、言葉として発すべきことが記されています。
 無住(1226~1312)の『沙石集』には、〈仏の道に入らむ人は、慈悲を心に習ひ好むべきなり〉とあり、〈道はこれ仏法なり。心に深く染むべし〉とあります。
一遍(1239~1289)の言行を伝える『一遍上人語録』には、〈心の外に法を見るを名づけて外道とす〉とあります。
 『山上宗二記(1586)』には、〈古えより何れの道も相承の正しき師を尋ね、程門の雪にたたずむ志を称す〉とあります。程門の雪にたたずむとは、弟子が師の門前に教えを乞うてたたずむうちに雪が積もったという故事から、熱意の程を言います。何れに道においても、正しき師を尋ねて道を志すことが大事だとされています。
 『南方録』には、〈ひたすら茶の正道、世につたへんことを根本にふかく志玉へば、我あやまりをもかくす心なく〉とあります。道を深く志すことが、誤りを隠すことない心につながることが示されています。
 柳生宗矩(1571~1646)は、〈道ある人は、本心にもとづきて妄心をうすくする故に尊し(『兵法家伝書』)〉と述べています。道ある人とは、物事の道理をよくわきまえた人だというのです。
 沢庵(1573~1645)は、〈神道、歌道、儒道とて、道多く候へども、皆この一心の明なる所を申し候(『不動智神妙録』)〉と述べています。神の道や歌の道、儒教の道など多くの道は、一つの心の明らかとなるところなのだと語られています。
 宮本武蔵(1584~1645)の『五輪書』の[地之巻]では、〈日々に其道を勤むるといふとも、心のそむけば、其身はよき道とおもふとも、直なる所より見れば、実の道にはあらず〉と語られています。心に背く道は、実の道ではないのです。[空之巻]においては、〈空といふ心は、物毎のなき所、しれざる事を空と見たつる也。勿論空はなきなり。ある所をしりてなき所をしる、是則ち空也〉と空の心について語られています。そこで空について、〈直なる所を本とし、実の心を道として、兵法を広くおこなひ、たゞしく明らかに、大きなる所をおもひとつて、空を道とし、道を空と見る所也〉とあり、空が道と結びつけて語られています。
 熊沢蕃山(1619~1691)は、〈志といふは道に志す也。初学の人、道に志ざして、いまだ道をしらずといへども、心思のむかふ所正也(『集義和書』)〉と語っています。心は道へ向かうのですから、心は道へ志すのです。道というものがよく分からなくとも、まずは道へ向かおうとすれば、正しいところへ向かっているのだと述べています。
 貝原益軒(1630~1714)は、〈道ヲ信ズル志ハ、専一ニシテ、アツカルベシ(『五常訓』)〉と述べています。また、〈道理はわが一心にそなはり、その用は萬物の上にあるなれば、まづわが一心の道理をきはめ、次には萬事につきてひろき道理をもとめて、わが心中に自得すべし(『大和俗訓』)〉と語っています。道理は心に具わり、その適用は全てに及びます。ですから、心の道理を極めてから、全ての道理を求め、自分の心の中に得るべきだというのです。
 山鹿素行(1622~1685)は、〈人心、道心、心を正しうする、皆知覚及び理共に具はるなり(『聖教要録』)〉と述べています。心が正しければ、知識や理論は備わってくるものだと語られています。
 大道寺友山(1639~1730)は、〈武士道の學文と申は内心に道を修し外かたちに法をたもつといふより外の義は無之候(『武道初心集』)〉と述べています。心の内に道があり、外見に法を保つのが武士の道だというのです。
荻生徂徠(1666~1728)は、〈故に先王の道は、礼を以て心を制す(『弁道』)〉と述べています。道は心を制すのだと語られています。
 手島堵庵(1718~1786)は、〈道は則本心なり(『会友大旨』)〉と述べています。
 中沢道二(1725~1803)は、〈道とは何んぞ。心の事じゃ(『道二翁道話』)〉と述べています。
 本居宣長(1730~1801)は、〈生れながらの真心なるぞ、道には有ける(『玉勝間』)〉と述べています。
 良寛(1758~1831)は、〈仏は是れ自心の作なり、道も亦有為に非ず(『良寛道人遺稿』)〉と述べています。仏は自分の心が造るのであり、道もまた無常ではないということです。
 柴田鳩翁(1783~1839)は、〈心の体は性なり、心の用は情なり。心は道なり、さればこそ性は道の体、情は道の用なりとも申してある。これでみれば人と道とは、離れとうても、離れられるものではござりませぬ(『続々鳩翁道話』)〉と語っています。
 大塩中斉(1793~1837)は、〈道よりして観れば、則ち心は身を裹み、身は心の内に在り(『洗心洞?記』)〉と述べています。道という観点からすると、心は身を包み、身は心の内にあるという捉え方になるというのです。
 吉田松陰(1830~1859)は、〈已に其數箇の道を知るに至らば、我心に於て豈悦ばしからざらんや(『講孟余話』)〉と述べています。人はそれぞれの道を知り、その道を歩むというのです。それは、自身の心にとって、何と喜ばしいことかと松陰は語っています。
 山岡鉄舟(1836~1888)は、〈武士道は、本来心を元として形に発動するもの(『剣禅話』)〉と述べています。武士道は心を元として形となるというのです。
 鈴木大拙(1870~1966)は、〈無心是れ道で、心がなくなれば道もまた無である。そこに心と道と一如の世界が成り立つ。道も心も無の世界で一如となるのである。この一如の場所、身心是道ということができる、また道是れ身心ということができる『無心ということ』〉と述べています。無心とは、一切の妄念を離れた心のことです。ですから、〈なんでもすべきこと、そのことに成りきれば、無心である。無心であれば、無事である。それが平常心である。そこに道がある『日本的霊性』〉と語られているのです。
 河上肇(1879~1946)は、〈『論語』には、「朝に道を聞かば夕に死すとも可なり」という孔子の言葉があるが、ここに「道」というのは、やはり心のことである(『獄中贅語』)〉と述べています。
 柳宗悦(1889~1961)は、〈道は心の深さに関わる(『茶道を想う』)〉と述べています。
 以上のように日本においては、心と道が結びつけて論じられています。心があるから道があるのです。その相互作用において、心が道へ向かうのは、志のためです。道が人へ向かうのは、導きのためです。まとめると、次図のようになります。

10_02.bmp [図10-2] 志と導き

 

 自分の心が他の心を認めるとき、志が芽生えて道へと向かいます。ある心が他の心を認めたとき、他の心たちによって積み重ねられてきた実績が感じられるからです。それは、他の心たちによって踏み固められた大地として、つまりは道として現れます。この道は、他の心たちの歩んだ跡であり、この道がその心を導くのです。
 『論語』の[衛霊公篇] には、〈子曰わく、人能く道を弘(ひろ)む。道、人を弘むるに非ず〉とあります。人間が道を広めるのであり、道が人間を広めるのではないという意味であり、人間あっての思想という考え方がみられます。
 伊藤仁斎(1627~1705)の『語孟字義』には、〈道はおのずから導くところ有り。徳は物を済(な)すところ有り〉とあります。また、〈心とは、人の思慮運用するところ〉とあり、〈心の之くところ、これを志と謂う〉とあります。
 藤田東湖(1805~1855)が起草した『弘道館記』には、〈弘道とは何ぞ。人、よく道を弘むるなり〉とあります。人間あっての思想という考え方は日本でもみられます。
 ですが、日本においては、『等持院殿(尊氏)御遺書』に、〈道ヨク天下ヲ治ム。故ニ道徳仁義ヲ天下ノ主トシ、吾謙リテ道ニ事エズンバアルベカラズ〉とあるように、思想あっての人間という考え方もあるのです。日本の道は、その思想の力によって、人の心を導くのです。
 ここにおいて、人と道との関わりが明らかになります。日本においては、人と道は相互に影響を与え合い、支え合うのです。

 


 第二項 私ではなく公へ
 日本の道は、日本人の心に基づいています。ですから、道は、私ではなく公と関わります。

 
10_03.bmp[図10-3] 心と公と道

 

 心は、公と私の双方へ作用します。ですが、道と結びつくのは公の方です。私は道には至りません。日本においては、私ではなく公が道として論じられています。
『十七条憲法(604)』の[十五条]では、〈私(わたくし)を背(そむ)きて公(おおやけ)に向(ゆ)くは、これ臣の道なり〉とあります。
 明恵(1173~1232)の『梅尾明恵上人伝記』には、〈日々に志を励まし、時々に鞭をすゝめて、大願を立てて、善知識の足下に頭をつかへて、身命を惜しまずして道行を励ますべし〉とあります。志によって道を行くことが語られています。
 『正法眼蔵随聞記(1235~1238)』では、〈私曲を存ずべからず。仏祖行来れる道也〉とあります。自分で勝手に考えて行うことを戒め、釈尊や歴代の祖師たちが踏み行ってきた道について語られています。
 無住(1226~1312)の『沙石集』には、〈ほむるとも誹るとも、心動かずして、道に入る志を堅くすべし〉とあり、〈形は塵に交りて、志道を慕ふ。これ実の道人なるべし〉とあります。
 北畠親房(1293~1354)は、〈己ガ欲ヲステ、人ヲ利スルヲ先トシテ、境々ニ對スルコト、鏡ノ物ヲ照スガ如ク、明々トシテ迷ハザランヲ、マコトノ正道ト云ベキニヤ(『神皇正統記』)〉と述べています。自分ではなく他人を優先することが、まるで鏡が自身ではなく他者を映して迷いなく輝くことに例えられています。そのようなあり方が、正道なのだと語られています。
 沢庵(1573~1645)は、〈欲念を離れて岩木の如くにては、万事を作す事ならざる也、欲をはなれすして、無欲の義に叶ふは道也(『玲瓏集』)〉と述べています。
 林羅山(1583~1657)は『三徳抄』で、〈義理ニヲコル処ヲバ道ノ心ト云フ〉と述べています。そこでの心は、〈心ハ一ニシテ二ツナキヲ、道ノ心ト人トノ差別ヲ云バ、道ノ心ハ理也。人ノ心ハ気也。是又、心ハ善ニシテ、気ニハ善悪アルノ本拠ナリ〉とされています。人心は気をまじえているから、とかく私に傾きます。そこで道心が理のみであるに対して、人心は気だと大まかに言っているのです。私に傾きがちな人心を、道心の理で義理に向かわせるのです。それゆえ、義理のあるところを道の心というのです。
 熊沢蕃山(1619~1691)は、〈欲と云は此形の心の生楽なり。欲の、義にしたがつてうごくを道と云(『集義和書』)〉と述べています。此形の心の生楽とは、肉体的な気質の心の持つ生の楽しみのことです。単なる心の持つ正の楽しみだけでは、道とはなりません。その欲が、義を伴うことで道となるというのです。
 山鹿素行(1622~1685)の『山鹿語類』では、〈我説く所の理更に遠からず離れるべからず、人々皆日用之間に因り、而其心に快きを號して道と云、其内にやましきを人欲と云〉とあります。素行の言う理とは、特別に深遠なものではなく、身近なものであり、また、その人によるというものでもないのです。人は皆その日常において自分の心にこころよく感ずるものを道といい、心にやましく感ずるものを人欲と呼んでいるのだと言うのです。
 伊藤仁斎(1627~1705)は、〈道とは、天下の公共にして、一人の私情にあらず。故に天下のために残を除く、これを仁と謂う。天下のために賊を去る、これを義と謂う(『語孟字義』)〉と述べています。
 貝原益軒(1630~1714)は、〈道心とは、仁義禮智の本性よりおこる善心なり(『大和俗訓』)〉と述べています。道の心は、仁義礼智の本性より起こる善の心なのだと考えられています。
 大道寺友山(1639~1730)は、〈心に道を修すると申は武士道正義正法の理にしたがひて事を取斗らひ毛頭も不義邪道の方へ赴かざるごとくと相心得る義也(『武道初心集』)〉と述べています。心に道を修行する武士道では、正義や正しい法に従うのだと語られています。
 荻生徂徠(1666~1728)は、〈心なる者は、人身の主宰なり。善をなすは心に在り、悪をなすもまた心に在り。故に先王の道を学びて以てその徳を成すは、あに心に因らざる者あらんや(『弁名』)〉と述べています。善も悪も心次第なのだと語られています。
 石田梅岩(1685~1744)は、〈道ニ志シ有者ハ道ニ身ヲ任用事ヨリ他ハナシ。道ニ任用テ他事ナクバ聖ニ至ラズト謂モ今日成処ハ道ノ用ナリ。私シ事ハナシ(『莫妄想』)〉と述べています。
 手島堵庵(1718~1786)は、〈正道といふはよく本心を弁へぬれば毫厘も私なきゆへ、上を上としてうやまひ、下は下として背かず、貴賤あきらかにわかりたるをいふ也(『会友大旨』)〉と述べています。
 二宮尊徳(1787~1856)の『二宮翁夜話』では、〈人道は私欲を制するを道とし〉とあり、人の道は私欲を制御することで道となると語られています。そこで、〈人道の勤むべきは、己に克の教なり、己は私欲也〉と語られているのです。私欲である己に打ち克つのが人の道なのです。
 大原幽学(1797~1858)は『微味幽玄考』で、〈人心とは、暑いとか寒いとか唯自分の身而已思ふをいふ〉と述べています。それゆえ、〈人心は危き者也〉と語られています。それに対し、〈道心とは、人を道(ミチビ)く為めに己が身を思ふいとま無く、暑き時は人も暑からむと思ひ、寒き時は人も寒からむことを思ひ、身を慎み人を憐むの志故、自然と家も斉ひ慶も来る〉とあります。慶とは、幸いや喜びのことです。道の心とは、己の身を顧みずに人のことを思い、自身の身を慎みて人を憐れむ志のことだというのです。その志の故に、うまく行うことができるとされています。
 『百姓分量記』では、〈道とは往来の道の如し。道もなき処をありくを私といふ。其私が功じて悪をば作る也〉とあります。道が無いのが私だというのです。私が悪となるのです。
 柳宗悦(1889~1961)の『心偈』では、〈道とは何なのか。詮ずるに、私を越える道である〉と語られています。
 以上のように、道とは私ではなく、公のものなのです。心が公であるとき、道と通じるのです。道は、公を通じて心に伝わるのです。そこでは、心が道の方へ志すことで、公に近づきます。それと同時に、道が心を導くことで公に近づきます。心と道は、公によって関わり、相互に影響を与え合い、支えあうのです。逆に、心が公ではなく私の方へ向かうときは、義の伴わない欲の形を取ります。以上をまとめると、次図のようになります。

 
10_04.bmp[図10-4] 志と公と導

 

 


第三節 日本の道と思想
 道が心と公で結びつくとき、道の思想が芽生えます。道の思想は、思想ですから、思想の形を有しています。思想形とは、思想の型が互いに関連し合って表れたものを言います。

 

 第一項 思考と思想
 道の思想を論じる前に、まず思想とは何かを考えてみましょう。
 思想とは、あるまとまった物の見方や考え方のことです。思想は、思考に様式を与えます。そこで、思考と思想の違いをはっきりさせておきます。
 思考は、「前提-推論-結論」という形式を有しています。思考の表現は、ある任意の前提と推論と結論のつながりによって成り立ちます。

 
10_05.bmp[図10-5] 思考の形式

 

 思考は、単なる感情の爆発や突発的な衝動ではない限り、この「前提-推論-結論」という形式を持っています。それに対し思想は、前提と推論と結論の繋がりに関わる「前提・方向・枠組」という形式を持っています。

 
10_06.bmp[図10-6] 思想の形式

 

 思想は「前提・方向・枠組」という形式を持ちますが、どのような「前提・方向・枠組」であるかは、思想ごとに様式が異なります。どのような思想の様式かによって、どういった「前提・方向・枠組」であるかが決まるのです。状況ごとに思考は、思想を通じて次のように「前提→推論→結論」という順序で展開されていきます。

 
10_07.bmp[図10-7] 思想による「前提→推論→結論」の思考

 

 前提から推論へ向かう「仮説選択」では、たくさんの前提から、その状況に合った意味のある文(命題)を選び出します。そのため「仮説選択」は、意味論(semantics)に関わります。ある状況において特定の文(命題)を選び出すためには、どのような方向で仮説の選択を行うか、どのような枠組で仮説の選択を行うかが問題となります。つまり、選択方向と選択枠組が必要になるのです。この二つの働きによって、あるときは「AはBである」という文章を選択し、別の場合では「AはCである」という文章を選択することができるのです。
 推論から結論へ向かう「仮説演繹」は、選ばれた文(命題)を論理規則によって演繹し、結論を導き出します。そのため「仮説演繹」は、統語論(syntax)に関わります。状況に沿った結論を導き出すために、どのような方向で仮説を演繹させるか、どのような枠組で仮説を演繹させるかが重要になります。つまり、演繹方向と演繹枠組が必要です。演繹方向により、論理規則の組み合わせ方が決まり、演繹枠組により、導出するための論証に関する妥当性が保障されます。
 また、「前提→推論→結論」という順序に対し、「結論→推論→前提」という逆順を考えることもできます。この逆順は、以下のように展開されます。

 
10_08.bmp[図10-8] 思想による「結論→推論→前提」の思考

 

 結論から推論へ向かう「仮説検証」は、結論が事実に基づいた状況と適合しているかどうかを確認する作業により行われます。そのため「仮説検証」には、統計学や心理学などが用いられます。結論が状況に合っているかどうかを検証するためには、状況に対する仮説の方向性が合っているか、状況に対する仮説が枠組内にあるかどうかが問題となります。つまり、検証方向と検証枠組が必要なのです。この二つの働きによって、導き出された結論において、正しい部分と間違っている部分が浮かび上がるのです。
 推論から前提へ向かう「仮説形成」は、思想の形式である「前提・方向・枠組」をより正しいものに再構成することです。状況と結論における検証結果から、正しさを伸ばし、間違いを直すように「前提・方向・枠組」を形成するのです。正しさを伸ばすためには、状況を結論へと導くための修正を前提に施します。間違いを直すためには、状況と結論の誤差を収束させるように前提を調節します。そこにおいて、「前提・方向・枠組」という仮説をどのような方向で修正するか、どのような枠組で修正するかが問題となります。つまり、形成方向と形成枠組が必要なのです。この二つの働きによって、「前提・方向・枠組」の形成という離れ業が行われるのです。ただし、この形成はきわめて不安定です。なぜなら、方向を形成する方向が必要であり、枠組を形成する枠組が必要であるという、論理の飛躍が行われているからです。
 以上のように、「仮説・選択」→「仮説・演繹」→「仮説・検証」→「仮説・形成」という循環の蓄積によって、ある思想は、状況に対応することができるのです。

 


 第二項 思想間
 思想は、世の中にたくさんあります。すべての思想は、そのどれもが根底的には仮説です。なぜなら思想は意味と関わり、世界の複雑さから、現実の状況においては100%の真偽を保証できないからです。つまり。人間は完全な思考に到達することができないのです。
そのため、どの思想を用いるかによって、思考による結論の正しさが変化します。それゆえ各思想は、「前提・方向・枠組」の形式を、自身の様式によって適切に修正する必要があります。そのためには、思想間における比較検討が必要になります。
 例えば、思想Aと思想Bがあるとき、思想であるからには、思想Aも思想Bも「前提・方向・枠組」という形式を有しています。ただし、どのような「前提・方向・枠組」であるかは、思想Aと思想Bで異なります。それは、思想Aと思想Bでは、構成要素が違いますし、各々の要素の関係から成立している様式も異なるからです。つまり各思想は、「前提・方向・枠組」という共通の思想形を持ちますが、その形式がどのようなものであるかは、その思想がどのような要素から成る様式であるかによって異なるのです。
 それぞれの思想は、他の思想による表現を比較検討し、「仮説・検証」と「仮説・形成」によって自己の思想様式を統一的にまとめ直します。

 
10_09.bmp[図10-9] 思想間の比較検討

 

 ですから、他の思想との関係において、その思想は成り立つのです。その思想の正しさは、他の思想との関連において、他の思想との共通部分を軸にして、異なる部分を比較することで、語ることができるのです。そのとき、比較相手の思想の一部を取り込んだり、拒絶したりして、試行錯誤を繰り返すのです。
 当然ですが、道の思想も、他の思想との比較検討を通して安定を保つことができるのです。無住(1226~1312)の『沙石集』には、〈正と云うは一切の邪念なく分別無きなり。有念は皆邪なり。正にあらず。正念といふは則ち無念、真実の心なり。この外は皆余事なり。この深信は、道に近かるべし〉とあります。正しいとは、邪念と独断がないことであり、真実の心であり、道に近いものだというのです。

 


 第三項 思想としての道
 日本の思想史を追っていくと、道に対する言及がいたるところで見られます。神道は神々の道を、仏道は仏の道を、儒道は聖人の道を、武士道は武士の道を、町人道は町人の道を、芸道は芸の道を、政道は政治の道について述べています。
 日本における道についての営為を追っていくと、道がそのまま思想としての側面を有していることに気付きます。日本における「道」が、「思想」と意味的に重なっているのです。
 道という言葉を「和歌の道」のように「~の道(みち)」として使用するにせよ、「柔道」や「茶道」のように「~道(どう)」として使用するにせよ、そこには思想が関わっているのです。「和歌の道」は「和歌の思想」と重なり、「柔道」は「柔(やわら)の思想」と重なり、「茶道」は「茶の思想」と重なります。ですから、神道は神々の思想を、仏道は仏の思想を、儒道は儒者による聖人の思想を、武士道は武士の思想を、町人道は町人の思想を、芸道は芸の思想を、政道は政治の思想を論じていることが分かります。
 そのため、道が思想である場合と、思想そのものが道という言葉で表される場合があるのです。

10_10.bmp[図10-10] 思想そのものが道という言葉で表される場合

 

 そのため、道が思想であるとき、道の思想は「思想の形式」を有しています。また、思想そのものが道という言葉で表されるとき、道は「思想の形式」を含んでいます。「思想の形式」とは、思考における「前提・方向・枠組」のことです。
 さらに注目すべきことは、「思想の形式」である「前提・方向・枠組」のそれぞれが、道という言葉で表される場合もあるのです。つまり、道は用法により、前提という意味で使われたり、方向という意味で使われたり、枠組という意味で使われたりするのです。

10_11.bmp[図10-11] 「思想の形式」が道という言葉で表される場合

 

 図について説明します。中央の道は「思想」であり、「前提・方向・枠組」の全ての要素を含んだ使われ方をします。上の道は、「前提」の意味で使われる場合です。左下の道は、「方向」の意味で使われる場合です。右下の道は、「枠組」の意味で使われる場合です。
 例えば、「和歌の道」という言葉を考えてみます。「日本には古来より和歌の道がある」と言うとき、道は「思想」という意味の言葉になります。ですから、「日本には古来より和歌の思想がある」と置き換えられます。「大和言葉は、そのまま和歌の道です」と言うとき、道は「前提」を表現した言葉になり、「大和言葉は、そのまま和歌の前提です」と置き換えられます。「これからの和歌の道はどうあるべきか」と言うとき、道は「方向」を表現した言葉になり、「これからの和歌の方向はどうあるべきか」と置き換えられます。「それは既に和歌の道ではない」と言うとき、道は「枠組」を表現した言葉になり、「それは既に和歌の枠組ではない」と置き換えられます。
 道は思想として現れる一方で、文脈によっては、道という言葉が「思想」という意味で使われる場合があり、思想形の「前提・方向・枠組」の内の一つを表現する場合もあるのです。

10_12.bmp[図10-12] 道という言葉の現れ方

 

 以上のように、道が思想となり、道は思想となり、道は思想の形式となるのです。それが、日本の道という言葉なのです。これが、道の思想形なのです。

 


  道の前提性
 日本語における道という言葉は、「前提・方向・枠組」という「思想の形式」における「前提」を意味する言葉として使われる場合があります。そこで、道の前提性について示します。
 道が、前提として語られるとき、それは「道理」という型を取ることが多いようです。慈円(1155~1225)の『愚管抄』は道理物語とも呼ばれますが、そこでは道理が前提として語られる場合があります。[巻第三 神武?仁徳]の〈コレマタ臣下イデクベキ道理ナリ〉などは、道理が社会を支えている基本的な前提条件として語られています。
 道理という型を取らずとも、道そのものが前提に近い意味を持つ場合も多々あります。例えば、吉田兼倶(1435~1511)の『唯一神道名法要集』では、〈道トハ、一切万行の起源也〉とあり、道は物事が起こる源として語られています。藤原惺窩(1561~1619)の『惺窩先生文集』では、『老子』の影響から〈道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万を生じて、万は一に帰す〉と、道が全てを生み出す存在として述べられています。伊藤仁斎(1627~1705)の『古学先生文集』では、〈道は、万物の由って生まるるところなり〉とあり、道が前提となって万物を生むとされています。三浦梅園(1723~1789)の『玄語』では、〈道は、それに由ることによって万経が(何ものかの)路となるところのもの、である〉とされています。道が前提になって、万物が通るということです。
 辞書上でも、〈そのものの分、または定めとして、よりしたがわねばならぬ筋。また、物事が必然的に成り行く筋、ことわり。道理。条理〉と、前提条件としての道の意味があります。ですから、「大和言葉は、そのまま和歌の道です」と言うとき、「大和言葉は、そのまま和歌の前提です」と置き換えることが可能なのです。

 

  道の方向性
 日本語における道という言葉は、「前提・方向・枠組」という「思想の形式」における「方向」を意味する言葉として使われる場合があります。そこで、道の方向性について示します。
 白川静(1910~2006)の『字通』から道(みち)の意味を調べてみると、〈「み」は神聖のものにつけて用いる語。「ち」は「ちまた」「いづち」など道や方向をいう古語〉とあります。つまり、大和言葉である日本語として、道は、神聖な方向という意味を持つのです。
辞書上でも、〈特定の方面のこと。むき。すじ。かた〉と、方向としての道の意味があります。ですから、「これからの和歌の道はどうあるべきか」と言うとき、「これからの和歌の方向はどうあるべきか」と置き換えることが可能なのです。

 

  道の枠組性
 日本語における道という言葉は、「前提・方向・枠組」という「思想の形式」における「枠組」を意味する言葉として使われる場合があります。そこで、道の枠組性について示します。
 北海道は、北の海の道ということですが、ここでの道は行政上の区画を表した枠組を意味しています。この用法は、律令制の「五畿七道」で、道が地理的な領域としての枠組を意味していることなどにも見られます。また、仏教の六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天)なども、一つの世界という枠組を規定しています。
 平安時代には、大学寮に「四道(紀伝道、明経道、明法道、算道)」という四つの学問領域が設けられました。
 辞書上でも、〈至りつく土地。地方。国。さかい。また、六道〉や〈特に、専門の方面。専門的な方法。学問、芸能、武術、技術などの専門の分野〉などと、枠組としての道の意味があります。ですから、「それは既に和歌の道ではない」と言うとき、「それは既に和歌の枠組ではない」と置き換えることが可能なのです。

 

 

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