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『日本式 正道論:第十二章 道の思想型・道筋』

【目次】
第一節 道の筋
第二節 経(永遠不変)と権(臨機応変)
第三節 活(動態)と統(統合)
第四節 文と武 
第五節 道の中

 


『第十二章 道の思想型(しそうがた)・道筋』
 前章において、道の思想基が示されました。
 思想は、思想ごとに独自の様式を備えています。日本における道の思想も、「神道・仏道・儒道」を基とした独自の様式を持っています。その様式によって、日本の道は、思想の形式である「前提・方向・枠組」を示すのです。
 日本の道の思想は、思想形を表すために、思想基に基づいた型を有しています。その型の種類は、道筋・求道・修道・道義として示すことができます。そこで本章では、まず道の思想型における「道筋」から見ていきます。

 


第一節 道の筋
 日本の道は、一つの思想様式です。
 思想である道の型を考えるとき、まずは道筋が立てられます。道筋とは、物事の条理における思想の展開の順序です。何かを思考するためには、何らかの筋を立てる必要があります。道の思想では、道筋が立てられます。
 道の思想では、道筋に沿って、求道と修道が行われます。求道とは、道を求めるということです。道を求めるということは、道とは何なのか、道とはどういうことなのかを問うということです。それと同時に、求道に伴って修道が必要になります。修道とは、道を修めることです。道を修めるとは、道を身に付けるということです。道を身に付けるということは、道を学び、道を歩むということです。求道において修道を行い、修道において求道を行うのです。このことを一般的に言うと、知恵を得てその知恵を実行すると同時に、実行する中で知恵を得ていくということです。
 道の思想は、求道と修道の両方を必要とし、双方へと向かいます。求道と修道は、相互に関連し合いながら、道筋に沿って進みます。

 
12_01.bmp[図12-1] 道筋に沿った求道と修道

 

 道筋は、道の思想において想定されます。では、どのように想定されるのでしょうか。それは、日本史において、道がどのように想定されてきたかを見ることで分かります。その想定の仕方をまとめると、次のような関係をとります。

 
12_02.bmp[図12-2] 道筋の想定

 

 道筋は、「経?権」の関係、「活?統」の関係、「文?武」の関係の間において、立てられるのです。それらの間において、道の筋が成り立つのです。よって、それぞれの関係を個別に見ていきます。

 


第二節 経(永遠不変)と権(臨機応変)
 道の思想の道筋を立てるための指標の一つとして、「経の道」と「権の道」の関係があります。経の道は、永遠不変の常に適う道のことです。権の道は、臨機応変で時宜に適う道のことです。
 この経と権は、道という言葉の両義性を見事に表現しています。道というものは、常に変わらず成り立つものとして考えられていながら、状況に応じて異なった様相を見せるものだからです。
 例えば、慈円(1155~1225)は〈世ノ道理ノウツリユク事ヲタテムニハ、一切ノ法ハタヾ道理ト云二文字ガモツナリ。其外ニハナニモナキ也(『愚管抄』)〉と述べています。世の中で道理は移り行くのですが、その移り変わり方にも道理があるというのです。そこでは、道理が変わるためには、さらに上位の道理が必要だということが想定されています。
 この道理が変わる道理という考え方は、経と権の関係に見ることができます。経と権に関する中国の書物としては『孟子』や『春秋公羊伝』、『論語集註』などが挙げられます。
 『孟子』の[離婁上篇]では、〈男女授受するに親(みずか)らせざるは礼〉とあり、男と女が物をやりとりするのに直接手渡ししないのが礼だとされています。その上で、〈嫂(あによめ)溺れ、これを援くに手を以てする者は権なり〉とあり、その趙注に〈権とは経(常道)に反して善なり〉とあります。権は、常に行うべきことに反しているのですが、善となることを指しています。男女が普段直接に手を触れるのは駄目ですが、おぼれるなどの非常事態の時にはよろしいということが記されています。
 『春秋公羊伝』には、〈権とは、経に反して、しかる後善有る者なり〉とあります。権(臨機応変)は経(永遠不変)に反するものと見ていることがわかります。反していますが、権は善であるとされています。
 朱子(1130~1200)は『論語集註』で〈五常は仁義礼智信を謂う〉と注し、〈所謂天地之常経也〉と胡氏の言をひいています。仁義礼智信は常に成り立つ経だというのです。また権に関しては、〈権は、称錘なり。物を称って軽重を知るゆえんの者なり〉と記されています。称錘は、秤(はかり)の錘(おもり)のことです。経は常に成り立つことで、権はバランスを取って成り立つことだとされています。また、朱子の『論語精義』にある程頤の説に、〈権はただ是れ経の及ばざるところの者、軽重を権量して、これをして義に合せしむ〉とあります。バランスを取って義に適うのが権で、そんなことをせずとも常に義に適うのが経だと考えられています。
 この経と権については、日本人も思索を深めています。
 中巌円月(1300~1375)は、〈経権の道は、国を治むるの大端なり。経は常なり、変ずべからざるものなり。権は常にあらざるなり、長ずべからざるものなり。経の道は秘吝すべからず、これを天下の民に示して可なり。権なるものは経に反きてその道に合ふものなり。反きて合はざれば、権にあらざるなり(『中正子』)〉と述べています。経はケチって閉まっておくのではなく、広く民に開示すべきものとして語られています。また権は、臨機応変の方策であり、引き伸ばして恒久化してはならないものとされています。権は経に背いているように見えますが、道に適っていて、道に適っていなければ権ではないと述べられています。
 林羅山(1583~1657)の『春鑑抄』には、〈仁・義・礼・智・信ノ五ヲ五常ト云ゾ。常ハ、ツネトヨムゾ。常ト云ハ、物ノ常ニアリテカハラザルヲ云ゾ。カハルナラバ常トハ云マヒゾ。此仁・義・礼・智・信之五ツノ道ハ、常ニシテカハラヌゾ。人ト云モノダニアラバ、天地開闢ヨリ以来、末代ニイタルマデニ、此道ノカハルコトハアルマヒホドニ、常ト云ゾ。サルホドニ、万代不易之法ト云ゾ。不易トハ、カハラズト読ゾ〉とあります。天地開けてより、仁義礼智信は常であるというのです。権については、〈権ノ道ト云ハ、法度ヲヒトツハヅシテモ、ノチハ直グナル道ヘイタル、ヲ云ゾ〉とあります。権の道は直正なる常の道に対し、禁じられていることに外れても正しい道に至ることだというのです。また、羅山の『貞観政要諺解』では、〈権ハ謀ナリ。常ヲ変スルヨリ云ナリ〉とあります。権は、計略をめぐらすことで、常を変えることだとされています。
 山崎闇斎(1618~1682)の『闢異』では、〈それ天下の道、経あり権あり、経は万世の常、人皆もつてこれを守るべきなり。権は一事の用、聖賢に非ずんば用ふる能はざる也〉とあり、朱子学の立場から権を聖人に限っています。永遠不変である経は万民に開かれていますが、臨機応変の権は聖人にしか実践できないと考えられています。
 中江藤樹(1608~1648)の『翁問答』では、〈時と処と位とによくかなひて相応したる義理を中庸となづけたり〉と中庸が語られています。その中庸に対し、〈権の体段、徹頭徹尾ことごとく中庸精微の神理〉と述べられています。権とは臨機応変に応ずることであり、すなわち中庸だと言うのです。権と経の関係は、〈経に反して道にかなふを権といへるは大なる誤なり〉とされています。経と権は、互いに反するものではないと藤樹は言います。そこで、〈礼法の迹を真実の道なりと心得て、聖人立法の本意、権道の妙をさとらずして、礼法になずみて、専にとりおこなひ、時中の神理にそむくをば、非礼となづけて、君子のせざる所なり〉と語られています。時中とは、時に応じて中を得ることです。非礼の礼とは、礼に似て礼でないもののことです。既存の礼に闇雲に従うのは、むしろ礼ではないのです。君子は、時に応じて、時に応じた礼を行うのです。ですから、〈権は聖人の妙用にして初学の人受用することあたはずといへども、工夫の準的はかならず権を目あてとすべし〉とされ、〈権を準的として工夫せざれば明徳を明にすべき道なし〉と語られています。初学者も権を目標として努力工夫すべきだという、朱子学を離れた独自の見解が展開されています。そのため、〈権の外に道なし。道の外に権なし。権の外に学なく学の外に権なし〉と言い、〈権は道の惣名なれば、権すなはち道、道すなはち権なる故に、道也といはんために権也といへるなり〉と語られているのです。時に応じたあり方が道であり、その他に道というものはないだと藤樹は言うのです。
 伊藤仁斎(1627~1705)は『語孟字義』において、〈程子の曰く、「権は、称錘なり。物を称って軽重を知るゆえんの者なり」〉と朱子の言葉を引いています。その上で、〈漢儒 経に反して道に合うをもって権とす。程子これを非とす。最も是なり。経は即ち是れ道。すでに是れ経に反せば、いずくんぞ能く道に合わん〉と述べています。仁斉の意識した漢儒とは、『春秋公羊伝』の著者のことです。また、〈経は即ち是れ道〉という言葉は『北渓字義』からの影響です。仁斎は、経と権を互いに反するものだとは考えていません。
 仁斎の見解は、〈権の字は当に礼の字をもって対すべし。経の字をもって対すべからず。けだし礼は時に因って損益すべし〉という立場です。つまり、礼は固定化されて弊害となりますから、時代によって多少の変化を加えて良いのです。そこで、権は礼に対置されるものとして考えられます。ですから、〈権は即ち是れ経、経は即ち是れ権。権は毎(つね)に経の中に在り、経と相離れず。ただ当に権もって経を済うと謂うべし〉と語られています。実に見事な意見です。権と経に関する考察は、ここで一つの到達点に達しています。臨機応変の権ですが、その権が場合ごとに違うといっても、その違ったことが時宜に適っているということを保障するために、常に正しい経というものを想定しておかなくてはなりません。臨機応変に対する権は、常に正しい永遠不変の経なのです。常に正しい永遠不変の経は、臨機応変に対応できる権なのです。ですから、権は経であり、経は権なのです。その場その時において、常に正しい経が、何であるかを問う営みこそ、権の役割なのです。
 荻生徂徠(1666~1728)の『弁名』には、〈経なる者は大綱領なり〉とあります。経は本筋になるもの、もとじめになるものだというのです。ですから、〈経なる者は、国家、制度を立つるの大綱領なり〉とされています。それに対し、〈礼は節目甚だ繁し。故にその末節に至りては、すなはち変じて宜しきに従ふのみ〉とされ、〈権は、礼にもまたこれあり〉と語られています。礼儀作法は、細かい規定が多いため、適宜変更を加えます。権も礼儀と同じだとされています。例えば、〈いはゆる権なる者は、舜の告げずして娶りしがごときこれなり〉として示されるものです。古代中国の聖人である舜は、親が舜を憎んで結婚を許さなかったので、舜は親に相談しないで結婚したということを引き合いに出して、権を説明しています。つまり徂徠においては、経は本筋であり、権は礼儀作法などの細かい規定を宜しく変えるものだと考えられているのです。
 本居宣長(1730~1801)の『鈴屋答問録』には、〈神道に教への書なきは、これ真の道なる証也。凡て人を教へておもむかするは、もと正しき経の道にはあらず、然るに其教のなきを以て、其道なしと思ふは、外国の小き道々にのみならひて、真の道を知らざる故のひがごと也。教のなきこそ尊とけれ。教を旨とするは、人作の小道也〉とあります。教えがあるなら、正しい経の道ではないというのです。これは慧眼です。何か教えを定めてしまうと、それが適合する場合があると同時に、それが合わない場合も考えられてしまいます。それゆえ、固定化した教えを定めてしまうと、それは経の道とは成り得ないのです。常に妥当する経は、何らかの正しさのために想定されます。ですが、それが教えとして固定化されると、つまりは設定されると、人間が完全な教えを作ることは不可能であるため、弊害となってしまうというのです。
 藤田東湖(1806~1855)は、〈学問・事業の一にし難きは、その故多端なるも、大弊四あり。曰く「躬行を忽(ゆるがせ)にす」。曰く「実学を廃す」。曰く「経に泥む」。曰く「権に流る」(『弘道館記述義』)〉と述べています。自ら実行することをおろそかにすること、役立つ学問を廃止すること、常道に拘泥して融通がきかないこと、情勢の変化に即して行き過ぎた処置をとること、これらを戒めています。経と権に関し、どちらかに偏るのではなく、その平衡が重要なのだというのです。
 長野義言(1815~1862)は、〈国政法則を以て行ふとも、神国の正道にあはずば又いかにかせん。唯その時々の法則は、その時々の規なれば、しわざは是にしたがひつつ、心は正道にとどめんことこそあらまほしけれ(『沢能根世利』)〉と述べています。国の法律(法則)は、その時その時で違うものです。ですから法律に従いながらも、心は正道に留めて置くことが大切だと語られています。
 以上のように、権は状況において時宜に適った変則の処置を取りますが、その適っているという判断のために、常で正しい経を想定しておかなくてはなりません。経の道を想定することで、権の道が、常に、時宜に適っていると判断することができるのです。この経と権の関係性の間において、道が立つのです。

 

第三節 活(動態)と統(統合)
 道の思想の道筋を立てるための指標の一つとして、道を「活字」とする見方と、道を「統名」とする見方があります。
 道を「活字」とする見方は、伊藤仁斎(1627~1705)が唱えています。まず『語孟字義』で、〈理の字 道の字と相近し。道は往来をもって言う。理は条理をもって言う〉とあり、道と理が違うことが述べられています。では、どう違うかというと、〈道の字はもと活字、その生生化化の妙を形容するゆえんなり。理の字のごときはもと死字、玉に従い里の声、玉石の文理を謂う〉とあります。活字は動作をふくむ意味の言葉で、死字に対します。死字とは、状態の形容をいう言葉です。道は活字ですから、動作を含む文字であり、往来に例えられています。〈道は流行をもって言う〉とあるように、道が変化していく状態によって語られるというのです。
 仁斎の『童子問』では、〈理は本死字、物に在って物を宰どること能わず〉とあります。理は死字で、状態の形容を表す文字ですから、物をつかさどること、つまり物の動きを捉えることはできないというわけです。ですから、〈学問は須く活道理を看んことを要すべし。死道理を守著せんことを要せず〉とされ、〈蓋し道や、性や、心や、皆生物にして死物に非ず〉と語られています。また、〈何となれば、流水は源もと有って流行す。活物なり。止水は源と無うして停蓄す。死物なり〉とあり、この文からも、活という字が動きと関連していることが分かります。道は活字であり、動きの流れの中にあって平衡を得るものですから、〈道とは、中庸に至って極まる〉と語られているのです。
佐藤一斎(1772~1859)も、〈道は固より活き、学も亦活く(『言志後録』)〉と述べています。
 仁斉や一斎は、道を活字として動態的なものとして捉え、理を死字として静態的なものとして捉えています。動態的なものは、過去が未来に影響を与えます。それとは逆に、静態的なものは、過去を顧みずに成り立ちます。ですから動態的に考えるならば、過去を考慮しなければなりません。この場合、過去を考慮するということは、時代の変遷を考慮するということです。道は、人々の動きや時代の動きの中で捉えられるものですから、道は動態的な状況における平衡として捉えられます。これは非常に卓抜で見事な見解です。
 ですが、この仁斎の道の見方とは異なった道の見方を荻生徂徠(1666~1728)は示しています。『徂來先生答問書』において〈教に古今なく、道ニも古今なく候。聖人の道にて今日の国天下も治り候事ニ候〉とあり、〈古の聖人之智は、古今を貫透して今日様々の弊迄明に御覧候〉とあることからも、徂徠が道を静態的、もしくは固定的なものと見ていることが分かります。
 徂徠は『弁道』で〈それ道は、先王の道なり〉と述べ、〈後世つひに中庸の道を以てする者は誤れり〉と仁斉の見解を否定しています。徂徠は〈孔子の道は、先王の道なり。先王の道は、天下を安んずるの道なり〉と述べ、天下を治めるための制度や法律に近い文脈で道を捉えています。そのため、道が先王の時代を規範として、固定的に考えています。ですが、この道の見方にも優れた見解が示されています。それは、〈道なる者は統名なり〉という意見です。統名であるとは、多くを総括した名称であるということです。そこでは、〈先王の道は、先王の造る所なり。天地自然の道に非ざるなり〉と考えられています。徂徠の考えでは、道とは人が造るところのものなのです。そこでは〈礼楽刑政は、先王これを以て天下を安んずるの道を尽くせり。これいはゆる仁なり〉と語られています。
 『弁名』においても、〈道なる者は統名なり。由る所あるを以てこれを言ふ。けだし古先聖王の立つる所にして、天下後世の人をしてこれに由りて以て行はしめ、しかうして己もまたこれに由りて以て行ふなり。これを人の道路に由りて以て行くに辟ふ。故にこれを道と謂ふ。孝悌仁義より、以て礼楽刑政に至るまで、合せて以てこれに名づく、故に統名と曰ふなり〉と語られています。道とは、古の王が立てたもので、人々も自分自身も、これによって物事を行うことだというのです。その道は、両親や兄弟と仲良くすることや、礼節・音楽・刑罰・政治などが合わさっているとされています。ですから道は、様々な事柄の統一的な名前だと語られているのです。徂徠は、〈かつ道もまたこれを道路に本づく。あに死活あらんや。ただ道はこれを行ふを主とし、理はこれを見るを主とす〉と言い、仁斎の道の見方を否定しています。徂徠の考えでは、見るべき対象が理であり、行うべき対象が道なのです。
 ですから徂徠は『学則』で、〈世は言を載せて以て遷り、言は道を載せて以て遷る。道の明らかならざるは、職としてこれにこれ由る〉と述べているのです。「職として」とは、主としてという意味です。つまり、時代の変遷とともに言葉が変遷し、言葉の変遷とともに先王の道が変遷するというのです。そのために、道は分かりづらいものになってしまい、その変遷は聖人の智恵によらなければならないのだと徂來は考えています。
 以上のように、伊藤仁斉と荻生徂徠の道に対する異なった見方があります。道に対する定義の違いと言ってしまえばそれまでですが、道の思想を深化させるには、二つの見方を比較検討する必要があります。
 徂徠が考えたように、道を統名とする見方は見事です。ですが、統名であるからこそ、動態的に見なければならないという面もあるのです。静態的に物事を見るならば、様々な基を統合した道が、いつの時代でも妥当すると考えることもできます。しかし、世の中は動態的に流動しますから、行うべき道も、動作を含む活字として変遷するのです。
 貝原益軒(1630~1714)は『慎思録』で、〈道なるものは天地を主宰し陰陽を総摂して万物を化生する所以のものなり。その流行を以てこれを道といひ、その気に主となりて条貫あるを以てこれを理といふ。その実、道と理とは一なり〉と述べています。益軒のように道を見るなら、道と理は一つのものとなるのです。道は流れの中で動き、条理を得るのです。
 つまり、道は統名であり、活字であるがゆえに中庸なのです。様々な言葉の統合である統名であるからこそ、動態的に中庸が必要なのです。だからこそ、仁斉は『語孟字義』で、〈誠とは、道の全体。故に聖人の学は、必ず誠をもって宗とす。しこうしてその千言万語、みな人をしてかの誠を尽くさしむるゆえんにあらずということなし。いわゆる仁義礼智、いわゆる孝弟忠信、みな誠をもってこれが本とす〉と述べ、徂徠が『弁名』で〈孝悌仁義より、以て礼楽刑政に至るまで、合せて以てこれに名づく、故に統名と曰ふなり〉と言い、共に近しい見解に至っているのです。
 千言万語の統名である道は、動態的に中庸なのです。様々な言葉の統合した名前である道は、時代の動きの中で動態的に中庸を取る活字なのです。ですから、この活字と統名の関係の間において、道が立つのです。

 


第四節 文と武
 道の思想の道筋を立てるための指標の一つとして、「文道」と「武道」の関係があります。
 道において、文と武は非常に重要です。文と武は、求道を行うにしろ、修道を行うにしろ、密接に関わります。文武二道や文武両道という言葉には、道の思想としての特性が現れています。
 慈円(1155~1225)の『愚管抄』には、〈文武ノ二道ニテ國主ハ世ヲオサムルニ〉とあります。国を治めるためには、文と武の両方が必要とされるのです。
 『平治物語』には、〈天下を保ち国土を治むること、文を左にし、武を右にするとぞ見えたる。たとへば人の二の手のごとし。一つも欠けてはあるべからず〉とあります。また、〈あ(ッ)ぱれ文武二道の達者かなとぞ見えたりける〉という記述もあります。『太平記』では、〈文武の二道同じく立てて、今の世を治むべきなり〉と語られています。このように軍記物語では、文と武の二つの道を同じく立てることの重要性が説かれています。
 『十訓抄』には、〈およそ武士といふは、乱れたる世を平らぐる時、これをさきとするがゆゑに、文にならびて優劣なし。朝家には文武二道をわきて、左右のつばさとせり。文事あれば、必ず武備はる謂なり〉とあります。武と文の働きに優劣はないとされ、朝廷では文武二道を左右の翼と位置づけているというのです。
 北条早雲(1432~1519)の『早雲寺殿廿一箇条』では、〈文武弓馬の道は常なり。記すに及ばず。文を左にし、武を右にするは古の法、兼て備へずんば有べからず〉とあり、文武両道を用いて天下を治めることが述べられています。宮本武蔵(1584~1645)の『五輪書』では、〈武士は文武二道といひて、二つの道を嗜む事、是道也〉とあります。武士道においては、武だけではなく文も重要視されているのです。
 中江藤樹(1608~1648)の『翁問答』では、〈戈を止(やめる)といふ二字をあはせて武の字をつくりたり、文道をおこなはんための武道なれば、武道の根は文なり。武道の威をもちいておさむる文道なれば、文道のねは武なり。そのほか万事に文武の二ははなれざるものなり〉とあります。また、〈文は仁道の異名、武は義道の異名なり。仁と義はおなじく人性の一徳なるによつて、文武もおなじく一徳にして各別なるものにあらず。仁義の徳をよくさとりて、文武のさたをあきらむべし〉とあります。ここでは、「文⇔仁」、「武⇔義」という関係が語られています。
 熊沢蕃山(1619~1691)の『集義和書』には、〈世間に、文芸をしり武芸をしりたる者を、文武二道といふは、至極にあらず。これは文武の二芸といふべし。芸ばかりにて知仁勇の徳なくば、二道とは申がたかるべく候〉とあります。知識・仁・勇気の三徳があって、はじめて文武の二つの道だというのです。また、『集義外書』にも、〈大道の世を行めぐる両輪は文武にて候〉とあります。
 荻生徂徠(1666~1728)は『答問書』において、〈治まる時は文を用ひ、亂るゝ時は武を用ひ、只一箇の道にて、道に文道武道と申事は之無き候〉と述べています。
 松代藩家老である恩田民親(1717~1762)の『日暮硯』には、〈文武二道は武士の常に御座候へば〉とあり、〈文武両道とも、一入御出精遊ばされ候故〉とあります。〈幼少の子供まで文武二道に精力を励み〉ともあります。
 高杉晋作(1839~1867)の『遊清五録』では、〈士を取るに多くは武を以てす。故に我邦は武文の人を以て有道者と為す。考試も亦た多くは武を以てし、或は文を以てする者あり〉とあり、文と武の両方を取りますが、武に重きを置いています。
 哲学者である西周(1829~1897)は、道と文の関わりを強調し、〈文と道とは元と一つなるものにして、文学開くときは道亦明かなるなり(『百学連関』)〉と述べています。
 以上のように、文と武は道の両輪を成します。文なき武も、武なき文も十分ではありえないのです。文と武は互いに支え合い、文と武の関係の間において、道が立つのです。

 


第五節 道の中
 以上のように、道の思想の道筋が、どのように立つのかを見てきました。
 道筋は、「経?権」と「活?統」と「文?武」のそれぞれの関係を基にして、その間において立つのです。そこでは対になるものの関係性が重要なため、中庸や中道が必要になります。
 そのため次のように、関係性の中(なか)で中(あた)るという道の思想の道筋が成り立ちます。

 
12_03.bmp[図12-3] 道の中(なか)で中(あた)る

 

 道の思想の道筋は、道の中(なか)で中(あた)るということです。つまり、中道や中庸が重要ということです。
 最澄(767~822)は、〈中道の心を上となす(『得業学生式』)〉と両極端を離れた中正なる道を語っています。
 空海(774~835)は、〈中道正観に由るが故に、早く涅槃を得(『秘蔵宝鑰』)〉と言い、中道の正路によって涅槃に到達できると述べています。ここでの中道とは、囚われを離れた心によって、公正に現実を見た上で正しい行動を取ることです。
 日蓮(1222~1282)は『顕謗法抄』で、〈此日本には外道なし、小乗の者なし〉と語り、大乗について〈諸大乗経には中道の理王なり〉と述べています。ここでの中道は、いずれにもとらわれず現実を正しく見究めることです。
 真言律宗の叡尊(1201~1290)は、〈空有ニ着セズシテ空有ヲ失ザルヲ本意ト為ス、即中道也(『興正菩薩御教誡聴聞集』)〉と、非有非空の中道について述べています。
 『八幡愚童訓』には、〈正道は辺邪をはなれたる中道の名也〉とあります。
 『八帖花伝書』では、〈惣じて、道なども、直なる道をよき道と云、山坂有歪みたる道は悪しき道と言へば、謡も道にたとへ、直成が本意たるべし〉とあります。真っ直ぐな道がよき道だとされています。
 熊沢蕃山(1619~1691)は、〈中とのたまふものは、私心なく、よる所なく、天理にしたがひて、時所位の当然を執行ふなり(『大学或問』)〉と述べています。
 伊藤仁斎(1627~1705)は、〈道とは、中庸に至って極まる(『童子問』)〉と述べています。
 本居宣長(1730~1801)は、〈程々にあるべき限りのわざをして、穏(おだ)ひしく楽しく世を渡らふほかなかりしかば、今はた其の道といひて、別(こと)に教へを受けて、行ふべきわざはありなむや(『直毘霊』)〉とあります。道は、ほどほどにおいてあるべきだというのです。
 会沢安(1782~1863)は、〈中庸の語は道の立たる本を論ぜし詞なり(『退食間話』)〉と述べています。
 二宮尊徳(1787~1856)の『二宮翁夜話』には、〈人道は中庸を尊む〉とあります。
 藤田東湖(1805~1855)は、〈中庸ノ道ト云ハ、万物ノ理ヲ尽シ、事ニヨリ品ニヨリ、夫々其理ノ当然ニ叶フテコソ中庸トハイフベケレ(『壬辰封事』)〉と述べています。
 以上のように、道においては、程々・中道・中庸という考え方が必須です。道の思想の道筋は、道の中(なか)で、程々にことに中(あた)るのです。道の中(なか)で程々にことに中(あた)るということで道筋が立てられ、その道筋に沿って求道と修道へと向かうのです。
 そして、立てられた道筋は、求道と修道を通じて、道義を得るのです。

 

 

 

 第十三章 道の思想型・求道 へ進む

 

 第十一章 道の思想基 へ戻る

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